第八話:親子のしまい方
第一章:書けなかった入館証
冬の午後。
直子は、介護施設「さくらの杜」の受付に立っていた。
白い壁。消毒液の匂い。遠くから聞こえる、テレビの音。
受付カウンターには、入館証が置かれている。
直子は、ペンを握る。
名前を書く欄。
「柊木直子」
四文字。
書くだけだ。
けれど、手が震える。
ペン先が、紙に触れない。
「初めてのご面会ですね」
受付の職員が、笑顔で声をかける。
「お父様、娘さんの自慢話を、よくされていますよ」
直子は、顔を上げる。
「……自慢話?」
「はい。立派な仕事をされているって」
職員は続ける。
「本当に、お父様は誇らしいんでしょうね」
直子は、何も言えない。
自慢話。
立派な娘。
それは、父が作り上げた虚像だ。
「理想の娘」という、嘘。
直子の喉が、締め付けられる。
胃の奥から、何かが這い上がってくる。
けれど、直子は表情を変えない。
ただ、ペンを握る手が、さらに震える。
右手が、無意識に左手首をさする。
職員が、心配そうに声をかける。
「……大丈夫ですか?」
直子は、答えない。
ペンを、カウンターに置く。
入館証は、白紙のまま。
直子は、施設の出口へ向かう。
足が、震えている。
けれど、止まらない。
「あの、お父様は……」
職員の声が、背中に届く。
直子は、振り返らない。
そのまま、施設を出る。
外に出ると、冷たい風が頬を打つ。
直子は、立ち止まる。
息が、荒い。
右手が、左手首を強くさする。
爪が、食い込む。
直子は、駅へ向かって歩き出した。
第二章:終わらせたい兄、続けたい妹
家庭裁判所・調査官室。
直子の机に、新しい案件ファイルが置かれた。
表紙には「成年後見申立」とある。
直子はファイルを開き、内容に目を通す。
対象者は、澤田義男(78歳)。
申立人は、長男・澤田公一。
—— 申立ての趣旨:父は金銭管理ができず、会話も成立しない。成年後見人を選任し、施設入所と自宅の売却を進めたい。
—— 反対者:長女・澤田由美
直子は、次のページをめくる。
公一の陳述書がある。
「父は認知症が進行し、日常生活に支障をきたしています」
「金銭管理もできず、訪問販売で高額な健康食品を購入しています」
「このままでは、父の財産が食い物にされます」
「施設に入所させ、家を売却し、すべてを整理したいです」
文章は整然としている。感情的な言葉は少ない。
直子は、資料を閉じる。
今日、公一と由美、両方と面談が予定されている。
ノックの音。
「どうぞ」
ドアが開き、男性が入ってくる。
50代前半。スーツ姿。眼鏡をかけ、背筋が伸びている。
「澤田公一です」
声は、落ち着いている。
直子は立ち上がり、名刺を渡す。
「家庭裁判所調査官の柊木です。どうぞ、お座りください」
公一は、椅子に座る。
直子は、ファイルを開く。
「申立書、拝見しました。詳しい状況をお聞かせください」
「はい」
公一は、淡々と話し始める。
「父は、三年前から認知症の症状が出始めました」
「……」
「最初は物忘れ程度でしたが、今は会話も成立しません」
公一は続ける。
「一人暮らしをさせていますが、限界です」
「……」
「金銭管理もできず、訪問販売で高額な商品を買わされています」
公一の声は、感情がない。
まるで、業務報告のようだった。
「施設に入所させ、家を売却し、すべてを整理したいです」
「整理?」
直子が聞く。
「はい」
公一は、少し視線を落とす。
「父の人生を、きちんと終わらせたいです」
終わらせたい。
その言葉に、直子は引っかかる。
「……お父様は、施設入所に同意されていますか」
「同意も何も、理解できていません」
公一は答える。
「だから、後見人が必要なんです」
直子はメモを取る。
