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第七話:透明な檻

第一章:鏡の中の依頼人

家庭裁判所・面談室。

直子は、向かいに座る男性を見ていた。

高村誠、45歳。

スーツ姿で、姿勢がいい。

清潔感があり、物腰が丁寧だった。

「妻が……息子を置いて、失踪しました」

高村の声は、穏やかだった。

けれど、わずかに震えている。

直子は資料を開く。

—— 高村結衣(42歳・所在不明)

—— 子:高村陽葵(ひまり・10歳)

—— 失踪日:3ヶ月前

「失踪前の様子に、変化はありましたか」

「……特には」

高村は視線を落とす。

「いつも通り、笑顔でした」

少し間。

「だから……まさか、と」

直子はメモを取る。

「奥様の行き先に、心当たりは?」

「ありません」

即答だった。

「実家にも、友人にも。誰も知らないと」

高村は続ける。

「私は……仕事も家事も、完璧にこなしてきました」

声に、誇りがにじむ。

「妻を支えてきたつもりです」

直子のペン先が、わずかに止まる。

完璧に。

その言葉が、引っかかる。

「息子さんの様子は?」

「陽葵は……しっかりしています」

高村は、少し表情を緩める。

「『お父さん、僕がんばるね』と言ってくれました」

10歳の子どもが、そう言うだろうか。

直子は、その違和感を飲み込む。

「お母様のことは?」

「何も言いません」

高村は答える。

「むしろ……『お母さんが悪い』と」

直子の胸が、冷たくなる。

「息子を置いて行くなんて……」

高村の声が詰まる。

「……育児放棄です」

その言葉が、直子の奥深くを刺す。

育児放棄。

無責任な母親。

子どもを捨てた女。

直子の脳裏に、母の顔が浮かぶ。

—— 笑顔で弁当を渡す手。

—— 「いってらっしゃい」という声。

あれが、最後だった。

帰宅すると、母はいなかった。

置き手紙もなく。

父は言った。

「お前の母は、無責任な女だった」

直子は、それを信じた。

信じるしかなかった。

右手が、無意識に左手首へ伸びる。

さする。

また、さする。

指先に力が入る。

「……柊木さん?」

高村の声で、直子は我に返る。

「失礼しました」

直子は手を膝の上に戻す。

「次回、ご自宅を訪問させていただきます」

「はい。お願いします」

高村は深く頭を下げる。

「私なら……完璧に、育てられますから」

完璧に。

またその言葉。

高村は立ち上がり、退室する。

扉が閉まる。

直子は、左手首を見下ろす。

赤くなっている。

さすりすぎた。

資料に目を戻す。

—— 高村結衣(42歳・所在不明)

文字が、ぼやける。

直子は目を閉じる。

「あなたも……置いて行ったのね」

小さく呟く。

胸の奥で、何かが軋んだ。


第二章:モデルルームの孤独

翌日の午後。

直子は、高村宅の玄関前に立っていた。

インターホンを押す。

「はい、どうぞ」

ドアが開く。

「お待ちしてました」

高村は、深く頭を下げる。

玄関に入った瞬間、直子は気づいた。

匂いがない。

生活臭が、ない。

スリッパが新品のように並び、靴箱も整然としている。

廊下を歩く。

壁に家族写真が、一枚もない。

子どもの絵も、ランドセルも、見えない。

「リビングです」

高村がドアを開ける。

直子は、息を呑んだ。

まるで、モデルルームだった。

家具の配置が完璧すぎる。

埃一つない。

テーブルの上には何もなく、リモコンだけが直角に置かれている。

ソファのクッションは、寸分の狂いなく並んでいる。

「どうぞ」

高村が、ソファを勧める。

直子は座る。

クッションが硬い。

使われていないような感触。

「妻がいなくなってから……」

高村が口を開く。

「私が一人で、この美しさを守っています」

声に、誇りがにじむ。

「息子にも、整理整頓を教えています」

直子は、メモを取る。

—— 清潔な環境

—— 父親の努力

けれど、ペンを持つ手が重い。

10歳の子どもが暮らしている痕跡が、ない。

おもちゃも、ゲームも、見えない。

「キッチンも、ご覧になりますか?」

高村が立ち上がる。

キッチンは、ディスプレイのようだった。

調理器具が新品のように光り、シンクに水滴一つない。

冷蔵庫の中も整然としている。

使った形跡が、薄い。

「毎日、私が料理をしています」

高村が言う。

「栄養バランスも、完璧に管理しています」

リビングに戻る。

直子は、再びメモを取る。

—— 父親による家事

—— 問題なし

けれど、書きながら、胸の奥のざらつきが増していく。

これは、「正しい家」なのか?

