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第六話:無菌室の少年

第一章:無菌室の配達

午後3時。

海斗は自転車を走らせ、高級マンションの前に止まる。

「グランドメゾン青山」

エントランスには、大理石の床とシャンデリア。

配達員が入るには、少し気後れする場所だった。

海斗はインターホンを押す。

「はい」

少年の声。落ち着いている。

「配達です。早川様のお荷物をお持ちしました」

「ありがとうございます。今開けます」

エレベーターで12階へ。廊下も静かで、足音だけが響く。

1203号室のドアが開く。

出てきたのは、中学生くらいの少年だった。制服姿。

紺のブレザーに、ネクタイもきちんと締めている。

髪は短く整えられ、姿勢がいい。

「ご苦労様です。いつも助かります」

少年は、完璧な敬語で言う。笑顔も、教科書通りだった。

海斗は荷物を渡す。段ボール箱が二つ。

完全栄養食と書かれている。

もう一つには、オーガニック野菜のラベル。

「重いので、気をつけてください」

「大丈夫です。ありがとうございます」

少年は荷物を受け取り、玄関の中に入る。

海斗は帰ろうとして、足を止めた。

少年が、荷物を玄関の棚に置いている。

けれど、置き方が、おかしい。

荷物を置く。少し見る。角度を直す。

ほんの数ミリ。また見る。また直す。

何度も、何度も。

まるで、強迫観念に駆られているように。

海斗は、その動作を見て、背筋が寒くなった。

少年が振り返る。

「……何か?」

「いえ。失礼しました」

海斗は頭を下げ、その場を離れた。

エレベーターに乗る。扉が閉まる。

海斗は、あの少年の顔を思い出す。

完璧な笑顔。

完璧な敬語。

けれど、その手は震えていた。


第二章:模範的な調書

家庭裁判所・調査官室。

直子の机に、新しい案件ファイルが置かれた。

表紙には「少年事件・窃盗」とある。

直子はファイルを開き、内容に目を通す。

—— 早川蓮(14歳・中学2年生)

—— 万引き(ディスカウントストア「メガマート」)