「妹さんは、反対されていますね」
「はい」
公一の声が、少し硬くなる。
「妹は、現実を見ていません」
「……」
「父はまだ元気だと思い込んでいます」
少し間。
「妹も、できる限りのことはしてきました。でも、最近は……」
公一は、言葉を探す。
「……父と向き合えなくなってきているようです」
直子は、それを記録する。
面談が終わり、公一が部屋を出る。
入れ違いに、女性が入ってくる。
40代後半。カジュアルな服装。疲れた顔をしている。
「澤田由美です」
直子は、名刺を渡す。
「どうぞ、お座りください」
由美は、椅子に座る。
直子は、ファイルを開く。
「お兄様の申立について、ご意見をお聞かせください」
「……反対です」
由美は、すぐに答える。
「父は、まだ元気です」
「元気?」
「はい」
由美は続ける。
「確かに、物忘れはあります。でも、会話もできます」
「……」
「兄さんは、冷たすぎます」
由美の声が、震える。
「父を、物みたいに片付けようとしています」
直子は、メモを取る。
「お父様の介護は、どなたが?」
由美は、少し黙る。
「……私は、近くに住んでいます」
「……」
「これまで、できる限りのことはしてきました」
由美は続ける。
「掃除も、買い物も、通院の付き添いも」
「……」
「でも、最近は……」
言葉が途切れる。
直子は、待つ。
「……実家に、行けなくなりました」
由美は、視線を落とす。
「理由は?」
「……分かりません」
由美の声が、かすれる。
「玄関まで行くと、足が動かなくなるんです」
直子は、その様子を見る。
由美の手が、震えている。
「でも、私は父を見捨てていません」
由美は、強く言う。
「毎日、食事を送っています」
「食事?」
「はい。フードデリバリーで」
由美は続ける。
「消化の良い和食を、毎日頼んでいます」
「……」
「父の健康を、ちゃんと管理しています」
その言葉に、直子は何かを感じる。
遠隔での献身。
罪滅ぼし。
由美は、父に会えない罪悪感を、食事を送ることで埋めようとしている。
直子は、その姿を見て、胸が痛くなった。
第三章:遠隔の献身
由美の面談は、続いた。
「毎日、どのような食事を?」
直子が聞く。
「和食です」
由美は答える。
「父は、昔から和食が好きでした」
「……」
「煮物とか、焼き魚とか」
由美は続ける。
「消化の良いものを選んでいます」
直子はメモを取る。
「お父様は、それを召し上がっていますか」
「……はい」
由美の声が、少し小さくなる。
「多分」
「多分?」
「配達員の方が、玄関の中まで入れてくれているので」
由美は続ける。
「父は足が悪いので、玄関まで取りに行くのが大変なんです」
「……」
「だから、備考欄に『玄関の中まで入れてください』って書いています」
直子は、それを記録する。
「お父様と、直接話されることは?」
由美は、少し黙る。
「……電話は、かけます」
「……」
「でも、会話が……」
言葉が途切れる。
「父は、私のことを忘れている時があります」
由美の目に、涙が浮かぶ。
「『誰だ?』って言われると……」
声が震える。
「……辛くて」
直子は、何も言わない。
ただ、聞く。
「だから、電話も……最近は……」
由美は、ハンカチで目元を拭う。
「でも、食事は送っています」
「……」
「ちゃんと、父のことを考えています」
由美は、強く言う。
「兄さんみたいに、父を捨てようとしているわけじゃありません」
直子は、その言葉を聞いて、胸の奥に何かが刺さった。
由美は、父を避けている。
会えない。
電話もできない。
けれど、食事を送ることで、自分を許そうとしている。
それは、逃げではないのか。
直子は、自分に問う。
自分も、同じではないのか。