清潔で、整っていて、完璧で。

けれど、何かが欠けている。

人の体温が、ない。

子どもの気配が、ない。

直子の右手が、無意識に左手首へ伸びる。

「……息子の部屋も、ご覧になりますか?」

高村が聞く。

直子は、うなずいた。

「……はい。お願いします」

高村は、廊下の奥を指す。

「こちらです」

ドアの前で、高村が立ち止まる。

「陽葵、入るよ」

返事はない。

ドアが、開いた。


第三章:仮面を被った少年

ドアが開く。

陽葵の部屋。

そこもまた、完璧に整っていた。

机、ベッド、本棚。

すべてが定位置に収まっている。

子ども部屋なのに、生活感がない。

陽葵は、机に向かって座っていた。

10歳。

制服姿。

姿勢がいい。

まるで、待機しているような佇まい。

「陽葵、ご挨拶を」

高村が声をかける。

陽葵は立ち上がり、振り返る。

「こんにちは」

淀みない敬語。

大人びた口調。

笑顔は、作られていた。

直子は、その顔を見て、息が詰まる。

「こんにちは。家庭裁判所の柊木です」

「はい」

陽葵は、小さく頭を下げる。

直子は、椅子に座る。

陽葵も、机の前に座り直す。

背筋を伸ばしたまま。

「お母さんがいなくなって……寂しくないですか?」

直子が聞く。

陽葵は、即答した。

「寂しくないです」

感情がない。

「お父さんがいますから」

その言葉も、台本のようだった。

直子は、陽葵の目を見る。

虚ろだった。

感情が、抜け落ちている。

「お母さんのこと、覚えていますか?」

「はい」

「どんな方でしたか?」

陽葵は、少し考える。

そして、父の顔を伺った。

ほんの一瞬。

高村は、何も言わない。

ただ、後ろに立っている。

「……優しかったです」

陽葵が答える。

「でも、勝手に出て行きました」

少し間。

「お父さんを困らせて……悪い人です」

その言葉を聞いて、直子の胸が冷たくなる。

10歳の子どもが、そんなふうに言うだろうか。

「陽葵くんは、そう思うんですか?」

「……はい」

答える前に、また父を見る。

視線が、父の顔を確認する。

そして、答える。

直子は、その仕草に気づく。

この子は、自分の言葉を話していない。

父が望む答えを、選んでいる。

直子は、部屋を見渡す。

棚に、おもちゃが並んでいる。

けれど、触った形跡がない。

箱に入ったまま、整然と並んでいる。

陽葵が、ちらりとおもちゃを見た。

ほんの一瞬。

けれど、すぐに視線を戻す。

まるで、許可が必要なように。

直子の胸が、締め付けられる。

この子は、檻の中にいる。

透明な、檻。

ルールという名の、檻。

かつての自分が、そうだったように。

父の顔色を伺い、父が望む言葉を選び、「良い娘」を演じ続けた。

直子の右手が、無意識に左手首へ伸びる。

強く、さする。

爪が、皮膚に食い込む。

「……ありがとうございました」

直子は立ち上がる。

陽葵も、立ち上がる。

「失礼しました」

完璧なお辞儀。

高村が、満足そうに微笑む。

「陽葵は、しっかりしているでしょう」

「……ええ」

直子は、それだけ答える。

部屋を出る。

廊下を歩く。

胸の奥の違和感が、確信に変わる。

この子は、壊れかけている。

父という檻に、閉じ込められて。

そして、直子自身も。

かつて、同じ檻の中にいた。


第四章:自然な露見

数日後の夕方。

海斗は、配達リストを確認していた。

新しい住所。

初めての配達先だった。

自転車を走らせる。

住宅街に入り、表札を探す。

「高村」

見つけた。

海斗はインターホンを押す。

「はい」

男性の声。

「配達です。高村様のお荷物をお持ちしました」

少し間があって、ドアが開く。

出てきたのは、スーツ姿の男性だった。

40代くらい。

眼鏡をかけ、姿勢がいい。

「どうも」

高村は、荷物を受け取る。

丁寧だが、笑顔がない。

確認するように中身を見る。

「……これ、冷めてますね」

海斗は、少し驚く。

「え?」

「注文してから、もう40分経ってます」

高村は、時計を見る。

「温かいものを頼んだんですが」

声は穏やかだが、責めている。

海斗は、配達アプリを確認する。

「えっと……配達時間の目安内には……」

「目安、ですか」

高村は、眼鏡の位置を直す。

「私は、正確な時間を期待していたんですが」

少し間。

「まあ、仕方ないですね。あなたのせいではないでしょうし」

言葉は優しいのに、圧がある。

海斗は、何も言えなくなる。

高村は、荷物を玄関の中に置く。

そして、玄関脇を指した。

「そうだ。ついでに、これ……」

そこに、ゴミ袋が置かれていた。

「ゴミステーションまで持って行ってくれませんか」

海斗は、一瞬ためらう。

「……あの、それは……」

「妻がいなくなって、一人で家事をしているんです」

高村は、困ったように眉を寄せる。

「朝、ゴミを出し忘れてしまって」

少し間。

「お願いできますか」

その口調は、「お願い」ではなかった。

指示だった。

断れない空気を作る、巧妙な圧力。

海斗は、少し違和感を覚える。

けれど、断る理由もない。

「……分かりました」