—— 被害品:スナック菓子、清涼飲料水

—— 被害額:約2,000円

—— 初犯、現行犯逮捕、即日釈放

直子は、次のページをめくる。

少年の調書がある。

「魔が差しました」

「お店の方に申し訳ないです」

「弁償し、二度としません」

「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございません」

完璧な反省文だった。句読点の位置まで正しい。

謝罪の言葉に、一つの乱れもない。

直子は、その文章を読み、眉をひそめる。

あまりに、整いすぎている。

14歳の少年が、こんな文章を書くだろうか。

直子は、中条あかねを思い出す。

完璧な笑顔。

完璧な妻。

その裏にあった、歪み。

直子は、右手が無意識に左手首をさする。

この少年も、何かを隠している。

直子は、そう感じた。

生理的な拒絶感が、胸の奥に広がる。

この完璧さは、嘘だ。


第三章:父の書斎

翌日、直子は早川家を訪問した。

玄関を開けたのは、母親だった。40代。

穏やかな顔だが、どこか生気がない。

「家庭裁判所の柊木です」

「ああ、はい。お待ちしておりました」

母親の声は小さく、抑揚がない。

リビングに通される。

部屋は清潔で、物が少ない。生活感がない。

テーブルの上には何もなく、ソファのクッションも

寸分の狂いなく並んでいる。

「主人を呼びます」

母親が奥へ消える。

しばらくして、男性が現れた。

早川誠一郎。50代。

スーツ姿。眼鏡をかけ、姿勢がいい。

「柊木さんですね。お世話になります」

声は穏やかだが、威圧感がある。

理路整然とした話し方。

「どうぞ、書斎へ」

誠一郎は、直子を書斎へ案内する。

壁一面に本棚。

医学書、専門書、ビジネス書が整然と並んでいる。

背表紙の高さまで揃っている。

「息子のことで、ご迷惑をおかけしました」

誠一郎は、革張りの椅子に座る。

「蓮には、完璧な環境を与えています」

少し間。

「栄養管理も、教育も、すべて最適化している」

誠一郎は続ける。

「何かの間違いだと思っていました。

あるいは、悪い友人の影響か」

直子は、メモを取る。

「ご本人とお話しできますか」

「もちろん」

誠一郎がインターホンを押す。

「蓮、来なさい」

しばらくして、蓮が入ってくる。

制服姿。姿勢がいい。

父の横に立つ。直立不動。

「……失礼します」

蓮は、小さく頭を下げる。

直子は、蓮を見る。

その姿勢が、まるで兵士のようだった。

「蓮、先日のことを説明しなさい」

誠一郎が言う。

蓮は、顔を上げる。

「……僕が未熟でした」

父が望む言葉を、先回りして口にする。

「反省しています」

誠一郎は、満足そうにうなずく。

直子は、その様子を見て、息が詰まりそうになった。

かつて、自分もそうだった。

父の顔色を伺い、父が望む言葉を探し、

父に逆らわないように生きていた。

直子の右手が、無意識に左手首をさする。

蓮は、直子を見る。

その目は、何も訴えていなかった。

空っぽだった。


第四章:路地裏の異物

その夜、海斗は配達の途中で、塾帰りの蓮を見かけた。

駅前の路地裏。

自動販売機が並んでいる。ネオンが、地面を照らす。

蓮は、自販機の前に立つ。

制服のまま。鞄を肩にかけている。

コインを入れ、ボタンを押す。

出てきたのは、着色料のきつい炭酸飲料だった。

赤い液体。安っぽいパッケージ。

コンビニで100円で売っているような。

蓮は、缶を手に取る。

けれど、飲まない。

ただ、冷たい缶を額に押し当てる。

熱を冷ますように。目を閉じて、じっとしている。

しばらくそうしてから、缶をゴミ箱に捨てる。

未開封のまま。

海斗は、その様子を見て、違和感を覚えた。

飲むために買ったのではない。

では、何のために?

蓮は、そのまま歩いていく。

背中は、少し丸まっている。

制服の背が、夜に溶けていく。

海斗は、その背中を見送る。

胸の奥に、異物感が残った。

何かが、おかしい。


第五章:二度目の過ち

数日後、直子のスマホが鳴った。

警察署からだった。

「柊木さん、早川蓮くんが、また補導されました」

直子は、息を呑む。

「……万引きですか」

「はい。同じディスカウントストアです。メガマート」

「分かりました。すぐ伺います」

直子は、すぐに警察署へ向かった。

取調室に、蓮が座っている。

前回と同じように、姿勢がいい。

表情も、落ち着いている。

制服は乱れていない。

「蓮くん」

直子が声をかける。

蓮は顔を上げる。

「……すみません」

また、完璧な謝罪。

声のトーンも、前回と同じ。

「なぜ、また?」

直子が聞く。

蓮は、少し考える。

「……分かりません」

「分からない?」

「はい」

蓮は視線を落とす。

「魔が差したとしか……」

直子は、蓮を見つめる。

嘘をついている。

けれど、何を隠しているのか。

直子は、事務的な態度を保とうとする。

けれど、心の中で、叫びたくなる。

「嘘をつかないで」

直子は、その衝動を必死に抑える。

「……盗んだ商品は?」

「スナック菓子と、飲み物です」

「前回と同じ?」

「はい」

蓮は、淡々と答える。

直子は、資料を見る。

被害品リスト。

また、ジャンクフードばかりだった。


第六章:リストの共通点

翌日、直子は海斗を喫茶店に呼び出した。

「お疲れさまです」

「お疲れさまです」

海斗は、いつもの席に座る。アイスコーヒーを注文する。

直子は、資料を広げる。

「早川蓮くんが盗んだ商品のリストです」

海斗は、それを見る。

—— 激辛スナック菓子(ハバネロ味)