父の施設に行けず、ただ逃げている。
直子の右手が、無意識に左手首をさする。
「……分かりました」
直子は、資料を閉じる。
「後日、お父様のご自宅を訪問させていただきます」
「はい」
由美は、立ち上がる。
「……お願いします」
由美は、深く頭を下げて部屋を出た。
直子は、一人残される。
資料を見つめる。
澤田義男。
78歳。
認知症。
一人暮らし。
直子の父も、今は一人だ。
施設で。
直子は、目を閉じる。
また、父の顔が浮かぶ。
けれど、直子はそれを振り払った。
第四章:自然な露見
その夜、海斗は配達リストを見ていた。
次の配達先は、住宅街の一軒家。
依頼主は、澤田由美。
備考欄には、細かい指示が書かれている。
「父は足が悪いので、玄関の中まで入れてください」
海斗は、荷物を確認する。和食の弁当。煮物と焼き魚。
自転車を走らせ、住宅街に入る。
古い一軒家が並ぶ。街灯が少なく、暗い。
目的の家に到着する。
門は開いている。郵便受けから、チラシが溢れている。
海斗は、インターホンを押す。
少し間があって、声が聞こえた。
「……はい」
老人の声。
「配達です。ご注文のお食事をお持ちしました」
「ああ……」
しばらくして、玄関のドアが開く。
出てきたのは、70代後半の男性だった。痩せている。髪は白く、背中が少し曲がっている。
「お疲れさまです」
海斗は、弁当を渡そうとして、足を止めた。
玄関の中に、大量の食事が散乱していた。
宅配ピザの箱。
寿司の容器。
コンビニ弁当。
すべて、まだ封を開けていない。
積み重なっている。
海斗は、その光景を見て、息を呑む。
「……これ、置いといて」
老人が言う。
海斗は、弁当を玄関の中に置く。
他の食事の横に。
「ありがとう」
老人は、ドアを閉めようとする。
海斗は、少し迷ってから、声をかける。
「……あの」
「ん?」
「これ、全部食べられるんですか」
老人は、玄関の中を見る。
「……ああ」
少し間。
「食べる」
けれど、その目は虚ろだった。
海斗は、何も言えなくなった。
「じゃあな」
老人は、ドアを閉める。
海斗は、その場に立ち尽くす。
あの食事は、食べられていない。
なぜ、あんなに頼むのか。
海斗は、その理由が掴めなかった。
第五章:寂しさの値段
翌日、海斗は再び澤田家に配達に来た。
由美からの依頼。また和食の弁当。
インターホンを押す。
「……はい」
老人の声。
「配達です」
ドアが開く。
老人が、出てくる。
「ああ、兄ちゃん」
海斗は、弁当を渡す。
老人は、それを受け取る。
けれど、玄関の中を見ると、昨日と変わらない光景だった。
食事が、積まれている。
「……あの」
海斗が声をかける。
老人は、顔を上げる。
「これ、食うか?」
老人は、ピザの箱を指す。
「え?」
「まだ、食えるだろ」
「……いえ、大丈夫です」
海斗は断る。
老人は、少し残念そうな顔をする。
「そうか」
少し間。
「……茶はあるか?」
「茶?」
「ああ。ちょっと、待ってろ」
老人は、家の中に消える。
海斗は、玄関で待つ。
しばらくして、老人が戻ってくる。
手に、湯呑みを持っている。
「ほら」
「……ありがとうございます」
海斗は、湯呑みを受け取る。
お茶は、冷めている。
「うまいか?」
老人が聞く。
「……はい」
海斗は、一口飲む。
老人は、嬉しそうに笑う。
「そうか」
海斗は、その笑顔を見て、気づく。
この老人は、寂しいのだ。
人が来ることを、求めている。
だから、無秩序に出前を頼む。
食べるためではない。
配達員が来ることを、待っている。
この弁当は、誰かが気にかけて送ったものだろう。
けれど、それは老人の本当の望みではないのかもしれない。
海斗は、湯呑みを返す。
「ごちそうさまでした」