「助かります」

高村は、すぐにドアを閉めた。

礼も言わない。

海斗は、ゴミ袋を持ち上げる。

重い。

結び目が、緩い。

「……ちゃんと縛ってないな」

海斗は、ゴミステーションへ向かう。

袋を持ち上げた瞬間。

何かが、滑り落ちた。

パサッ。

地面に落ちる。

海斗は、足を止める。

見下ろす。

算数ドリルだった。

海斗は、それを拾い上げる。

表紙に、名前が書かれていた。

「高村陽葵」

子どもの字。

海斗は、ドリルを開く。

ページをめくる。

その瞬間、息を呑んだ。

余白いっぱいに、文字が書かれていた。

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」

何度も、何度も。

消しゴムで消した跡がある。

また、書き直している。

びっしりと、埋め尽くされていた。

海斗は、ページをめくる。

次のページも。

その次も。

すべて、同じだった。

「ごめんなさい」

そして、最後のページの隅。

震える字で、小さく。

「たすけて」

海斗の背筋が、寒くなった。

これは、SOSだ。

ゴミとして捨てられた、助けを求める声。

海斗は、ドリルを見つめる。

高村宅の窓を見上げる。

カーテンは、閉まったままだった。

海斗は、ドリルを鞄に入れる。

スマホを取り出す。

連絡先を探す。

柊木直子。

電話をかける。

数回のコール。

「はい、柊木です」

「海斗です。今、いいですか」

「……はい」

「見てもらいたいものがあります」

少し間。

「会って話します。いつもの喫茶店で」

直子は、少し考える。

「……分かりました。30分後に」

「お願いします」

電話を切る。

海斗は、もう一度高村宅を見上げる。

さっきの高村の顔を思い出す。

穏やかな口調。

けれど、その奥にある冷たさ。

人を支配する、巧妙な圧力。

海斗は、自転車にまたがり、走り出した。

胸の中に、小さな不安が広がっていく。


第五章:空気の断層

いつもの喫茶店。

夕暮れ時。

直子は窓際の席に座り、コーヒーカップを見つめていた。

手をつけていない。

ただ、じっと窓の外を見ている。

街に、夕日が差し込んでいる。

影が、長く伸びている。

ドアベルが鳴る。

海斗が入ってくる。

鞄を抱えている。

直子と目が合う。

「お待たせしました」

「いえ」

海斗は、向かいの席に座る。

鞄をテーブルの横に置く。

「見てもらいたいものって……」

海斗は、鞄から算数ドリルを取り出す。

テーブルに置く。

「これ……配達先のゴミから出てきたんです」

直子が、手に取る。

表紙を見る。

「高村陽葵」

子どもの字で、名前が書かれている。

直子の表情が、凍りつく。

「……柊木さん?」

海斗が聞く。

「……知っています」

直子は、小さく答える。

「担当案件です」

海斗は、少し驚く。

「え……そうなんですか」

直子は、うなずく。

そして、ドリルを開く。

ページをめくる。

余白に、文字がびっしりと書かれていた。

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」

直子の手が、わずかに震える。

ページをめくる。

また「ごめんなさい」。

めくる。

また「ごめんなさい」。

消しゴムで消した跡。

また書き直した跡。

何度も、何度も。

直子は、最後のページを開く。

隅に、小さく。

「たすけて」

震える字で、書かれていた。

直子の呼吸が、止まる。

右手が、無意識に左手首へ伸びる。

さする。

また、さする。

「……配達に行ったら」

海斗が口を開く。

「ゴミを捨ててくれって言われて」

「……」

「袋から落ちて……これが」

直子は、黙って聞いている。

ドリルから、目を離せない。

「あの人……なんか、おかしかったです」

海斗は続ける。

「丁寧なんだけど、人を下に見てる感じで」

少し間。

「配達が少し遅れただけで、すごく責められて」

直子は、ドリルを見つめたまま。

「完璧を求めてるっていうか……」

海斗の言葉が、直子の胸に刺さる。

完璧。

また、その言葉。

「あの家、なんか……空気が変でした」

海斗は、言葉を探す。

「玄関入った瞬間、息が詰まるっていうか」

少し間。

「人が生きてる感じがしないっていうか」

直子が、顔を上げる。

海斗を見る。

「……」

海斗は、直子の目を見て、言葉を続ける。

「なんて言えばいいか、分からないんですけど」

「薄い、んです。空気が」

直子は、その言葉を聞いて、胸が締め付けられる。

陽葵の虚ろな目。

完璧に整った部屋。

生活感のない家。

すべてが、繋がる。

直子は、ドリルを閉じる。

「……ゴミを勝手に見るのは、問題です」

声が、冷たい。

海斗が、顔を上げる。

「え?」

「プライバシーに関わります」

直子は、感情を押し殺そうとする。

海斗は、少し戸惑う。

「でも、これ……助けを求めてるじゃないですか」

「……それは、憶測です」

「憶測じゃないです」

海斗が、ドリルを指す。

「こんなに書いて……消して……また書いて……」

直子の視線が、揺れる。

