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第四話:行かない理由

第一章:校門の外にいる子

昼の住宅街は、音が薄かった。

車のエンジン音も、人の声も、どこか遠い。

学校のチャイムが聞こえる時間帯なのに、この辺りだけが

時間から切り離されているようだった。

海斗は自転車を止め、インターホンを押す。

すぐに反応があった。

ドアを開けたのは、子どもだった。

小学校高学年くらい。制服ではなく、普段着。

海斗は視線を下げ、荷物を差し出す。

「どうぞ」

受け取る手は落ち着いていた。

慌てた様子も、遠慮した様子もない。

「ありがとうございます」

ドアの奥が少しだけ見える。

リビングの机の上に、プリントが重ねて置かれている。

時間割表が壁に貼られていて、その横に削られた鉛筆。

ランドセルは見えない。

海斗は何も言わない。

子どもも、何も言わない。

受け取りが終わる。

海斗が自転車へ戻ろうとした時、背中に声がかかった。

「……あの」

振り返る。

子どもはドアノブに手をかけたまま、少しだけ間を置く。

「……これ、温かいです」

袋を軽く持ち上げる。

海斗はうなずく。

「ですね」

少し考える。

「すぐ食べたほうがいいやつです」

「はい」

それ以上、言葉は続かない。

海斗は門を出て、自転車にまたがる。

ペダルを踏み出す。

玄関の方を振り返ることはしなかった。

ただ、さっき見えた時間割の文字だけが、頭に残っていた。

—— 国語、算数、理科。

昼の校門の外で、その文字だけが妙に浮いていた。


第二章:公園

翌日の昼、公園は静かだった。

平日らしく、人の姿はまばらだ。

遠くで犬の散歩をしている老人が一人。

ベンチで新聞を読んでいる人が一人。

それだけ。

海斗は自転車を押しながら、近道に使っている公園を横切ろうとして

足を止めた。

ブランコが揺れている。

ぎい。

少し間を置いて、また、ぎい。

乗っているのは、昨日の家の子どもだった。

服装は違う。

けれど、空気は変わらない。

時間だけが、合っていない。

海斗は視線を前に戻し、そのまま通り過ぎようとする。

子どもは空を見ている。

前も、後ろも見ない。

ただ、足を動かして、ブランコを小さく揺らしている。

鎖の音が、一定の間隔で続く。

海斗は減速する。

声をかけるか迷って、やめた。

ブランコの横を通り過ぎる瞬間、視線だけが合う。

「……こんにちは」

先に言ったのは、子どもだった。

「こんにちは」

それだけ返す。

ブランコが止まる。

沈黙。

海斗は腕時計を見る。昼休みの時間だった。

学校なら、給食が終わって昼休みに入る頃。

「……暑いっすね」

「……そうですね」

短いやり取り。

それ以上、続かない。

海斗は「じゃあ」と言って、公園を出た。

自転車にまたがり、ペダルを踏み出す。

背中で聞く、ブランコの音。

ぎい。

ぎい。

授業のチャイムとは、まったく違うリズムだった。


第三章:学校案件

家庭裁判所・調査官室。

昼でも静かだった。

書類をめくる音と、キーボードの打鍵音だけがある。

直子は、新しく届いた案件ファイルを開く。

表紙に書かれている名前。

三浦 湊 小学五年

直子は、その名前を特別に見ることはしない。

必要な情報として、目を走らせる。

—— 出席日数不足。

—— 継続的な欠席。

—— 学習進度への影響。

担任教師からの報告書が挟まっている。

直子は行間を飛ばさずに目を通す

—— 本人は明確な拒否を示している。

—— いじめ等の事実は確認されていない。

—— 学力は平均的。

—— 集団生活への適応に問題が出ている可能性。

続いて、保護者からの聞き取り記録。

—— 母・三浦真紀。

—— 家庭環境に大きな問題は見られない。

—— 登校を促しているが、本人が応じない。

直子はページをめくる。

—— 本人面談:未実施。

—— 理由説明:曖昧。

—— 欠席理由:本人の拒否。

直子の指が、「本人の拒否」という文字の上で止まる。

拒否。

言葉としては、正確だ。

分類としても、間違っていない。

直子はそのまま、次の資料を机に並べる。

学校からの要望書。

—— 出席日数そのものより、学習の積み上げが途切れることを懸念。

—— 中学校進学を見据え、早期に学校との接点を回復することが望ましい。

—— 家庭との連携を継続し、登校に向けた環境調整を希望。

直子は要点だけを拾う。

学校は、来るべき場所として扱われている。

その前提は、崩れていない。

電話が鳴る。

直子は受話器を取る。

「柊木です」

相手は、担任教師の佐藤だった。

声は落ち着いている。