「またな」
老人は、手を振る。
海斗は、その場を離れた。
胸の奥に、重いものが残っていた。
第六章:限界の食卓
数日後、直子は澤田家を訪問することにした。
調査のため。
そして、海斗も同行することになった。
由美から、「配達員」として依頼があったためだ。
「父に食事を届けてほしい。できれば、家の様子も見てほしい」
直子と海斗は、住宅街を歩く。
「……いつも、ここに配達されているんですか」
直子が聞く。
「はい」
海斗は答える。
「毎日、由美さんから依頼があります」
「……」
「でも、食事は食べられていないみたいです」
海斗は続ける。
「玄関に、積まれていて」
直子は、何も言わない。
澤田家に到着する。
インターホンを押す。
「……はい」
老人の声。
「家庭裁判所の柊木です」
「……」
「配達の方も、ご一緒しています」
しばらくして、ドアが開く。
老人が、出てくる。
痩せている。髪は白く、背中が曲がっている。
「ああ……」
老人は、海斗を見て、少し笑う。
「兄ちゃん、また来たのか」
「はい。お食事をお持ちしました」
海斗は、弁当を渡す。
直子は、老人を見る。
「澤田義男さんですね」
「……そうだ」
「少し、お話を伺いたいのですが」
「ああ、入れ」
老人は、家の中に入る。
直子と海斗は、後に続く。
玄関を入ると、直子は息を呑んだ。
食事が、散乱している。
宅配ピザの箱。寿司の容器。コンビニ弁当。
すべて、未開封のまま積まれている。
リビングに入ると、さらに荒れていた。
床には、新聞が散乱している。
テーブルの上には、高額な健康食品の段ボールが積まれている。
「青汁」「酵素ドリンク」「サプリメント」
すべて、未開封だった。
直子は、部屋を見渡す。
窓は閉め切られている。空気が淀んでいる。
ゴミ箱は溢れている。
「……失礼ですが、お一人で生活されていますか」
直子が聞く。
「ああ」
老人は答える。
「娘が、たまに来る」
「……」
「息子は……忙しいんだ」
老人は、椅子に座る。
直子は、メモを取る。
「判断能力の低下」
「生活環境の悪化」
「金銭管理の問題」
すべてが、公一の主張を裏付けている。
成年後見は、必要だ。
施設入所も、妥当だろう。
直子は、そう判断を固める。
海斗は、部屋の隅を見る。
写真立てが、倒れている。
中には、若い頃の家族写真。
父と母と、二人の子供。
みんな、笑っている。
海斗は、その写真を見て、胸が痛くなった。
第七章:兄の苛立ち
しばらくして、玄関のドアが開く音がした。
「父さん」
男性の声。
公一だった。
リビングに入ってくる。
「……柊木さん」
「お邪魔してます」
直子は立ち上がる。
公一は、部屋を見渡す。
そして、ため息をつく。
「……ほら見ろ」
公一は、ゴミ袋を取り出す。
「これが、現実だ」
公一は、床に散らばった新聞を拾い始める。
ゴミ箱から溢れたゴミも、袋に入れる。
淡々と。
感情を押し殺して。
「もう、人間らしい生活なんてできてないんだ」
公一の声は、硬い。
老人は、椅子に座ったまま、息子を見ている。
「……すまん」
小さく呟く。
「すまん、すまん」
公一は、答えない。
ただ、黙々とゴミを片付ける。
洗面所へ行き、何かを持ってくる。
ビニール袋に入った、下着だった。
失禁したものだ。
公一は、それを大きなゴミ袋に入れる。
「……すまん」
老人が、また呟く。
「すまん」
公一は、顔を上げる。
「謝るな」
声が、震える。
「謝ったって、何も変わらない」
老人は、小さくなる。
まるで、子供のように。
直子は、その光景を見て、胸が締め付けられた。
かつて、威厳のあった父が、息子の前で謝り続けている。
直子の中で、自分の父の姿が重なる。
