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第九話:境界線の向こう側

第一章:白い箱庭

長期入院病棟。

廊下は静かだった。足音だけが響く。

直子は、看護師に案内されて病室へ向かう。

「こちらです」

看護師が、ドアを開ける。

個室。窓から、冬の光が差し込んでいる。

ベッドの上に、少年が座っていた。

10歳。翔太。

痩せている。顔色は悪くない。けれど、どこか儚い。

翔太は、携帯ゲーム機を手に持っている。

画面を見ているが、目は冷めている。

「翔太くん、面会の方です」

看護師が声をかける。

翔太は、顔を上げる。

そして、笑った。

「こんにちは」

愛想のいい笑顔。

直子は、その笑顔を見て、胸が締め付けられた。

その笑顔には、感情がない。

大人の顔色を読みすぎて、摩耗してしまった笑顔。

直子は、椅子に座る。

「家庭裁判所の柊木です。少し、お話を聞かせてもらえますか」

「はい」

翔太は、ゲーム機を置く。

丁寧に、サイドテーブルの上に。

その動作も、完璧だった。

「体調は、どうですか」

「うん、大丈夫だよ」

「痛いところは?」

「ないよ」

「ご飯は、食べられてますか?」

「うん、食べてるよ」

翔太の答えは、すべて「大丈夫」だった。

何も問題ない。

何も困っていない。

そう言っている。

直子は、メモを取る。

「……寂しくありませんか?」

翔太は、少し考える。

「寂しい?」

「はい」

「……分かんない」

翔太は、首を傾げる。

「寂しいって、どういう感じ?」

直子は、その言葉を聞いて、息を呑む。

この少年は、「寂しい」という感情を忘れている。

いや、最初から感じることを許されていないのかもしれない。

「お母さんは、来てくれてますか?」

「うん、来てくれるよ」

「お父さんは?」

「……たまに」

翔太は、視線を落とす。

「お父さん、忙しいから」

「会いたいですか?」

翔太は、少し黙る。

「……会いたいかどうかも、分かんない」

そして、また笑う。

透明な笑顔。

「僕、変かな?」

直子は、何も言えなくなった。

翔太は、自分の感情が分からない。

何を望んでいいのかも、分からない。

ただ、大人が望む答えを言うことだけを、学んできた。

「退院したら、どうしたいですか」

翔太は、ゲーム機を見る。

「……分かんない」

「お父さんとお母さん、どっちと暮らしたい?」

「……どっちでもいい」

翔太は続ける。

「二人が、決めてくれるから」

「翔太くんは、決めなくていいんですか?」

「だって……」

翔太は、言葉を探す。

「僕が決めたら、誰かが困るでしょ」

直子は、その言葉を聞いて、胸が痛くなった。

10歳の子供が、大人の顔色を伺っている。

自分の意見を言うことが、誰かを困らせると思い込んでいる。

「……ありがとうございます」

直子は、メモを閉じる。

「また来きます」

「うん」

翔太は、また笑った。

直子は、病室を出る。

ドアを閉める。

廊下に立つ。

右手が、無意識に左手首に触れる。

この少年は、箱庭の中にいる。

白い、静かな箱庭。

誰も、彼を出そうとしない。


第二章:平行線の両親

直子は、別室で両親と面談する前に、資料を確認していた。

—— 父:会社員。現在は単身赴任中

—— 母:専業主婦。翔太の付き添いで病院近くのアパートに滞在

—— 離婚はしていないが、事実上の別居状態

直子は、資料を閉じる。

別室に入る。

父と母が、待っていた。

二人は、離れて座っている。

会話も、ない。

視線も、合わせない。

直子は、椅子に座る。

「お忙しいところ、ありがとうございます」

父が、小さくうなずく。

母は、何も言わない。

直子は、資料を開く。

「翔太くんの退院後の生活について、お聞かせください」

父が、口を開く。

40代。スーツ姿。眼鏡をかけている。

「治療方針は、医師に任せています」

声は、落ち着いている。

「費用は、すべて私が負担しています」

「……」

「退院後も、必要な支援は行います」