—— 安っぽいチョコレート(大袋)

—— 色の濃いグミ(着色料使用)

—— 着色料の入った炭酸飲料(赤)

—— カップラーメン(インスタント)

—— ポテトチップス(のり塩)

海斗は、リストを見て、気づく。

「……これ、全部」

「全部?」

「体に悪いものですね」

直子は、海斗を見る。

「体に悪い?」

「添加物とか、着色料とか、保存料とか」

海斗は続ける。

「……あの父親が、一番嫌いそうなものです」

直子は、その言葉を聞いて、息を呑む。

「……どういうことですか?」

「俺、あの家に配達してます」

海斗は説明する。

「完全栄養食とか、オーガニック野菜とか、無添加のものばかりです」

「……」

「多分、父親が管理してるんだと思います」

海斗は、リストをもう一度見る。

「蓮くん、わざと父親が嫌いなものを盗んでるんじゃないですか」

直子は、その言葉を聞いて、すべてが繋がった。

完璧な家。

完璧な父親。

完璧な息子。

その裏で、蓮は何かを壊そうとしている。

父の世界を。

父が作り上げた、完璧な環境を。

直子は、資料を閉じる。

右手が、無意識に左手首をさする。

「……父親への、嫌がらせ」

直子は、小さく呟く。

海斗は、直子の横顔を見る。

「……柊木さん?」

直子は、視線を落とす。

「……明日、もう一度訪問します」

「……大丈夫ですか?」

「何がですか?」

「いえ……」

海斗は、言葉を探す。

「なんか、顔色が悪いです」

直子は、顔を上げる。

「大丈夫です」

けれど、その声は、いつもより硬かった。

二人は、しばらく黙っている。

店内には、ジャズが静かに流れていた。

やがて、直子が立ち上がる。

「失礼します」

「……はい」

直子は、会計を済ませて店を出た。

海斗は、その後ろ姿を見送る。

何かが、おかしい。

柊木さんは、何かを隠している。

海斗は、そう感じた。


第七章:父のルール

翌日、直子は再び早川家を訪れた。

今度は、母親と話がしたかった。

インターホンを押す。

「はい」

母親の声。

「家庭裁判所の柊木です」

「……ああ、はい」

ドアが開く。

母親は、前回と同じような表情だった。

穏やかだが、どこか生気がない。

「ご主人は?」

「今日は、仕事です」

「では、奥様とお話しできますか」

「……はい」

リビングに通される。

二人きりになる。

直子は、資料を開く。

「蓮くんのことで、お伺いしたいのですが」

「はい」

母親は、椅子に座る。背筋を伸ばして。

「家庭での様子は、いかがですか」

「……普通です」

「普通?」

「成績も良いです。反抗期もありません」

母親は、淡々と答える。

「それなのに、万引きを?」

「……分かりません」

母親は、視線を落とす。

「主人も、困惑しています」

直子は、少し間を置く。

「奥様は、どう思われますか」

「……私?」

母親は、少し驚いたように顔を上げる。

「はい」

「……主人の教育方針ですので」

「教育方針?」

「はい。主人が決めたことです」

母親は、そこで言葉を切る。

直子は、その様子を見て、違和感を覚えた。

「奥様ご自身の考えは?」

「……主人の方針に従っています」

「ご自身の意見は?」

「……ありません」

母親は、視線を落とす。

「主人が正しいので」

直子は、その言葉を聞いて、胸の奥に嫌悪感が広がった。

この母親は、考えることを放棄している。

夫の後ろに隠れて、息子を見ようとしない。

直子は、右手が無意識に左手首をさする。

「……蓮くんは、幸せですか」

直子が聞く。

母親は、顔を上げる。

「……幸せだと思います」

「本当に?」

「はい。主人が、最善を尽くしていますから」

直子は、それ以上聞けなかった。