「事実として……証明できません」

声が、震える。

海斗は、直子の顔を見る。

いつもと、違う。

何かを、必死に抑えている。

「柊木さん……」

「調査は、私がします」

直子が立ち上がる。

テーブルに手をつく。

海斗が、その手を見る。

左手首が、真っ赤になっていた。

さすりすぎた痕。

爪で引っ掻いた痕。

「……柊木さん、それ……」

直子は、慌てて袖を下ろし、算数ドリルを手に取る。

「……これ、預かります」

海斗が顔を上げる。

「え?」

直子は、ドリルを鞄に入れる。

「失礼します」

足早に去る。

ドアベルが鳴る。

海斗は、一人残された。

店長が、カウンターから声をかける。

「……大丈夫?」

「……わからないです」

ドリルの表紙。

「高村陽葵」

子どもの、助けを求める声。

そして、柊木さんの左手首。

海斗は、窓の外を見る。

夕日が、沈んでいく。

街が、暗くなり始める。

柊木さんも、何かと戦ってる。

海斗は、そう感じた。

けれど、それが何なのか。

まだ、分からなかった。


第六章:逃亡先の沈黙

翌日。

直子は、調査官室で資料を整理していた。

机の上に、算数ドリルが置かれている。

「高村陽葵」

直子は、ドリルを開く。

「たすけて」の文字の近く。

かすかに、数字が見える。

消されているが、うっすらと読める。

電話番号の断片。

直子は、その数字を書き出す。

スマホを取り出し、番号を入力する。

発信ボタンを押す。

数回のコール。

「はい、ひかりホームです」

女性の声。

直子は、少し息を呑む。

「……家庭裁判所調査官の柊木と申します」

「はい」

「高村結衣さんは、そちらに?」

少し間。

「個人情報については……」

「分かっています。ですが、お子さんのことで確認が必要です」

沈黙。

「……少しお待ちください」

保留音。

直子は、息を整える。

保留が解除される。

「本人の了承が取れました。いつ来られますか?」

「今日の午後、伺います」

電話を切る。

直子は、海斗に連絡する。

「見つかりました。結衣さんの居場所」

「え……どこに?」

「シェルターです。一緒に来てもらえますか」

「……はい」

午後。

直子と海斗は、住宅街の一角に立っていた。

看板もない、普通の建物。

「ここです」

直子が、インターホンを押す。

スタッフが出迎える。

「どうぞ」

簡素な廊下を歩く。

面会室に案内される。

直子と海斗が、椅子に座る。

しばらく待つ。

扉の向こうで、足音。

扉が開く。

痩せた女性が入ってくる。

高村結衣。

髪は短く切られ、目の下にクマがある。

憔悴しきった様子。

けれど、目は生きていた。

「……家庭裁判所の、柊木です」

直子が名乗る。

結衣は、小さくうなずく。

「……はい」

声が小さい。

「こちらは、風間さん」

海斗が会釈する。

結衣も、会釈を返す。

「少し、お話を聞かせてください」

直子が言う。

結衣は、椅子に座る。

両手を膝の上に置く。

直子は、まっすぐ結衣を見る。

「なぜ、息子さんを置いて出たんですか」

結衣は、視線を落とす。

「……それは……」

言葉が出ない。

直子の声が、冷たくなる。

「それは、育児放棄です」

結衣の肩が、わずかに震える。

「陽葵くんは、あなたを待っています」

直子は続ける。

「なぜ、一緒に連れて来なかったんですか」

結衣は、唇を噛む。

何も言えない。

海斗が、その様子を見ている。

結衣は、泣いていない。

ただ、耐えている。

しばらく、沈黙。

結衣が、ゆっくりと顔を上げる。

「……話します」

声が震える。

「本当のこと、を」

直子と海斗が、その顔を見る。

結衣の目に、涙が浮かぶ。

「あの人は……」

言葉を絞り出す。

「私を、壊そうとしたんです」


第七章:微細な暴力の蓄積

結衣が、語り始める。

「あの人は……私を、壊そうとしたんです」

直子と海斗は、黙って聞く。

結衣の声は震えているが、止まらない。

「最初は……優しかったんです」

結衣は、視線を落とす。

「完璧な人だと思いました」

少し間。

「でも、結婚してから……変わりました」

結衣の手が、膝の上で握られる。

「料理を作っても……『これは塩が多い』『味が薄い』」

声が、細くなる。

「何時間も、詰められました」

直子は、メモを取る手を止める。

「『君は何も分かっていない』『僕が正してあげる』」

結衣は続ける。

「掃除も、洗濯も……すべてに『正解』がありました」

「あの人の、正解が」

海斗が、静かに聞いている。

「『なぜできないの?』『何度言えば分かるの?』」

結衣の目に、涙が浮かぶ。

「私は……謝り続けました」

「ごめんなさい、ごめんなさいって」

直子の胸が、冷たくなる。

「ごめんなさい」

算数ドリルの文字。

陽葵の、声なき声。

「陽葵が生まれてから……もっと酷くなりました」

結衣は、震える声で続ける。

「『子どもの教育は完璧にしなければ』って」

「陽葵にも、同じことを……」

結衣は、言葉を詰まらせる。

「私が陽葵を守ろうとすると……否定されました」