父の話し方は、合理的だった。

感情が、ない。

「お父様は、翔太くんとどのくらいの頻度で会われていますか」

「月に一度ほど」

「それは……」

直子は、言葉を選ぶ。

「翔太くんは、寂しがっていませんか」

「仕事があります」

父は、淡々と答える。

「私が頻繁に会いに行くことが、翔太のためになるとは限りません」

「……」

「専門家に任せた方が、適切です」

直子は、その言葉を聞いて、何かを感じる。

この父親は、距離を取っている。

父親という役割から、逃げている。

直子は、母を見る。

40代。疲れた顔をしている。目の下にクマがある。服も、少し乱れている。

「お母様は、いかがですか」

母は、少し黙る。

そして、震える声で言う。

「……私が、決めていいんでしょうか」

「決める?」

「退院後のこと」

母の声が、さらに震える。

「お医者様は、『ご家族で相談してください』って言うんです」

「……」

「でも、主人は『任せる』って言うだけで」

母は、ハンカチで目元を拭う。

「私が決めて、もし何かあったら……」

「何か?」

「翔太の病気が、悪くなったら」

母は、視線を落とす。

「それは、私のせいになるんじゃないか……」

「……」

「だから、決められないんです」

直子は、メモを取る。

「お二人で、話し合われることは?」

母が、小さく首を振る。

「……主人は、忙しくて」

父が、初めて母の方を見る。

「私は、合理的な判断をしようとしています」

「合理的?」

母の声が、少し強くなる。

「翔太は、あなたの息子です。データじゃありません」

「感情的になっても、何も解決しません」

父は、視線を戻す。

「私は、翔太のために最善を尽くしています」

「最善?」

母の声が、震える。

「月に一度しか会いに来ないのが?」

「……」

「翔太は、あなたを待ってるんです」

父は、何も答えない。

ただ、資料を見つめている。

二人の会話は、噛み合わない。

平行線のまま。

直子は、二人を見る。

父は、距離を取っている。

母は、責任を恐れている。

誰も、悪意はない。

けれど、誰も決断しない。

翔太の退院後の生活。治療の方針。

そのボールが、地面に落ちたまま、誰も拾おうとしない。

「責任の空白」が、そこにあった。

直子は、資料を閉じる。

「……分かりました。後日、また面談させていただきます」

両親は、うなずく。

けれど、二人は最後まで目を合わせなかった。

直子は、部屋を出た。


第三章:直子の変化

調査官室。

直子は、デスクに座り、報告書を書こうとする。

けれど、手が止まる。

翔太の顔が、浮かぶ。

透明な笑顔。

「僕が決めたら、誰かが困るでしょ」

その言葉が、耳に残っている。

以前なら、「子の福祉」を基準に、親権者や監護者を法的に指定する方向で淡々と調整しただろう。

どちらかに決める。

それが、仕事だった。

父親が適切か、母親が適切か。

白黒つける。

けれど、今は違う。

直子は、父と面会した。

「解決しないまま関わり続ける」という経験をした。

父を許したわけではない。

和解したわけでもない。

ただ、見た。

確認した。

それで、直子の中で何かが変わった。

この家族の「決められない状態」を、即座に断罪できなくなっていた。

白黒つけることが、本当に救いなのか。

翔太にとって、どちらかを選ぶことが、本当に幸せなのか。

直子は、ペンを置く。

右手が、無意識に左手首に触れる。

けれど、さするのではない。

ただ、触れているだけ。

確認するように。

直子は、窓の外を見る。

冬の空。灰色の雲が広がっている。

判断を、保留する。

それは、逃げではない。

直子は、そう自分に言い聞かせた。

けれど、一人で抱え込むのは、もう限界だった。


第四章:視点の依頼

直子は、スマホを取り出す。

海斗の連絡先を開く。

少し迷う。

けれど、電話をかける。

コール音が三回鳴る。

「……もしもし」

海斗の声。

「海斗さん、柊木です」

「お疲れさまです」

「今、時間ありますか」

「はい。大丈夫です」

直子は、少し間を置く。