この母親は、何も見ていない。

何も、感じていない。

直子は、その姿に強い嫌悪感を覚える。

けれど、それが何なのか。

なぜ、こんなにも不快なのか。

直子には、分からなかった。


第八章:汚された聖域

直子は、蓮の部屋を見せてほしいと頼んだ。

母親は、少し躊躇してから、案内する。

蓮の部屋。

扉を開けると、そこは完璧に整頓されていた。

机の上には、参考書が並んでいる。

ペン立ても、定規も、すべて直角に配置されている。

ベッドのシーツには、皺一つない。

本棚には、教科書と専門書。背表紙の高さが揃っている。

「……入ってもいいですか」

「はい」

直子は、部屋に入る。

机の引き出しを開ける。

文房具が、きちんと整理されている。

本棚を見る。すべてが、完璧だった。

直子は、クローゼットを開ける。

制服が、ハンガーにかかっている。

その奥に、段ボール箱があった。

「……これは?」

直子が箱を引き出す。

母親が、少し驚く。

「何でしょう……」

直子は、箱を開ける。

中には、未開封のスナック菓子が詰まっていた。

大量に。

激辛スナック。安っぽいチョコレート。

色の濃いグミ。カップラーメン。

すべて、万引きしたものと同じ種類。

「……これ」

母親が、絶句する。

直子は、箱の中を見る。

食べるためではない。

持ち込むことが、目的だった。

この清潔すぎる部屋に。

父が作り上げた、完璧な環境に。

ゴミを持ち込むこと。

それが、蓮の抵抗だった。

直子は、その事実を静かに受け止める。


第九章:海斗の接触

その夜、海斗は配達の途中で、公園のベンチに座る蓮を見つけた。

制服のまま。鞄を横に置いている。

海斗は、自転車を止める。

「……蓮くん?」

蓮は、顔を上げる。

「……あ」

配達員だと、気づく。

「こんな時間に、どうしたんですか」

海斗が聞く。

蓮は、視線を落とす。

「……家に、帰りたくなくて」

「帰りたくない?」

「はい」

蓮は、小さく答える。

海斗は、少し迷ってから、ベンチに座る。

「……何かあったんですか」

蓮は、答えない。

しばらく、沈黙が続く。

やがて、海斗が口を開く。

「……親父さんへの嫌がらせでしょ」

蓮が、顔を上げる。

「……え?」

「万引き」

海斗は続ける。

「わざと、体に悪いもの盗んでる」

蓮は、何も言わない。

ただ、海斗を見る。

「……バレてたんですね」

「まあ」

海斗は、空を見上げる。

「なんで、そんなことするんですか」

蓮は、少し考える。

そして、ポツリと語る。

「……父さんは、添加物を毒だと言う」

声が、震える。

「だから、僕が毒になれば、

父さんの世界を壊せると思った」

海斗は、その言葉を聞いて、胸が痛くなった。

「……壊したかったんですね」

「はい」

蓮は、うなずく。

「完璧な家。完璧な息子。完璧な、すべて」

少し間。

「……僕は、汚いものになりたかった」

海斗は、何も言わない。

ただ、聞く。

蓮は、続ける。

「でも……ダメでした」

「ダメ?」

「父さんは、僕を見ない」

蓮の声が、かすれる。

「盗んでも、怒られても、父さんは僕を見ない」

「……」

「ただ、『間違い』だと言う。『修正する』と言う」

蓮は、両手で顔を覆う。

「……僕は、間違いじゃない」

その声は、泣いていた。

海斗は、蓮の肩に手を置く。

「……間違いじゃないです」

「……」

「蓮くんは、蓮くんです」

蓮は、顔を上げる。

涙が、頬を伝っていた。

海斗は、その顔を見て、何も言えなくなった。

ただ、そばにいることしかできなかった。


第十章:完璧な演技

翌日、直子は蓮と面談した。

調査官室。二人きり。

蓮は、椅子に座っている。姿勢がいい。