「『君の甘やかしが、子供をダメにする』って」

直子の右手が、無意識に左手首へ伸びる。

「友人に会うことも……許されなくなりました」

結衣は、顔を上げる。

「『君は家族のことだけ考えればいい』って」

「実家にも、連絡できなくなって……」

声が、かすれる。

「誰にも……相談できませんでした」

海斗が、小さく息を吐く。

「何をしても、否定されました」

結衣の涙が、頬を伝う。

「『お前は間違っている』『僕が正してやる』」

「その言葉が……檻になったんです」

直子の手が、左手首を強くさする。

爪が、食い込む。

「私は……自分を信じられなくなりました」

結衣は、両手で顔を覆う。

「陽葵を守ろうとすればするほど……」

「私が、壊れていくんです」

少し間。

「このままでは……陽葵を道連れに、死んでしまうと思いました」

結衣が、顔を上げる。

「だから……逃げました」

涙で濡れた顔。

「一人で」

直子は、その顔を見ている。

母の顔が、重なる。

あの日の朝。

笑顔で弁当を渡した、母。

「お前のためを思って」

父の声が、耳に蘇る。

「正しくあれ」

「完璧であれ」

直子の左手首が、熱くなる。

痛い。

結衣が、直子を見る。

「私は……間違っていたんでしょうか」

声が、震える。

「陽葵を置いて行った私は……」

「……母親失格ですか」

直子は、答えられない。

喉が、詰まる。

言葉が、出てこない。

海斗が、その様子を見ている。

面会室に、沈黙が落ちる。

結衣の涙だけが、音を立てていた。


第八章:最後の母親

直子が、沈黙を破る。

「……一つ、聞きたいことがあります」

結衣が、顔を上げる。

直子の声が、冷たい。

「失踪した朝……あなたは陽葵くんに朝食を出しましたね」

結衣が、息を呑む。

「ご主人の証言では……満面の笑顔だったと」

直子は続ける。

「そんな笑顔ができるなら……」

少し間。

「なぜ、一緒にいてやれなかったんですか」

声が震える。

「笑顔で送り出して……捨てたんですか」

「それが、母親のすることですか」

海斗が、直子を見る。

「柊木さん……」

けれど、直子は止まらない。

結衣は、俯く。

何も言えない。

涙が、ぽたぽたと落ちる。

けれど、否定しない。

しばらくの沈黙。

結衣が、口を開く。

「……あの笑顔が」

声が、かすれる。

「私が……最後に母親でいられた瞬間だったんです」

直子の呼吸が、止まる。

結衣は、顔を上げる。

「あの朝……陽葵のために朝食を作りました」

涙が、止まらない。

「いつも通り、笑顔で」

「『いってらっしゃい』って……送り出しました」

声が、震える。

「それが……精一杯でした」

結衣の手が、テーブルを握る。

「そうしないと……」

少し間。

「陽葵を道連れにして……死んでしまうと思ったんです」

直子の胸が、冷たくなる。

「あの笑顔を作るので……すべてを使い果たしました」

結衣は、直子を見る。

「愛しているから……」

涙が頬を伝う。

「これ以上、陽葵を汚さないために」

「私は……私を消すしかなかったんです」

その言葉が、直子の奥深くを刺す。

愛しているから、去った。

守るために、捨てた。

矛盾した、真実。

直子の脳裏に、母の顔が浮かぶ。

あの朝の笑顔。

弁当を渡す手。

「いってらっしゃい」

あれも、最後だった。

母も、同じだったのか。

あの笑顔も、最後の力だったのか。

直子の右手が、左手首へ伸びる。

激しく、さする。

また、さする。

爪が、皮膚に食い込む。

「……柊木さん」

海斗が、直子の手を見る。

直子は、止まらない。

さすり続ける。

痛い。

けれど、止められない。

胸の奥が、熱くなる。

喉が、詰まる。

直子は、立ち上がる。

「……少し、失礼します」

声が、震えている。

「柊木さん!」

海斗が呼び止める。

けれど、直子は面会室を出る。

ドアが閉まる。

廊下に、直子だけが残された。

壁に手をつく。

呼吸が、浅い。

母の顔が、消えない。

「無責任な女」

父の声が、耳に蘇る。

けれど、違う。

もしかしたら、違う。

母は私を捨てたんじゃない。

母も、結衣さんと同じように。

愛していたから、去ったのかもしれない。

直子の左手首が、熱い。

痛い。

けれど、それが母の痛みだったのかもしれない。

直子は、その場に座り込んだ。


第九章:手首の痣の記憶

廊下。

直子は、壁に背を預けて座っていた。

呼吸が、浅い。

左手首を、見つめる。

赤くなった痕。

さすりすぎた、痕。

その瞬間、記憶の扉が開いた。

母が失踪した日の朝。

高校生の直子。

制服を着て、玄関に立っている。

母が、弁当を渡してくれた。

「いってらっしゃい」

笑顔で。

その時。

母の手が、左手首に触れた。

無意識に、さすっていた。

真っ赤になるまで。

直子は、それを見ていた。

けれど、意味が分からなかった。

今、分かる。

自分も、同じことをしている。

ストレスを感じた時。

無意識に、左手首をさする。

母から受け継いだ、癖。

それは、トラウマの痕跡だった。

他の記憶が、蘇る。

夜、台所で一人でいる母。