あの父も、今は弱い老人になっているのだろうか。
直子の右手が、無意識に左手首をさする。
強く。
第八章:噛み合わない思い出
公一が、ゴミをまとめ終える。
老人は、椅子に座ったまま、ぼんやりとしている。
ふと、老人が笑い出した。
「……公一は、昔から海が怖くて泣いてばかりだったな」
公一が、手を止める。
「……何?」
「海だよ」
老人は、楽しそうに続ける。
「お前、波を見ただけで泣いてた」
「……」
「可愛かったなあ」
老人は、笑っている。
けれど、公一の顔が変わった。
「……ふざけるな」
「ん?」
「俺は泣いてない!」
公一の声が、大きくなる。
老人は、驚いたように公一を見る。
「親父が無理やり海に投げ込んだんだろ!」
公一が、叫ぶ。
「『男なら泣くな』って!」
「……」
「俺は怖かった! でも泣かなかった!」
公一の声が、震える。
「親父が怖かったから!」
老人は、何も言えない。
ただ、息子を見ている。
その目は、混乱している。
「……そうだったか?」
「そうだったんだよ!」
公一が、怒鳴る。
老いた父に対し、大人の息子が本気で怒鳴り声を上げる。
直子は、その様子を見て、メモを取ろうとする。
「虐待の恐れあり」
けれど、海斗が直子の手を止める。
直子は、海斗を見る。
海斗は、首を振った。
第九章:憧れの残骸
公一の怒鳴り声が、部屋に響く。
老人は、怯えている。
体が、震えている。
「……すまん」
また、謝る。
「すまん、すまん」
子供のように。
公一は、その姿を見て、表情を歪める。
「……っ」
公一は、部屋を出ていく。
玄関のドアが、バタンと閉まる音。
老人は、椅子に座ったまま、震えている。
直子は、老人に近づく。
「……大丈夫ですか」
老人は、顔を上げる。
「……誰だ?」
「家庭裁判所の柊木です」
「……ああ」
老人は、また視線を落とす。
「すまん」
直子は、何も言えない。
ただ、その姿を見つめる。
海斗は、窓の外を見る。
公一が、家の前に立っている。
両手で顔を覆っている。
肩が、震えている。
泣いているのだろうか。
海斗は、その背中を見て、胸が痛くなった。
第十章:海斗の翻訳
帰り道。
直子と海斗は、並んで歩いている。
「……虐待ではありません」
海斗が言う。
直子は、海斗を見る。
「どうして、そう思うんですか」
「あの息子さん、お父さんが嫌いなんじゃないです」
海斗は続ける。
「大好きだった『強くて怖いお父さん』が、あんなふうに壊れていくのを見るのが耐えられないんじゃないですか」
直子は、何も言わない。
海斗は、言葉を探す。
「『終わらせたい』んじゃなくて、『これ以上ガッカリしたくない』って顔してました」
直子は、その言葉を聞いて、立ち止まる。
ガッカリしたくない。
その言葉が、胸に刺さる。
「……」
直子は、自分の父を思い出す。
威厳のあった父。
恐ろしかった父。
けれど、今は弱い老人になっている。
直子は、その姿を見たくない。
見てしまったら、ガッカリしてしまう。
自分が、崩れてしまう。
直子の右手が、無意識に左手首をさする。
強く。
爪が、食い込む。
第十一章:直子の共鳴
直子は、歩き出す。
海斗も、後に続く。
「……海斗さん」
「はい」
「あなたの言う通りかもしれません」
直子は続ける。
「公一さんの『怒り』の正体は、『絶望』だった」
「……」
「親がただの弱い老人になってしまったことへの」
直子の声が、少し震える。
海斗は、直子の横顔を見る。
「……柊木さんも?」
直子は、答えない。
ただ、右手が左手首を掻く。
無意識に。
強く。
「……私も、同じです」
直子は、小さく呟く。
「父を、恐れていました」
「……」
「でも、心のどこかで、『完璧な父』という虚像に縛られていました」