「状況は、資料の通りです」

直子はメモを取らない。

「本人の様子に、特別な変化はありますか」

「家では落ち着いていると聞いています」

少し間。

「外にも出ているようです」

「学校以外では、問題はない」

「はい」

短い沈黙。

「ただ……このままにしておくのは、

本人のためにならないと思っています」

直子は否定しない。

「記録上も、出席日数は足りていません」

「はい」

「面談は、行っていますか」

「保護者とは。本人は……拒否しています」

拒否。

その言葉が、もう一度頭の中に置かれる。

「分かりました」

直子はそう言って、電話を切った。

受話器を置き、ファイルを閉じる。

机の上に残ったのは、名前と、数字と、評価だけだった。

直子は新しいメモ用紙を取り、必要事項を書き出す。

—— 家庭訪問。

—— 保護者面談。

—— 本人との接触の可能性。

書き終え、ペンを置く。

ここまでの判断に、迷いはない。

制度としては、正しい流れだった。

直子は立ち上がり、次の予定へ向かう。

校門の外にいる子どもは、まだ、書類の中にいる。


第四章:正しい報告書

学校の会議室は、明るかった。

窓が大きく、掲示物も多い。

黒板には「5年1組 学級目標」と書かれた紙が貼られていて、

その下に子どもたちの寄せ書きが並んでいる。

直子は入口近くの席に座り、机の上に資料を揃えている。

向かいには担任の佐藤が座り、隣に三浦真紀がいた。

三人とも、背筋を伸ばしている。

佐藤が資料を開く。

「では、現在の状況を共有します」

淡々とした口調。

「三浦湊くんは、四月以降、欠席が続いています」

責める調子はない。

真紀は小さくうなずく。

「出席日数の問題というより……」

佐藤は言葉を選ぶ。

「学習の積み上げが途切れてしまうことが心配です」

少し間を置く。

「今すぐどうこう、という話ではありません」

続ける。

「ただ、このままだと中学校に向けて、本人が困る場面が増えていきます」

直子は、佐藤の言葉を遮らない。

「家庭での様子について、何か変化はありますか」

真紀が答える。

「家では……落ち着いています」

言葉を探すように。

「勉強も、できる範囲でやっています」

佐藤は頷く。

「外に出られているというのは、良い兆候だと思います」

「はい」

真紀はそう答えながら、指先を組み直す。

佐藤が続ける。

「ただ……学校に来られない理由が、

はっきりしないのが気になっています」

直子が、資料に目を落としたまま口を開く。

「記録上は、本人の拒否、となっています」

佐藤がうなずく。

「面談も、保護者の方とは行いましたが、本人とはまだです」

直子は視線を上げる。

「拒否されている、という理解でよろしいですか」

佐藤は迷わず答える。

「はい」

真紀が、少しだけ身を乗り出す。

「……拒否、というより……」

言いかけて、止まる。

直子は視線を上げない。

佐藤に向き直る。

「学校としては、どのような対応を想定していますか」

佐藤は資料をめくる。

「段階的な登校です」

ページを指で押さえる。

「最初は保健室からでも構いません」

「クラスに戻ることを、最終目標にしています」

正しい提案だった。制度に沿っている。

マニュアルにも合致している。

「家庭には、引き続き登校を促していただきたい」

真紀は、黙って聞いている。

直子はメモを取りながら、淡々と整理する。

「現時点で、いじめやトラブルは確認されていない」

「はい」

「学力面も、極端な遅れはない」

「はい」

「家庭環境に、大きな問題は見られない」

真紀が、小さく首を振る。

「……はい」

直子は、最後にこう言った。

「記録としては、学校側の対応に問題はありません」

佐藤は、少し安心したように息を吐く。

「ありがとうございます」

真紀は、何も言わない。

直子は資料を閉じる。

「次は、家庭訪問を行います」

ファイルを揃える。

「本人との接触を試みます」

それは、制度として、正しい手順だった。

会議は終わる。

立ち上がる三人の中で、一番遅く席を立ったのは、真紀だった。

扉の前で、一度だけ立ち止まり、振り返る。

「……すみません」

誰に向けた言葉でもない。

直子は答えず、佐藤も何も言わない。

正しい報告書だけが、机の上に残った。


第五章:行けない、という言葉

夕方の住宅街は、昼よりも音が多かった。

子どもの声。

車のドアの開閉音。

遠くのテレビ。

日常の音が重なり合って、生活の匂いを作っていた。

直子は門の前で立ち止まり、インターホンを押す。

少し間があってドアが開いた。

出てきたのは、三浦真紀だった。

「……あ」