「……お願いがあります」

「何でしょうか」

「病院への同行を、依頼したいです」

海斗は、少し驚いた様子だった。

「配達ですか?」

「いいえ」

直子は答える。

「仕事として、です」

「……仕事?」

「調査に、同行してほしいです」

海斗は、少し黙る。

直子は、その沈黙を待つ。

「……俺が、同行するんですか?」

「はい」

「……何か、あったんですか」

海斗の声が、少し心配そうになる。

直子は、少し考える。

何と言えばいいのか。

「……私には、見えないものがあります」

「見えないもの?」

「制度や理屈では、測れないもの」

直子は続ける。

「空気、というか……」

言葉を探す。

「あなたには、それが見える」

「……」

「あなたの視点が、必要です」

海斗は、その言葉を聞いて、何かを感じ取る。

柊木さんが、変わった。

以前は、一人で抱え込んでいた。

一人で、すべてを決めようとしていた。

けれど、今は違う。

「分かりました」

海斗は答える。

「いつですか」

「明後日、午後2時」

「了解です。場所は?」

「聖心総合病院です。小児病棟」

「……小児病棟」

海斗は、その言葉を反芻する。

「はい」

「分かりました」

電話を切る。

直子は、スマホを置く。

判断を急がないため。

見落としを防ぐため。

それが、表向きの理由だった。

けれど、もう一つ理由がある。

一人で、抱え込みたくない。

直子は、それを認めた。

海斗がいれば、少し楽になる。

それを、認めてもいい。

直子は、そう思った。


第五章:病棟の匂い

数日後。

海斗は、病院を訪れた。

「聖心総合病院」

大きな建物。エントランスには、人が行き交っている。

海斗は、受付で直子を待つ。

しばらくして、直子が現れる。

「お疲れさまです」

「お疲れさまです」

二人は、エレベーターに乗る。

「小児病棟です」

直子が、ボタンを押す。

エレベーターが上昇する。

扉が開く。

小児病棟のフロア。

海斗は、その匂いに気づく。

消毒液の匂い。

けれど、それだけではない。

沈殿した不安。

止まった時間。

海斗は、深く息を吸う。

「……なんか、ここだけ時間が止まってますね」

直子は、海斗を見る。

「時間が止まっている?」

「はい」

海斗は、廊下を見渡す。

「外の世界と、切り離されてる感じがします」

「……」

「ここにいる人たちは、外の時間とは別の時間を生きてるみたいな」

直子は、その言葉を聞いて、頷く。

翔太の置かれた状況。

大人たちの都合で、時が止まったままの子供。

海斗の言葉は、それを的確に言い当てていた。

「……あなたを呼んで、良かったです」

直子が、小さく言う。

海斗は、少し驚く。

「え?」

「あなたの言葉が、私には必要です」

直子は続ける。

「私だけでは、見えないから」

海斗は、その横顔を見る。

柊木さんが、こんなことを言うなんて。

以前なら、絶対に言わなかった。

「……翔太くんの病室は、こちらです」

直子が、歩き出す。

海斗も、後に続く。


第六章:廊下の違和感

翔太の病室へ向かう途中、海斗はナースステーションの前を通る。

多くの看護師が、忙しく立ち働いている。

電話の音。

カルテを記入する音。

患者を呼ぶ声。

海斗は、その中の一人の看護師に目が止まる。

後ろ姿。

白い制服。マスクをしている。顔は見えない。

けれど、その背筋の伸び方。

カルテを書く時の、姿勢。

ペンを置くリズム。

海斗の足が、無意識に緩む。

既視感。

心臓が、大きく跳ねる。

まさか。

いや、違う。

そんなはずがない。

けれど。

「……海斗さん?」

直子が、振り返る。

海斗は、立ち止まっている。

ナースステーションを見つめている。

「……どうかしましたか」

「……いえ」

海斗は、顔を上げる。

「何でもないです」

けれど、胸の奥に違和感が残っていた。

あの後ろ姿。

あのリズム。

どこかで、見たことがある。

誰かに、似ている。

海斗は、その感覚を振り払うように、直子の後を追った。