左手首を、さすっている。

何度も見ていた。

けれど、当時は気づかなかった。

それが「助けを求めるサイン」だったことに。

父の声が、耳に蘇る。

「お前のために言っている」

「正しくあれ」

「完璧であれ」

外面が良く、家では違った。

母へ。

直子へ。

支配していた。

母は、何も言わなかった。

ただ、耐えていた。

笑顔を作り続けていた。

けれど、左手首は嘘をつけなかった。

さすり続けていた。

直子の胸の中で、何かが揺れる。

母も……結衣さんと、同じだったのかもしれない。

父という支配から逃れるために。

一人で去るしかなかったのかもしれない。

「……かもしれない」

直子は、小さく呟く。

けれど、分からない。

本当のことは、分からない。

母は何も語らず、去った。

もう、聞くこともできない。

「母は、私を愛していたのか」

「それとも……」

答えは、ない。

ただ、左手首の赤い痕だけが残っている。

母も、同じ痕を残していた。

それだけが、事実。

それ以上は、推測でしかない。

直子の中で、何かが崩れていく。

30年近く信じてきた「事実」。

「母は無責任な女」

それは、間違っていたのかもしれない。

けれど、真実も分からない。

「事実」だけでは、真実は見えない。

けれど、真実も、手に入らない。

この「分からなさ」が、直子を苦しめる。

調査官としての「正しさ」。

事実至上主義の鎧。

すべてが、意味を失う。

直子は、激しい眩暈に襲われた。


第十章:機能不全の調査官

呼吸が、乱れる。

浅く、速く。

過呼吸。

胸が苦しい。

空気が、入ってこない。

視界が、ぼやける。

直子は、その場に崩れ落ちた。

床に手をつく。

震える。

全身が、震える。

面会室のドアが開く。

足音。

「柊木さん!」

海斗の声。

駆け寄ってくる。

直子の肩を支える。

「柊木さん……大丈夫ですか」

直子は、答えられない。

呼吸が、できない。

「ゆっくり……ゆっくり息を吸って」

海斗が、直子の背中をさする。

直子は、必死に呼吸を整えようとする。

けれど、止まらない。

涙が、溢れる。

止められない。

「柊木さん……」

海斗が、静かに言う。

「もう、いいんです」

少し間。

「もう、『いい子』のフリは終わりです」

その言葉が、直子の胸を貫く。

直子の涙が、止まらない。

「逃げましょう」

海斗が、直子を支えて立ち上がらせる。

ゆっくりと。

直子は、海斗の肩に手を置く。

調査官ではなく。

ただの、傷ついた娘として。

二人は、廊下を歩く。

シェルターの外へ。

ドアを開ける。

外の空気が、頬に触れる。

夕日が、沈みかけていた。

空が、オレンジ色に染まっている。

直子は、その光を見上げる。

涙が、頬を伝う。

けれど、呼吸が少しずつ落ち着いてくる。

海斗は、何も言わない。

ただ、隣に立っている。

直子は、空を見上げたまま。

答えは、ない。

母の真実も。

自分の「正しさ」も。

何も、分からない。

けれど。

何かが、変わり始めていた。

小さく、確かに。


第十一章:檻の破壊

数日後。

直子は、高村宅へ向かっていた。

インターホンを押す。

「はい」

高村の声。

ドアが開く。

「お待ちしていました」

高村は、いつも通り丁寧だった。

リビングへ案内される。

直子は、ソファに座る。

高村も、向かいに座る。

「妻のことですが……」

高村が口を開く。

「やはり、勝手に出て行ったのは事実です」

「私は、完璧に家事をこなしています」

「息子も、問題なく育っています」

いつもの論理。

直子は、黙って聞いている。

高村は続ける。

「妻の親権を、私に認めていただきたい」

「私なら、陽葵を正しく育てられます」

直子は、鞄から何かを取り出す。

算数ドリル。

テーブルに、置く。

高村の表情が、わずかに変わる。

「……それは?」

「陽葵くんのドリルです」

直子は、ページを開く。

びっしりと書かれた「ごめんなさい」。

高村が、それを見る。

「……落書きでしょう」

「いいえ」

直子は、高村を見る。

「陽葵くんは、何に謝っているんでしょうか」

高村は、視線を逸らす。

「子供は……よく、そういうことを……」

「何度も消して、書き直して」

直子は続ける。

「ここには『たすけて』と、書かれています」

高村の顔が、わずかに歪む。

「私は……教育をしているだけです」

声が、硬くなる。

「子供には、正しさを教えなければ」

「妻が甘やかすから……私が正さなければ」

直子は、高村を見つめる。

「あなたが守っているのは……」

少し間。

「家族ではない」

高村の目が、直子を睨む。

「自分の『正しさ』です」

高村の顔が、変わる。

「……何が分かるんですか!」

声が大きくなる。

「私がどれだけ努力してきたか!」

立ち上がる。

「完璧に家事をして、子供を育てて!」

「それなのに、妻は逃げた!」

丁寧な口調が、崩れていく。

「私は……私は間違っていない!」

その時、廊下に気配があった。

陽葵が、リビングの入り口に立っている。

父の叫ぶ姿を、見ている。