直子は続ける。
「今の父を見たら、その虚像が壊れてしまう」
「……」
「だから、会えない」
直子は、立ち止まる。
海斗も、止まる。
「……怖いんです」
直子の声が、かすれる。
「父が弱い老人になってしまったことが」
海斗は、何も言わない。
直子は、深く息を吸う。
「でも……行かなければ」
「……」
「父に、会いに」
直子は、そう呟いた。
第十二章:役割の交代
数日後、直子は再び公一と由美を集め、面談を行った。
家庭裁判所の面談室。
公一と由美が、向かい合って座っている。
直子は、資料を開く。
「調査の結果を、お伝えします」
二人は、黙って聞いている。
「お父様の判断能力は、著しく低下しています」
直子は続ける。
「金銭管理も、生活管理も、困難な状態です」
「……」
「成年後見制度の利用が、適切だと判断します」
公一は、うなずく。
由美は、視線を落とす。
直子は、二人を見る。
「ただし」
「……」
「成年後見は、親子関係を絶つことではありません」
直子の声が、少し柔らかくなる。
「あなたがたが『介護者』という役割を降りて、ただの『子供』に戻るための手続きです」
公一が、顔を上げる。
「……子供に?」
「はい」
直子は続ける。
「これまで、あなたがたはお父様の『保護者』として、責任を背負ってきました」
「……」
「けれど、その重さに耐えられなくなっている」
由美が、ハンカチで目元を拭う。
「成年後見人が選任されれば、財産管理や生活支援は、専門家が担います」
直子は説明する。
「あなたがたは、『息子』『娘』として、お父様と向き合えばいい」
公一は、何も言わない。
ただ、じっと直子を見ている。
「責任から解放されることは、逃げることではありません」
直子の声が、静かに響く。
「お互いを守るための、正しい選択です」
公一の目に、涙が浮かぶ。
「……俺は」
声が、震える。
「親父を、捨てたくなかった」
「……」
「でも、あの姿を見るのが……辛くて……」
公一は、顔を覆う。
肩が、震えている。
静かに、泣いている。
由美も、涙を流している。
「……私も」
由美は、小さく言う。
「父を、見捨てたくなかった」
「……」
「でも、会えなくて……」
声が詰まる。
「食事を送ることしか、できなくて……」
直子は、二人を見守る。
右手が、無意識に左手首をさする。
けれど、今は優しく。
「……お二人とも、よく頑張られました」
直子は言う。
「もう、十分です」
公一と由美は、泣き続けている。
直子は、その姿を静かに見守った。
第十三章:親子のしまい方
成年後見申立ての手続きが進む。
後見人が選任され、義男の施設入所が決まった。
入所の日。
直子と海斗は、澤田家を訪れた。
家の中は、片付けられていた。
ゴミは処分され、床も掃除されている。
公一と由美が、一緒に片付けたのだろう。
義男は、リビングに座っている。
荷物は、すでにまとめられている。
「……父さん、行くぞ」
公一が声をかける。
義男は、顔を上げる。
「……どこへ?」
「施設だ」
「……ああ」
義男は、よく分かっていない様子だった。
けれど、穏やかに頷く。
公一は、義男の荷物を持つ。
由美が、義男の手を取る。
「……お父さん、行こう」
義男は、立ち上がる。
三人で、玄関へ向かう。
玄関には、散乱していた食事はもうない。
きれいに片付けられている。
義男は、玄関で立ち止まる。
家を、見渡す。
「……長いこと、ここに住んだな」
「……うん」
公一が答える。
義男は、また歩き出す。
車に乗り込む。
公一が、運転席に座る。
由美が、助手席に座る。
義男は、後部座席に座っている。
車が発車する前に、公一が振り返る。
「……親父」
「ん?」
「元気でな」
短い言葉。