けれど、心臓の音は、止まらなかった。


第七章:癖

翔太との面談が終わり、直子は病室を出た。

「少し、院内を見て回ってもいいですか」

直子が、海斗に言う。

「はい」

二人は、廊下を歩く。

海斗は、また、あの看護師を探していた。

さっきの後ろ姿。

あのリズム。

気のせいかもしれない。

けれど、確かめたかった。

廊下を曲がる。

プレイルームの前を通る。

中から、子供の泣き声が聞こえた。

海斗は、足を止める。

プレイルームの窓から、中を覗く。

5歳くらいの女の子が、床に座って泣いている。

点滴のスタンドを引きずりながら。

「痛い……痛いよ……」

小さな声が、ガラス越しに聞こえる。

そこに、看護師が近づいてくる。

マスクをしている。顔は見えない。

けれど、その動き。

看護師は、立ったまま声をかけるのではなく、ゆっくりと膝をついて、子供と同じ目線までしゃがみ込んだ。

その動作が、丁寧だった。

急がず、ゆっくりと。

まるで、子供を驚かせないように。

そして、女の子の背中に手を置く。

トン、トン、トン。

一定のリズムで、さすり始める。

優しく。

規則正しく。

海斗は、その仕草を見て、息が止まった。

このリズム。

この、しゃがみ方。

海斗の脳裏に、記憶が蘇る。

10年前。

自分が小学生だった頃。

学校で嫌なことがあって、泣いて帰った日。

玄関で座り込んでいた時、姉が同じようにしゃがんで、背中をさすってくれた。

同じリズム。

同じ優しさ。

「大丈夫。ゆっくりでいいよ」

姉は、そう言ってくれた。

急かさず、ただそばにいてくれた。

海斗の目に、その日の光景が浮かぶ。

姉の顔。

優しい笑顔。

けれど、その笑顔の裏には、疲れがあった。

海斗は、当時それに気づけなかった。

姉が、どれだけ苦しんでいたか。

「……姉ちゃん」

海斗の唇が、無意識に動く。

けれど、声は出ない。

看護師は、女の子を抱き上げる。

そして、ベッドまで連れて行く。

その背中を、海斗は見つめる。

間違いない。

あれは、姉だ。

美咲だ。

海斗の心臓が、激しく跳ね始める。

両手が、震える。

「……海斗さん?」

直子の声が、遠くに聞こえる。

海斗は、その場に立ち尽くしていた。

プレイルームの窓に、手をつく。

ガラスが、冷たい。

姉は、そこにいる。

生きている。

10年間、探し続けた姉が。

ただ、姉の背中を見つめ続けた。


第八章:姉の面影

直子が翔太や両親と話している間、海斗はずっと廊下にいた。

プレイルームの近くのベンチに座る。

けれど、目は看護師を追っている。

姉は、忙しそうに動いている。

患者の部屋に入る。

カルテを書く。

薬を準備する。

その動きの一つ一つが、海斗の記憶と重なる。

姉は、昔から丁寧だった。

何をするにも、きちんとしていた。

長女だったから。

家族の期待を背負っていたから。

海斗は、10年前のことを思い出す。

姉は、いつも完璧だった。

勉強も、家事も、何でもできた。

母が体調を崩した時、姉が家のことを全部やった。

海斗の弁当も作ってくれた。

洗濯も、掃除も。

父は、仕事で忙しかった。

姉に、すべてを任せた。

「美咲は、しっかりしてるからな」

父は、そう言っていた。

けれど、姉の笑顔は、だんだん消えていった。

海斗は、それに気づいていた。

けれど、何もできなかった。

「姉ちゃん、大丈夫?」

そう聞いても、姉は笑って答えた。

「大丈夫だよ。心配しないで」

けれど、その笑顔は、嘘だった。

ある日、姉は家を出た。

置き手紙も、何もなく。

父は、警察に届けを出した。

海斗も、探した。

けれど、見つからなかった。

10年間、行方不明だった。

そして今、ここにいる。

看護師として。

海斗は、姉が患者に向ける眼差しを見る。

優しさがある。

けれど、それ以上に、「線引き」がある。

距離を保っている。

深入りしない。

かつて自分に向けられていた眼差しとは、少し違う。

姉は、ここで何かを学んだのだろう。

家族に対しては持てなかった距離を、患者に対しては持てている。

役割として、看護師を生きている。