驚いたように目を瞬かせ、すぐに姿勢を正す。

「すみません。どうぞ……」

直子は靴を揃え、玄関に入る。

家の中は、整っていた。

物が少なく、床もきれいだ。

散らかっている様子はない。

荒れてもいない。

ただ、どこか息を詰めているような静けさがあった。

リビングの奥から足音がする。

「……来てるよ」

真紀の声に小さく返事があった。

湊が姿を見せる。

昼に見た時と同じように、落ち着いた顔をしている。

表情は硬くない。

けれど、柔らかくもない。

直子は視線を合わせる。

「こんにちは」

少し間。

「昨日は、お母さんとお話ししました」

「……こんにちは」

湊は会釈をした。

直子は続ける。

「少し、お話ししてもいいですか」

湊はすぐには答えない。

真紀の方を一瞬だけ見てから、うなずいた。

三人は、リビングのテーブルを囲む。

直子は資料を広げない。ペンも持たない。

「理由を聞きに来たわけではありません」

湊は、直子を見る。

「学校に行っていないこと。

それは事実として確認しています」

真紀が思わず息を詰める。

直子は視線を外さない。

「それが、"行かない"のか、"行けない"のか」

少し間。

「どちらですか」

湊は視線を落とす。

沈黙。

真紀が口を開きかけ、直子は小さく首を振った。

待つ。

しばらくして湊が言った。

「……行かない、だと」

声は小さい。

「サボってる、みたいだから」

でも、言葉ははっきりしている。

直子はうなずかない。

「行けない、だと?」

湊は、少し考える。

「……行こうとすると」

言葉を探すように。

「ちゃんとしなきゃ、って思うから」

「ちゃんと?」

「……間違えないとか。忘れないとか」

指が膝の上で組まれる。

「遅れないとか」

真紀の指が、ぎゅっと絡まる。

直子は表情を変えない。

「それは、学校では普通のことです」

「……はい」

湊は、すぐに答える。

「……でも、僕だけ、できない気がして」

その一言で、空気が少し変わる。

直子は視線を外さない。

「できないと、どうなると思いますか」

湊は、少し困ったように眉を寄せる。

「……迷惑、かなって」

真紀が唇を噛む。けれど、声は出さない。

直子はその様子を見ない。

「迷惑をかけたこと、ありますか」

湊は首を振る。

「……ないです」

「先生に、叱られたことは?」

「……ないです」

「友だちに、何か言われたことは?」

「……ないです」

直子は、そこで言葉を止めた。

少し間を置く。

「行けない、というのは」

湊を見る。

「今のままでは、自分を守れない。そういう意味ですね」

湊は、ゆっくりうなずいた。

真紀の目に、涙が浮かぶ。

直子は、それを見ないまま立ち上がる。

「今日は、ここまでにします」

真紀が顔を上げる。

「すぐに、何かを決める必要はありません」

玄関へ向かう。

靴を履きながら、一度だけ振り返る。

「……行けない、という言葉は」

湊が、顔を上げる。

直子は静かに言う。

「理由です。言い訳ではありません」

湊は、その言葉を受け取るように、小さくうなずいた。

直子は、それ以上何も言わず玄関を出た。

夕方の空は、まだ明るかった。


第六章:善意の配慮

放課後の職員室は静かで、机の上に書類が残っていた。

直子は窓際の席に通され、担任の佐藤と向かい合う。

資料はすでに揃えられている。

職員室の奥では、別の教師が電話をしている声が小さく聞こえた。

佐藤が口を開く。

「三浦湊くんの状況です。

四月以降、欠席が続いています」

直子はうなずき、出席簿に目を落とす。

欠席の欄に、丸い印が並んでいる。

「学力面では、今のところ大きな遅れはありません。

授業理解も平均的です」

「授業中の様子は」

「発言は多くありませんが、指名すれば答えます。

提出物も揃っています」

直子はメモを取りながら確認する。

「クラス内のトラブルは」

「ありません。

いじめの事実も把握していません」

佐藤は出席簿の欠席欄を指で押さえる。

「欠席が続いている点だけが問題です」

直子は視線を上げずに続ける。

「学校としての対応案は」

「別室登校を考えています。

保健室か空き教室から始め、時間帯は放課後でも構いません」

「教室復帰を前提に」

「はい。段階的にです」

佐藤は言葉を選ぶ。

「無理に教室に入れたいわけではありません。

来られる形を作りたいと考えています」

直子は遮らない。

「クラスへの説明は」

「必要以上には触れていません。

"しばらく来られない"とだけ伝えています」

直子はその表現をメモに残す。

「本人への説明も同様ですか」

「同じです。

無理はしない、来られるところからと」