けれど、その声には、何かがあった。
義男は、よく分かっていない様子だが、穏やかに頷く。
「……ああ」
車が走り出す。
直子と海斗は、その車を見送る。
それは、冷たい切り捨てではなかった。
お互いを守るための、正しい距離だった。
直子は、その車が見えなくなるまで、じっと見つめていた。
第十四章:再訪のドア
澤田家の決着を見届けたその足で、直子は自分の父がいる施設へ向かった。
「さくらの杜」
直子は、受付の前に立つ。
入館証が、置かれている。
直子は、ペンを握る。
手が、震える。
けれど、今度は止まらない。
「柊木直子」
四文字。
書き終える。
受付の職員が、笑顔で声をかける。
「お父様、お待ちかねですよ」
直子は、うなずく。
「……何階ですか」
「三階です。エレベーターで」
「ありがとうございます」
直子は、エレベーターに乗る。
ボタンを押す。
「3」
扉が閉まる。
上昇する。
直子の右手が、左手首をさする。
けれど、今は優しく。
確認するように。
エレベーターが止まる。
扉が開く。
三階のフロア。
直子は、廊下を歩く。
305号室。
父の部屋。
直子は、ドアの前に立つ。
深く息を吸う。
ノックする。
「……はい」
父の声。
直子は、ドアを開けた。
第十五章:枯れた暴君
部屋に入ると、父がベッドに座っていた。
70代後半。髪は白く、背中が丸まっている。
顔を上げる。
直子を見る。
「……遅かったな」
相変わらず、威圧的な口調だった。
直子の体が、反射的に強張る。
けれど、足は動く。
部屋の中に入る。
「……久しぶりです」
「久しぶり? お前、仕事が忙しいとか言って、全然来ないじゃないか」
父は続ける。
「家庭裁判所の調査官だって? そんな仕事、甘いんじゃないか」
「……」
「もっと、しっかりしろ」
父の言葉は、昔と変わらない。
直子の姿勢を正す。
態度の甘さを指摘する。
直子は、黙って聞いている。
父は、さらに続けようとして、何かを取ろうとする。
テーブルの上の、コップ。
けれど、手が震えて掴めない。
コップが倒れる。
水がこぼれる。
「……っ」
父は、それを拭こうとする。
けれど、手が震えて、ティッシュも取れない。
直子は、その姿を見つめる。
父は、昔と同じように威圧的に話している。
けれど、その手は震えている。
食べ物をこぼし、拭くこともできない。
目の前にいるのは、怪物ではない。
ただの、弱い老人だ。
直子は、ティッシュを取る。
テーブルを拭く。
「……すまん」
父が、小さく言う。
直子は、顔を上げる。
父が、謝った。
初めて聞く言葉だった。
直子は、何も言わない。
父を責めもしない。
許しもしない。
ただ、淡々と父の口元を拭いてやる。
食事の跡が、ついていた。
拭き終える。
直子は、立ち上がる。
「……また来ます」
「……そうか」
父は、うなずく。
直子は、部屋を出た。
第十六章:許さなくていい
面会を終えた直子は、施設のロビーへ向かった。
椅子に座る。
深く息を吸う。
右手が、無意識に左手首をさする。
けれど、痛みはない。
疼きもない。
ただ、確認しているだけ。
「……柊木さん?」
声がして、直子は顔を上げる。
老女が立っていた。
見覚えのある顔。
「……重田さん?」
重田和子だった。
「やっぱり」
和子は、優しく笑う。
「お久しぶりです」
「……こちらに、いらっしゃるんですか」
「ええ。主人が、こちらにお世話になっていて」
和子は、隣の椅子に座る。
「面会ですか?」
「……はい」
直子は答える。
「父に」
和子は、直子の顔を見る。
憔悴している。
疲れている。
けれど、以前より少し、柔らかい表情だった。
「……辛かったですか」
和子が聞く。
直子は、少し黙る。
「……はい」