それが、姉にとっての救いなのかもしれない。

海斗は、そう思った。

姉は、逃げたわけではない。

ここで、自分の居場所を見つけたんだ。

海斗の胸が、少し楽になった。

けれど、同時に、苦しくもなった。

姉を追い詰めたのは、家族だった。

海斗も、その一人だった。


第九章:翔太の本音

しばらくして、直子が戻ってくる。

「お待たせしました」

「いえ」

海斗は立ち上がる。

「……もう一度、翔太くんの部屋に行ってもいいですか」

直子が聞く。

「はい」

二人は、翔太の病室へ向かう。

ドアをノックする。

「どうぞ」

翔太の声。

中に入る。

翔太は、ベッドに座っている。

「少しいいですか」

直子が、笑顔で言う。

「うん」

翔太も、笑う。

海斗は、部屋の中を見渡す。

ベッドの脇にある、サイドテーブル。

その上には、コップと、薬のケース。

そして、小さなメモ帳。

メモ帳には、字が書かれている。

「水分補給 ✓」

「薬の時間 ✓」

「体温測定 ✓」

すべて、チェックマークがついている。

海斗は、それを見て、気づく。

これは、看護師が書いたものだ。

字が、丁寧だ。

「……翔太くん、これ、誰が書いてくれたの?」

海斗が聞く。

翔太は、メモ帳を見る。

「ああ、あの看護師さん」

「……」

「優しい人なんだ」

翔太は、少し笑う。

「他の看護師さんは、『頑張れ』って言うんだけど」

「……」

「あの人だけ、『頑張らなくていいよ』って言ってくれる」

海斗は、その言葉を聞いて、胸が熱くなった。

「どんな人?」

「えっとね」

翔太は、考える。

「しゃがんで話してくれる人」

「……」

「他の人は、立ったまま話すんだけど、あの人は、いつも僕と同じ高さまでしゃがんでくれる」

翔太は続ける。

「だから、怖くないんだ」

「……」

「あと、『どっちでもいいよ』って言ってくれる」

「どっちでもいい?」

「うん」

翔太は、うなずく。

「『食べたくなかったら、残していいよ』とか」

「……」

「『眠れなかったら、起きててもいいよ』とか」

翔太は、少し笑う。

「僕、あの人がいると、安心する」

「……そっか」

海斗は、その横顔を見る。

姉は、ここで誰かを救っていた。

かつての自分が「期待」に押しつぶされた経験から、子供に期待を押し付けない接し方を選んでいた。

翔太にとって、姉は救いだった。

海斗は、それを知って、少し安心した。

姉は、逃げたわけではない。

ここで、自分の役割を見つけたんだ。

「……良かった」

海斗は、小さく呟いた。


第十章:衝動と抑制

病院を出る時間になった。

直子と海斗は、エレベーターホールへ向かう。

廊下を歩きながら、海斗は考え続けていた。

あの看護師は、姉だ。

間違いない。

10年間、探し続けた姉。

生きていた。

ここにいた。

海斗の中に、衝動が走る。

駆け寄りたい。

「姉ちゃん」と呼びたい。

生きていてくれてよかったと、伝えたい。

謝りたい。

あの日、助けられなくてごめんと。

気づけなくてごめんと。

もっと早く、姉の苦しみに気づけていたら。

もっと早く、何かできていたら。

海斗の足が、無意識にナースステーションの方へ向かおうとする。

その時、遠くから姉の姿が見えた。

カルテを書いている。

ペンを走らせる音が、かすかに聞こえる気がする。

ふと、姉がマスクを外し、息をつく。

その横顔が、見えた。

海斗は、息を呑む。

その顔は、海斗の記憶にある「苦しそうな姉」ではなかった。

穏やかな、大人の顔だった。

疲れている。

けれど、安定している。

ここに、居場所がある。

そう見える顔だった。

海斗の足が、止まる。

一歩、踏み出しかけた足が、地面に戻る。

駆け寄ったら、どうなる。

姉は、喜ぶだろうか。

それとも。

海斗の頭の中で、様々な想像が駆け巡る。

「姉ちゃん!」

そう叫んだ時、姉はどんな顔をするだろう。

驚くだろうか。

泣くだろうか。

それとも、逃げるだろうか。

「……海斗さん?」

直子の声が、聞こえる。

海斗は、姉から視線を逸らす。