直子は、資料を開く。

「蓮くん」

「はい」

「なぜ、万引きをしたのですか」

蓮は、少し考える。

「……魔が差しました」

また、同じ答え。

直子は、視線を上げる。

「嘘ですね」

蓮が、少し驚く。

「……え?」

「あなたは、目的があって盗んだ」

直子は続ける。

「お父様が嫌うものを、わざと選んだ」

蓮は、何も言わない。

「……違いますか」

「……」

蓮は、視線を落とす。

「……僕が、悪いです」

「悪い?」

「はい。病気かもしれません」

蓮は、淡々と言う。

「カウンセリングを受けるべきかもしれません」

直子は、その言葉を聞いて、息を呑む。

自分を病人に仕立て上げてでも、

「良い子」を演じ続けようとしている。

直子の右手が、左手首を強く握りしめる。

爪が、食い込む。

痛い。

けれど、それで少し落ち着く。

「……蓮くん」

「はい」

「あなたは、演じている」

蓮が、顔を上げる。

「……何を、ですか」

「完璧な息子を」

直子は続ける。

「お父様が望む、理想の子どもを」

蓮は、何も答えない。

ただ、直子を見る。

その目は、空っぽだった。

「……演じなければ、生きられません」

蓮は、小さく言う。

「父さんの期待に応えなければ、

僕は存在できません」

直子は、その言葉を聞いて、胸が締め付けられた。

かつて、自分も同じことを思っていた。

父の期待に応えなければ、愛されない。

認められない。

存在できない。

直子は、右手が左手首を掻く。

無意識に。

強く。


第十一章:父の激昂

数日後、三者面談が行われた。

家庭裁判所の面談室。

父・誠一郎、母、蓮、直子。

そして、参考人として海斗も同席していた。

誠一郎は、椅子に座る。背筋を伸ばして。

「今日は、お時間をいただきありがとうございます」

声は、穏やかだった。

直子は、資料を開く。

「蓮くんの件について、お話しします」

「はい」

直子は、証拠品の袋を取り出す。

中には、スナック菓子が入っている。

「これが、蓮くんが盗んだものです」

誠一郎は、その袋を見る。

顔色が、変わった。

「……これを?」

「はい」

直子は続ける。

「そして、蓮くんの部屋からも、

同じようなものが大量に見つかりました」

誠一郎は、袋を手に取る。

そして、中身を見る。

激辛スナック。安っぽいチョコレート。

その瞬間、誠一郎の表情が歪んだ。

「……こんなゴミを」

声が、低くなる。

「家に持ち込んだのか」

蓮は、何も言わない。

ただ、うつむいている。

「答えろ、蓮」

誠一郎の声が、大きくなる。

「こんなゴミを、家に持ち込んだのか!」

蓮は、震えている。

「……はい」

「恥を知れ!」

誠一郎が、机を叩く。

バン、という音が響く。

母が、肩を縮める。

海斗が、少し身構える。

直子は、その音を聞いて、体が硬直した。


第十二章:直子のフリーズ

机を叩く音。

怒鳴り声。

威圧的な空気。

直子の中で、何かが壊れた。

記憶が、一気に蘇る。

父の顔。

怒鳴る声。

机を叩く音。

「お前は、何をやってもダメだ」

「こんな成績で、恥ずかしくないのか」

「出来損ないめ」

直子は、反論すべき場面で、言葉が出なくなった。

喉が、締め付けられる。

呼吸が、浅くなる。

瞬きが、止まる。

表情は、無のまま。

けれど、体は動かない。

誠一郎が、また怒鳴る。

「盗みそのものより、こんな質の悪いものを好んだことが許せん!」

蓮が、小さくなる。

海斗が、直子を見る。

「……柊木さん?」

直子は、答えない。

ただ、じっと座っている。

異常な沈黙が、場を支配する。

海斗は、直子の顔を見て、気づく。

(柊木さんが、壊れかけている)