高村が、陽葵に気づく。

「……陽葵」

声が、わずかに震える。

「部屋に、戻りなさい」

陽葵は、動けない。

父の顔を、見ている。

初めて見る、父の「素顔」。

怒りに歪んだ、醜い顔。

これが、母が恐れていたもの。

これが、自分を縛っていた「檻」。

「戻れと言っている!」

高村が、声を荒げる。

陽葵が、怯える。

直子が、立ち上がる。

高村と陽葵の間に、立つ。

高村を見る。

「……あなたの『正しさ』が」

少し間。

「陽葵くんを、壊しています」

高村の顔が、さらに歪む。

「あなたに……何が分かる……!」

直子は、答えない。

ただ、陽葵を振り返る。

その目を、見る。

虚ろだった目。

怯えている目。

けれど、その奥に、何かがある。

直子は、小さく頷いた。

陽葵は、その視線を受け止める。

初めて、大人に守られている。

そう感じた。


第十二章:陽葵の涙

直子は、陽葵に向き直る。

「陽葵くん」

優しい声。

陽葵が、直子を見る。

「少し、お話ししてもいいですか」

高村が、割って入る。

「何を勝手に……」

直子は、高村を見ない。

ただ、陽葵だけを見ている。

「お母さんに、会いました」

陽葵の目が、わずかに揺れる。

「お母さんは……元気でした」

「余計なことを……!」

高村が声を荒げる。

けれど、直子は動じない。

陽葵を見続ける。

「お母さんは……」

少し間。

「あなたを嫌いになったんじゃありません」

陽葵が、息を呑む。

「守るために……」

直子は続ける。

「一度、外へ出ただけです」

陽葵の目に、涙が浮かぶ。

けれど、まだ抑えている。

「……お母さんは、悪い人だって……」

声が震える。

「お父さんが……」

「陽葵!!部屋に戻りなさい!」

高村が、陽葵の腕を掴もうとする。

直子が、その手を制する。

「触らないでください」

静かに、けれど強く。

高村の手が、止まる。

直子は、陽葵を見る。

「お母さんは……あなたを愛していました」

「だからこそ、苦しかった」

少し間。

「一緒にいることが……あなたを傷つけると思ったから」

陽葵の涙が、溢れる。

「……お母さん……」

声が出る。

子供らしい、震える声。

「お母さんに……会いたい……」

陽葵が、その場に座り込む。

声を上げて泣く。

「お母さん……お母さん……」

何度も、何度も。

涙が、止まらない。

完璧な優等生の仮面が、剥がれる。

ただの、10歳の子供に戻る。

泣き声が、家に響き渡る。

高村が、立ち尽くす。

何も言えない。

息子の泣き声。

死んでいたような家に、初めて「生」の音が響く。

直子は、陽葵を見ている。

表情は変えない。

けれど、その目は優しい。

陽葵は、泣き続ける。

「会いたい……会いたいよ……」

声が、かすれる。

それでも、泣き続ける。

直子は、そっと陽葵の隣に座る。

何も言わない。

ただ、隣にいる。

陽葵の泣き声だけが、響いている。

高村は、壁に手をつく。

何かを言おうとする。

けれど、言葉が出ない。

自分の「正しさ」が。

息子を、ここまで追い詰めていた。

陽葵は、まだ泣いている。

直子は、じっと待つ。

泣き止むまで。

時間が、ゆっくりと流れる。

陽葵の泣き声が、少しずつ小さくなる。

しゃくり上げながら。

それでも、涙は止まらない。

直子は、立ち上がる。

高村を見る。

「後日、改めて訪問します」

高村は、何も言えない。

直子は、玄関へ向かう。

陽葵が振り返り、直子のスーツの裾をそっと握る。

直子が、立ち止まる。

「お母さんに……会える?」

直子は、小さく頷いた。

「会えます」

陽葵の顔に、かすかな光が灯る。

直子は、玄関を出た。

ドアが閉まる。

家の中に、静寂が戻る。

けれど、もう以前とは違う。

陽葵の涙が、檻を壊した。


第十三章:届かない声

数日後。

直子は、ひかりホームを訪れていた。

面会室。

結衣が、入ってくる。

直子と向かい合って座る。

「陽葵くんに、会ってきました」

直子が言う。

結衣が、顔を上げる。

「……どうでしたか」

不安そうな顔。

「泣いていました」

結衣が、息を呑む。

「『お母さんに会いたい』と」

直子は、淡々と伝える。

感情を込めない。

事実として。

結衣が、泣き崩れる。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

何度も、謝る。

両手で顔を覆う。

直子は、黙って見ている。

慰めない。

ただ、待つ。

しばらくして、結衣が顔を上げる。

「……会えますか」

「面会には、時間がかかります」

直子が答える。

「児童相談所との調整が必要です」

「すぐには会えません」

結衣の顔が、曇る。

「……はい」

少し間。

直子が続ける。

「でも、必ず会えます」

淡々と。

けれど、確かに。

結衣が、顔を上げる。

「……本当に?」

「はい」

直子は、うなずく。

結衣が、少し安堵する。

けれど、まだ不安は残っている。

「私……ちゃんと、謝れるでしょうか」

「それは、分かりません」

直子は正直に答える。

「陽葵くんが、どう思うかは」