「……すみません。何でもないです」

けれど、心臓は激しく跳ね続けていた。

両手が、震えている。

海斗は、拳を握る。

強く。

爪が、手のひらに食い込む。

痛い。

けれど、それで少し落ち着く。


第十一章:境界線

海斗は、廊下の壁に手をつく。

強く、拳を握る。

爪が、さらに手のひらに食い込む。

駆け寄りたい。

声をかけたい。

けれど、できない。

海斗の中で、何かが叫んでいる。

ここにいるのは「海斗の姉」ではない。

「看護師の女性」だ。

もし自分が現れて、「家族」という枠組みを持ち込めば、彼女はどうなる。

また、「逃げた娘」「姉」という役割に引き戻される。

家族の期待。

家族の重さ。

それから逃げて、ここにたどり着いた姉を、また同じ場所に引き戻すことになる。

それは、彼女が必死に築いたこの場所を、壊すことになる。

翔太が言っていた。

「あの人がいると、安心する」

姉は、ここで誰かを救っている。

翔太だけじゃない。

きっと、他の子供たちも。

プレイルームで泣いていた女の子も。

そして、姉自身も。

ここで、息ができている。

海斗が現れることで、それが壊れたら。

姉が、また苦しむことになったら。

海斗は、目を閉じる。

深く、息を吸う。

「……行かない」

小さく、呟く。

「俺は、行かない」

それが、今の海斗にできる、精一杯だった。

境界線。

姉と自分の間には、見えない線がある。

その線を、越えてはいけない。

姉は、向こう側で生きている。

自分は、こちら側で生きている。

それでいい。

海斗は、そう自分に言い聞かせる。

直子は、その様子を見ている。

何も聞かない。

ただ、そばにいる。

海斗は、壁から手を離す。

拳を、ゆっくりと開く。

手のひらに、爪の跡が残っていた。

少し、血が滲んでいる。

「……行きましょう」

海斗が、直子を見る。

「はい」

二人は、エレベーターホールへ向かった。

海斗は、一度も振り返らなかった。

振り返ったら、走り出してしまいそうだったから。

エレベーターに乗る。

扉が閉まる。

下降する。

海斗は、壁に背中を預ける。

深く、息を吐く。

「……お疲れさまでした」

直子が、小さく言う。

海斗は、何も答えない。

ただ、うなずいた。


第十二章:直子の決断

数日後。

直子は、再び翔太の両親を呼んだ。

家庭裁判所の面談室。

父と母が、向かい合って座っている。

直子は、資料を開く。

「調査の結果を、お伝えします」

二人は、黙って聞いている。

直子は、一枚の報告書を見る。

そこには、「親権者指定」「監護者変更」といった選択肢が書かれている。

以前なら、どちらかを選んでいただろう。

けれど、今は違う。

直子は、報告書を閉じる。

「お父様、お母様」

「……」

「今は、決めなくていいです」

父が、顔を上げる。

「決めなくていい?」

「はい」

直子は続ける。

「翔太くんは、現在入院中です」

「……」

「退院の時期も、まだ決まっていません」

直子は、二人を見る。

「つまり、今この時点で、父親か母親かを法的に決める必要はありません」

「しかし……」

父が言いかける。

直子は、手を上げて止める。

「お二人は、翔太くんのために、それぞれができることをされています」

「……」

「お父様は、費用を負担し、治療を支えています」

直子は続ける。

「お母様は、付き添いをして、翔太くんの心を支えています」

母が、少し顔を上げる。

「それぞれの役割が、今は機能しています」

「……」

「無理に一方に決める必要は、ありません」

直子は、資料を閉じる。

「お二人が『介護者』『保護者』という重い役割から解放されて、ただの『父』『母』として翔太くんと向き合えばいい」

父は、何も言わない。

ただ、じっと直子を見ている。

母は、ハンカチで目元を拭っている。

「……それでいいんですか」

母が、小さく聞く。

「決めなくても」

「はい」

直子は答える。

「決めないことも、一つの選択です」

「……」

「白黒つけることだけが、正解ではありません」