「そうですか」
和子は、うなずく。
「でも、会えて良かったですね」
「……良かったのか、分かりません」
直子は答える。
「父を、許せませんでした」
「……」
「許そうとも、思いませんでした」
直子は続ける。
「ただ、見ただけです」
和子は、直子の手を見る。
右手が、左手首を優しくさすっている。
「許さなくていいんですよ」
和子が言う。
直子は、顔を上げる。
「許せないままの自分を、受け入れていいの」
和子は続ける。
「無理に整えなくていいことも、人生にはあるのよ」
直子は、その言葉を聞いて、胸の奥が温かくなった。
許さなくていい。
整えなくていい。
ただ、そのままでいい。
直子の目に、涙が浮かぶ。
けれど、流れない。
ただ、温かい。
「……ありがとうございます」
直子は、小さく言った。
第十七章:風の通る場所
施設を出た直子は、一人で駅へと歩く。
冬の風が、冷たい。
けれど、かつて感じていたような「凍えるような孤独」は感じなかった。
父との関係は、「解決」もしなかった。
「和解」もしなかった。
けれど、「確認」は終わった。
父は、弱い老人になっていた。
けれど、それでいい。
直子は、それを受け入れた。
許したわけではない。
忘れたわけでもない。
ただ、見た。
確認した。
それだけで、十分だった。
直子の足取りは、来る時よりも少しだけ軽かった。
街路樹の枝が、風に揺れている。
葉はすべて落ちて、枝だけが残っている。
けれど、その枝は折れていない。
ただ、そこにある。
直子は、その木を見上げる。
自分も、こうなのかもしれない。
すべてを失ったわけではない。
ただ、余計なものが剥がれ落ちただけ。
駅に着く。
改札を通る。
ホームに立つ。
電車を待つ間、直子は線路を見つめる。
遠くまで、続いている。
どこまでも。
風が、吹く。
直子の髪が、揺れる。
右手が、無意識に左手首に触れる。
けれど、もう掻いていない。
ただ、そっと触れているだけ。
確認するように。
ここに、自分がいることを。
電車が来る。
ライトが近づいてくる。
ブレーキの音。
扉が開く。
直子は、乗り込んだ。
窓際の席に座る。
外を見る。
ホームが、遠ざかっていく。
施設も、父も、遠くなっていく。
けれど、直子の胸には、何かが残っていた。
温かいもの。
重田和子の言葉。
「許さなくていい」
その言葉が、まだ響いている。
直子は、目を閉じた。
第十八章:砂糖とミルク
神保町のいつもの喫茶店。
直子が一人で入る。
カウンターに座る。
店長が、笑顔で声をかける。
「いらっしゃい。いつもの、ブラックですね?」
直子は、少し考える。
ふと、左手首を見る。
赤みは、引いている。
腫れもない。
直子は、顔を上げる。
「……今日は、カフェオレにします」
店長は、少し驚いた顔をする。
けれど、すぐに優しく微笑む。
「かしこまりました」
店長は、カフェオレを作り始める。
エスプレッソを抽出する。
ミルクを温める。
カップに注ぐ。
泡が、ふんわりと浮かぶ。
「お待たせしました」
カフェオレが、直子の前に置かれる。
直子は、カップを両手で包む。
温かい。
一口飲む。
甘い。
ミルクの優しい味。
「……悪くない」
直子は、小さく呟く。
店長は、その横顔を見て、少し笑った。
以前、海斗が直子にカフェオレを奢った日のことを思い出していた。
直子は、カフェオレをゆっくりと飲む。
右手は、左手首をさすることなく、温かいカップを握りしめていた。
窓の外では、冬の夕日が街を照らしている。
直子は、その光を見つめながら、静かに息を吸った。
新しい一日が、また来る。
けれど、今は少しだけ、この温かさを感じていたかった。
直子は、カフェオレを飲み干した。