海斗は、立ち上がった。


第十三章:ジャンクフードの雨

直子が動けない。

誠一郎は、まだ怒鳴っている。

「こんなゴミで、私が作り上げた環境を汚すとは!」

蓮は、椅子にうずくまっている。

母親は、ただ黙っている。

直子は、座ったまま。表情は無。呼吸が浅い。

海斗は、その異常な沈黙に気づく。

柊木さんが、動かない。

このままでは、まずい。

海斗は、床に落ちた証拠品の袋を拾い上げる。

中から、スナック菓子を取り出す。

「……でもこれ、結構うまいですよ」

誠一郎が、海斗を見る。

「何?」

「このスナック菓子」

海斗は、袋を見る。

「俺も、たまに食べます」

誠一郎の顔が、歪む。

「君は、何を言っている」

「いや、だから」

海斗は続ける。

「別に、悪いもんじゃないと思います」

「悪いものだ」

誠一郎が、声を荒げる。

「添加物まみれの、毒だ」

海斗は、少し考える。

そして、蓮を見る。

蓮は、顔を上げる。

海斗は、目で合図する。

(全部、ぶちまけちゃえば?)

蓮は、その目を見て、何かを決意する。

立ち上がる。

証拠品の袋を掴む。

そして、袋を破った。

中身が、床に散乱する。

スナック菓子。チョコレート。グミ。カップラーメン。

すべてが、床にばら撒かれる。

誠一郎が、絶句する。

「何を……」

「……これが僕だ!」

蓮が、叫ぶ。

「汚くて、安っぽくて、父さんが嫌いなゴミだ!」

声が、震える。

「僕は、毒だ!」

蓮は、床に散らばった菓子を掴む。

「僕は、父さんの世界を汚す、ゴミだ!」

その声は、泣いていた。

誠一郎は、何も言えない。

ただ、息子を見る。

母親も、蓮を見る。

海斗は、その光景を黙って見守る。

そして、直子を見る。

直子の瞬きが、戻った。


第十四章:再起動

蓮の叫び声で、直子の時間が再び動き出す。

直子は、震える指を組んで隠す。

深く息を吸う。

努めて冷静な声を作る。

「……お父様」

誠一郎が、直子を見る。

「これが、息子さんの事実です」

声は冷徹だが、顔色は蒼白だった。

いつもの迫力がない。

けれど、その「弱さ」がかえって、蓮には人間らしく映った。

「蓮くんは、あなたの期待に応えようとしてきました」

直子は続ける。

「完璧な息子を、演じてきました」

誠一郎は、何も言わない。

「けれど、もう限界です」

直子は、蓮を見る。

「蓮くんは、壊れかけています」

少し間。

「このままでは、取り返しのつかないことになります」

誠一郎は、視線を落とす。

「……私は、息子のために」

「お父様のため、ではありませんか」

直子が、遮る。

誠一郎が、顔を上げる。

「……何?」

「蓮くんのためではなく、お父様が満足するため」

直子は続ける。

「お父様が作り上げたい理想の家族のため」

「……」

「蓮くんは、その道具ではありません」

誠一郎は、何も言えなくなった。

直子は、立ち上がる。

少しふらつく。けれど、踏みとどまる。

「今日は、ここまでにします」

誠一郎は、うなずく。

蓮は、床に座り込んでいる。

母親が、蓮に近づこうとして、やめる。

海斗は、直子の方を見る。

直子は、ゆっくりと面談室を出た。


第十五章:演じなくていい

数日後、直子は蓮と二人で面談した。

調査官室。

蓮は、椅子に座っている。

けれど、以前とは違った。

姿勢は、少し崩れている。

制服も、少し乱れている。

「蓮くん」

「……はい」

「あなたの演技は、もう破綻しています」

直子は、淡々と言う。

蓮が、顔を上げる。

「完璧な優等生という記録は、ここで終わりました」

少し間。

「あなたはもう、失敗した人間です」

蓮の目に、涙が浮かぶ。

「……だから、もう演じる必要はありません」

その言葉を聞いて、蓮はその場に崩れ落ちた。

声を上げて、泣く。

子どものように。