直子の言葉に、部屋が静かになる。

父が、初めて母の方を見る。

「……すまなかった」

小さく、言う。

母は、驚いたように父を見る。

「私は、合理的に考えることしかできなくて」

父は続ける。

「お前の気持ちを、考えられなかった」

母の目に、涙が浮かぶ。

「……私も」

母は言う。

「あなたに、頼りすぎていました」

「……」

「決めることが怖くて、逃げていました」

二人は、初めて目を合わせた。

直子は、その様子を静かに見守る。

右手が、無意識に左手首に触れる。

けれど、さするのではない。

ただ、そっと触れているだけ。


第十三章:最接近

面談が終わり、直子と海斗は病院へ向かった。

翔太に、決定を伝えるため。

病院のエレベーターホールに着く。

「少し、待っててもらえますか」

直子が言う。

「翔太くんには、私一人で話します」

「分かりました」

海斗は、ロビーのベンチに座る。

直子は、エレベーターに乗る。

海斗は、一人残される。

ロビーには、人が行き交っている。

見舞客、患者、医師、看護師。

海斗は、その中に姉の姿を探していた。

けれど、見えない。

海斗は、立ち上がる。

少し、歩く。

廊下を見渡す。

その時、向こうから看護師が歩いてくる。

白い制服。

マスクをしている。

けれど、その歩き方。

海斗の心臓が、跳ねる。

姉だ。

こちらに向かってくる。

廊下は狭い。

すれ違う。

逃げ場はない。

海斗は、身を硬くする。

姉が、近づいてくる。

三メートル。

二メートル。

一メートル。

すれ違いざま、微かに懐かしいシャンプーの香りがした気がした。

海斗は、その香りを知っている。

姉が、昔から使っていた香り。

海斗は、振り返りそうになる。

けれど、我慢する。

姉は、海斗に気づかない。

あるいは、気づいていないふりをしたのか。

そのまま、ナースステーションへと消えていった。

海斗は、その場に立ち尽くす。

振り返らない。

ただ、じっと前を向く。

胸の奥が、痛い。

けれど、海斗は歩き出した。


第十四章:追わない選択

病院の外に出る。

夕暮れの風が、冷たい。

海斗は、一度だけ振り返り、病棟の窓を見上げる。

あの中に、姉がいる。

生きている。

それだけで、十分だろうか。

海斗は、自分に問う。

しばらくして、直子が出てくる。

「お待たせしました」

「いえ」

二人は、並んで歩く。

少し間。

直子が、静かに問う。

「……行かなくて、よかったんですか」

海斗は、少し驚く。

「……気づいてたんですか」

「はい」

直子は答える。

「あなたの様子が、いつもと違いました」

「……」

「誰かを見つけて、声をかけなかった」

直子は続ける。

「そうでしょう?」

海斗は、少し黙る。

そして、うなずく。

「……姉です」

「お姉さん?」

「はい」

海斗は、空を見上げる。

「10年前に、家を出たんです」

「……」

「ずっと、探してました」

海斗の声が、少し震える。

「けれど、見つからなくて」

「……」

「ここで見つけました」

直子は、何も言わない。

ただ、聞く。

「でも……」

海斗は、言葉を探す。

「声をかけませんでした」

「……」

「あの人、今、ちゃんと息してましたから」

海斗は続ける。

「翔太くんを見てる姉ちゃんの顔、穏やかでした」

「……」

「ここに、居場所があるんだと思います」

海斗は、少し笑う。

「俺が現れたら、それを壊しちゃうかもしれない」

直子は、その横顔を見る。

「……そうですか」

「はい」

海斗は、歩き続ける。

「生きてると分かった。それだけで、十分です」

直子は、その言葉を聞いて、胸が温かくなった。


第十五章:名前のない関係

二人は、駅へ向かって歩く。

海斗が、口を開く。

「……家族だからって、必ずしも一緒にいることが正解じゃないんですよね」

「……」

「境界線の向こう側で、姉ちゃんは姉ちゃんの人生を生きてる」

海斗は続ける。

「俺は、それをこっちの側から、静かに肯定する」

「……」

「それが、今の俺にできる、精一杯の『弟としての愛』なんだと思います」