結衣は、うなずく。

「……そうですよね」

直子は、結衣を見ている。

その姿に、母の顔が重なる。

母も、こうだったのかもしれない。

苦しんで。

迷って。

それでも、去るしかなかった。

けれど、分からない。

もう、確かめることもできない。

直子は、何も言わない。

「また、連絡します」

直子が立ち上がる。

結衣も立ち上がる。

「……ありがとうございます」

直子は、小さく頷くだけ。

面会室を出る。

シェルターの外へ。

空が、曇っている。

直子は、スマホを取り出す。

海斗にメッセージを送る。

「今から、そちらへ向かいます」

送信。

直子は、駅へ向かって歩き出す。

いつもの道。

いつもの空。

左手首が、少し痛む。

直子は、右手を伸ばしかける。

けれど、止める。

そのまま、歩き続けた。


第十四章:温かなコーヒーの温度

いつもの喫茶店。

海斗が窓際の席に座っていた。

ドアベルが鳴る。

直子が入ってくる。

「お疲れ様です」

海斗が手を上げる。

直子は向かいの席に座った。

「陽葵くんは……泣いていました」

直子が言う。

「結衣さんにも伝えました」

淡々とした報告。

感情は見せない。

海斗は直子の顔を見る。

以前と少し違う。

何が変わったのか、言葉にはできないけれど。

何かが違う。

海斗はふと直子の左手首を見る。

まだ赤い。

けれど以前よりも薄くなっている。

直子は左手首に触れない。

ただコーヒーカップを見つめている。

しばらく沈黙。

店内の音だけが聞こえる。

コーヒーメーカーの音、食器の触れ合う音。

居心地の悪くない沈黙。

「柊木さん」

海斗が口を開く。

「はい」

「……何か、変わりましたか?」

直子が少し考える。

「……分かりません」

海斗はうなずく。

「そうですか」

少し間。

「今日は僕の奢りです」

海斗が店長に声をかける。

「カフェオレ、一つお願いします」

直子が顔を上げる。

「……いつもはブレンドですが」

「たまには甘いものも」

海斗が笑う。

「悪くないですよ」

しばらくして、カフェオレが運ばれてくる。

温かいカップが直子の前に置かれる。

湯気が立ち上る。

直子は両手でカップを包んだ。

温かい。

手のひらに熱が伝わり、ほんの少し体が緩む。

直子は一口飲む。

甘い。

「……甘いですね」

「はい」

海斗が答える。

直子はもう一口飲んでカップを見つめる。

口元がわずかに緩んだ。

微笑みとまでは言えない。

けれど少しだけ。

「それ、似合ってますよ」

海斗が言う。

「……何がですか」

「その顔」

直子が少し戸惑う。

「……そうですか」

カップを置く。

海斗は自分のコーヒーを飲む。

二人はまた沈黙する。

けれどそれは悪くない時間だった。

しばらくして直子が立ち上がる。

「ごちそうさまでした」

「いえ」

海斗も立ち上がる。

二人は店を出た。

外は少し寒い。

「また何かあったら連絡します」

直子が言う。

「はい」

海斗がうなずく。

それぞれの方向へ歩き出す。

直子は駅へ向かう。

左手首に触れることなく、そのまま歩き続ける。

空が少し明るくなっていた。


第十五章:路地裏の夜明け

朝。

カーテンから光が差し込んでいた。

直子は目を覚ます。いつもより早い時間だった。

ベッドから起き上がる。クローゼットを見る。

奥に、段ボール箱がある。

直子はその箱を、何年も開けていなかった。

開ければ、母を思い出す。

母への怒りが、蘇る。だから、触れなかった。

直子は箱の前に座り、手を伸ばす。

指先が、箱に触れる。

少し、間。

直子は蓋を開けた。

中には、母の私物。服が、畳まれている。

写真が、数枚。手紙の束。

直子は一つ一つ手に取る。

母の服は、小さかった。

直子よりも、ずっと華奢だった。

写真を見る。幼い直子と、母。

笑顔で写っている。

直子は、その写真をじっと見つめる。

この笑顔も、作られたものだったのだろうか。

それとも。分からない。

直子は写真を箱に戻した。

箱の底に、日記がある。

直子はそれを取り出す。

古い、茶色の手帳。表紙が擦れている。

表紙を開こうとするが手が震える。

しばらくして直子は手帳を箱に戻した。

服も、写真も、手紙も。

すべてを箱に戻し、蓋を閉める。

直子はクローゼットに箱を戻した。

立ち上がり、スマホを取り出す。

施設の連絡先を開く。

父がいる、介護施設。

直子は一度も面会に行っていなかった。

会いたくなかった。

父の顔を見れば、あの日々が蘇る。

「正しくあれ」という声が。

けれど、今は違う。

直子はメールを書き始めた。

「面会を希望します」

シンプルな文面。

日時の希望を書く。

直子は画面を見つめる。

送信ボタンの上に、指を置く。

少し、迷う。

直子はボタンを押した。

送信完了。

直子はスマホを置く。

窓の外を見る。

朝陽が、街を照らしている。

直子は深く息を吸った。

新しい一日が、始まろうとしていた。

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