直子は、その姿を黙って見守る。

「演じなくていい」とは、言わない。

言えない。

自分も、まだ演じているから。

完璧な調査官を。

感情を持たない、機械のような人間を。

直子は、右手が無意識に左手首をさする。

蓮は、泣き続けている。

直子は、その声を聞きながら、じっと待った。


第十六章:別々の道

後日、蓮は一時的に親戚の家へ身を寄せることになった。

物理的な距離が必要だと、判断されたためだ。

早川家の玄関前。

蓮は、小さなスーツケースを持っている。

母親が、見送りに出ている。

誠一郎は、仕事で不在だった。

「……行ってきます」

蓮が、小さく言う。

母親は、何も言わない。

ただ、うなずく。

蓮は、歩き出す。

直子と海斗が、付き添っている。

車まで歩く。

蓮が、振り返る。

母親は、まだ玄関に立っている。

手を振ることも、しない。

蓮は、それを見て、また前を向いた。

車に乗る。

発車する。

蓮は、窓の外を見る。

マンションが、遠ざかっていく。

蓮は、直子を見る。

「……調査官さんも」

「はい?」

「演じるの、上手じゃないですね」

直子は、何も答えない。

蓮は、小さく笑う。

「……でも、少し楽になりました」

その顔には、年相応の幼さが戻っていた。

直子は、その横顔を見る。

そして、窓の外を見た。


第十七章:痛々しい痕

帰り道。

直子は、公園のベンチで動けなくなっていた。

海斗が、缶コーヒーを買って戻ってくる。

「……柊木さん」

直子は、顔を上げる。

「これ、どうぞ」

海斗が、缶を差し出す。

直子は、受け取る。

「……ありがとうございます」

二人は、しばらく黙っている。

海斗は、直子の左手を見る。

袖口から覗く皮膚が、赤く腫れている。

さすったというより、爪で引っ掻いたような痕。

「……それ、痛くないですか?」

海斗が聞く。

直子は、慌てて袖を下ろす。

「……ただの湿疹です」

「湿疹?」

「はい」

直子は、視線を逸らす。

海斗は、それ以上聞かない。

「……温かいですよ」

缶コーヒーを指す。

直子は、缶を両手で包む。

温かい。

少しだけ、体が楽になる。

「……海斗さん」

「はい」

「ありがとうございました」

「いえ」

海斗は首を振る。

「俺、何もしてないです」

「いいえ」

直子は、海斗を見る。

「あなたがいなければ、私は……」

言葉が、途切れる。

海斗は、何も言わない。

ただ、そばにいる。

それだけだった。


第十八章:鎧のほころび

その夜、直子は自宅に戻った。

部屋の電気をつける。

コートを脱ぐ。

左手首を見る。

赤く腫れている。

爪で引っ掻いた痕が、くっきりと残っている。

直子は、洗面所で手を洗う。

水が、傷に染みる。

痛い。

けれど、それで少し落ち着く。

直子は、鏡の中の自分を見る。

疲れた顔。

完璧な調査官の、仮面。

直子は、リビングに戻る。

引き出しを開ける。

奥に、古い写真がある。

高校時代の自分と、母の後ろ姿。

二人で、どこかへ向かっている写真。

顔は、写っていない。

直子は、その写真を手に取る。

「……まだ、終わっていない」

小さく呟く。

自分の中で、何かが終わっていない。

父のこと。

母のこと。

自分のこと。

直子は、写真を引き出しに戻す。

ソファに座る。

コーヒーを淹れる気力もない。

ただ、座っている。

窓の外を見る。

街の明かりが、遠くに見える。

直子の完璧な鎧に、隠せないヒビが入っていた。

けれど、それを認めることは、まだできない。

直子は、目を閉じた。

明日が、また来る。

新しい案件が、また来る。

直子は、また仮面をつけて、仕事に向かう。

それだけだった。

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