直子は、その言葉を聞いて、何も言えなくなった。

踏み込まないという選択。

それも、愛の形なのだと。

直子は、自分の母のことを思い出す。

母も、今どこかで生きているのだろうか。

直子は、母を探したことがない。

探そうとも、思わなかった。

それは、逃げだと思っていた。

けれど、違うのかもしれない。

「探さない」「会わない」という選択も、一つの愛の形なのかもしれない。

直子は、父と会った。

確認した。

けれど、母には会わない。

それでいい。

直子は、そう思った。

「……海斗さん」

「はい」

「あなたは、強いですね」

海斗は、少し驚く。

「強い?」

「はい」

直子は続ける。

「踏み込まない、という決断をするのは、とても難しいことです」

「……」

「でも、あなたはそれを選んだ」

直子は、海斗を見る。

「それは、逃げではありません」

海斗は、その言葉を聞いて、少し笑った。

「……ありがとうございます」


第十六章:踏み込まないという決断

帰り道。

直子は、海斗の横顔を見ながら、自分自身の母への思いを整理する。

母は、直子を置いて家を出た。

連絡も、何もなく。

直子は、ずっと母を恨んでいた。

なぜ、自分を置いていったのか。

なぜ、何も言わずに消えたのか。

けれど、今は分かる。

母も、逃げたかったのだろう。

父から。

家族という役割から。

そして、母は今、どこかで息をしている。

直子が探さないことで、母の居場所を守っている。

それも、一つの選択なのだと。

直子の右手が、左手首に触れる。

けれど、今回はさすることなく、そっと離れる。

疼きは、ない。

痛みも、ない。

ただ、確認しただけ。

直子は、空を見上げる。

冬の空。

星が、少し見える。

「……海斗さん」

「はい」

「翔太くんの件、両親に『決めなくていい』と伝えました」

「……そうなんですか」

「はい」

直子は続ける。

「白黒つけることだけが、正解じゃない」

「……」

「あなたと同じです」

直子は、小さく笑う。

「私も、踏み込まないという決断をしました」

海斗は、その横顔を見る。

柊木さんが、変わった。

以前より、柔らかくなっている。

「……良かったです」

海斗は言う。

「翔太くんにとっても、柊木さんにとっても」

直子は、うなずいた。


第十七章:路地裏の夜明け

神保町に戻ってきた二人。

いつもの喫茶店の前で別れる。

「お疲れさまでした」

「お疲れさまでした」

特別な言葉は、交わさない。

劇的な再会も、涙の和解もなかった。

しかし、海斗の表情は、晴れやかだった。

「……また」

海斗が言う。

「はい。また」

直子も、うなずく。

海斗は、自転車に乗る。

手を振って、去っていく。

直子は、その背中を見送る。

そして、空を見上げる。

冬の夜空。

星が、瞬いている。

境界線の向こう側で生きる誰かの幸せを、静かに願いながら。

直子は、喫茶店のドアを開けた。

カウンターに座る。

店長が、笑顔で声をかける。

「いらっしゃい。今日は?」

直子は、少し考える。

「……カフェオレにします」

「かしこまりました」

店長は、カフェオレを作り始める。

直子は、窓の外を見る。

海斗は、もう見えない。

けれど、その背中は、確かに晴れやかだった。

翔太も、少しずつ変わっていくだろう。

両親が、少しずつ歩み寄っていくことで。

決めなくていい、という選択が、彼らに時間を与える。

「お待たせしました」

カフェオレが、直子の前に置かれる。

直子は、カップを両手で包む。

温かい。

一口飲む。

甘い。

ミルクの優しい味。

「……悪くない」

直子は、小さく呟く。

右手は、左手首をさすることなく、温かいカップを握りしめていた。

窓の外では、夜が明けようとしている。

新しい一日が、また来る。

けれど、今は少しだけ、この温かさを感じていたかった。

直子は、カフェオレをゆっくりと飲み干した。

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