職員室の外でチャイムが鳴る。

誰も席を立たない。

直子は資料を閉じる。

「学校側の対応としては、現時点で問題は見当たりません」

佐藤は短くうなずく。

「ただし、本人の"来られない"理由は、まだ特定できていません」

「そこを一緒に探したいと思っています」

直子は席を立つ。

「分かりました。

家庭の状況をこちらで確認します」

佐藤は深く頭を下げた。

廊下に出ると、人影は少ない。

直子は歩きながら、次の手順だけを整理する。

判断は先送りにせず、順に進める。


第七章:伝えられた配慮

夕方の三浦家は静かだった。

真紀はキッチンで手を止め、スマートフォンを置く。

学校からの連絡だった。

リビングの奥に声をかける。

「湊」 少し間があって、足音がする。

湊はドアのところで立ち止まり、部屋には入らない。

「先生から電話があったよ」

真紀は要点だけを伝える。

別室でいいこと。

放課後からでもいいこと。

無理をしなくていいということ。

湊は黙って聞いている。

相づちも打たない。

「来られるところからでいいって」

真紀は言い終えてから、湊の顔を見る。

表情は変わらない。

「……分かった」

短い返事。

真紀は、それ以上言葉を足さない。

足したところで、何かが変わる気がしなかった。

「クラスのことも、先生が対応してくれてるって」

少し間を置いて、そう付け加える。

「"しばらく来られない"って伝えたって」

湊は視線を下げる。

床の一点を見つめたまま動かない。

「だから……今は、気にしなくていいって」

それが安心につながる言葉かどうか、確信はなかった。

ただ、言われた通りに伝えただけだった。

湊は、何も言わない。

しばらくして、うなずく。

「……うん」

声は小さい。

真紀はキッチンに戻る。

背中に視線を感じたまま、振り返らない。

湊はその場に立ち尽くし、やがて自分の部屋へ戻る。

ドアが閉まる音はしない。

ただ、足音が遠ざかる。

真紀は夕飯の支度を再開する。

手は動くが、気持ちは追いつかない。

言葉は、間違っていないはずだった。


第八章:距離

翌日、三浦家は朝から静かだった。

真紀は湊に声をかけるが、返事は短い。

湊は起きている。

顔も洗っている。

朝食も少しだけ口にする。

机の上のノートは開かれない。

前日は置いてあった場所から動いていない。

「出かける?」

真紀が聞く。

「……あとで」

湊はそう答え、部屋に戻る。

しかし、昼になっても外出しない。

テレビもつけない。

スマートフォンは触らない。

真紀はキッチンで用事を続ける。

時計を見る回数が増える。

午後、学校から連絡が入る。

事務的な確認だった。

配慮を始めたこと。

様子を見ていること。

必要があれば連絡すること。

電話は短く終わる。

真紀は通話を切り、部屋の方を見る。

湊は出てこない。

声をかけるか迷い、やめる。

夕方、湊はリビングに顔を出す。

水を飲み、すぐ戻る。

「……ごはんは?」

「後で」

それだけ。

夜になっても、部屋から出る回数は少ない。

返事はあるが、会話は続かない。

真紀は洗い物を終え、椅子に座る。

手は止まっている。

距離は広がっている。

音は減っている。

言葉は、前より短くなっていた。


第九章:戻らなくていい

夕方の公園は、人が少なかった。

遊具の音もなく、ベンチの影が長く伸びている。

夕日が木々の間から差し込み、地面を斜めに照らしていた。

湊は、ベンチに座り、ノートを開いていた。

算数の問題集。

途中まで解いて、手が止まっている。

海斗は自転車を押して公園に入り、その姿に気づく。

少し迷ってから、声をかけた。

「こんにちは」

湊が顔を上げる。

「……こんにちは」 海斗はベンチの端に腰を下ろす。

ノートを覗き込まず、距離だけを合わせる。

しばらく、何も話さない。

湊が、ぽつりと言った。

「……先生が、来なくていいって言いました」

海斗は、すぐに返さない。

「クラスにも、そう言ったって」

湊の手が、ノートの角を押さえる。

海斗が口を開く。

「……戻らなくていいって言われるとさ」

少し間。

「戻れなくなる気がしません?」

湊は、はっと顔を上げる。

初めて、海斗の方を見る。

海斗は続ける。

「今日は、行かない。

それだけっすよ」

湊は何も言わない。

けれど、視線を落とさない。

「……これ」

湊はノートを指で押さえる。

「ここ、分からなくなって」

海斗は、ノートを見る。

「途中までは合ってますね」

「……どこから?」

「この式までは」

海斗は指でなぞらず、言葉だけで示す。

湊は鉛筆を持ち直し、続きを書く。

消さない。

「この考え方、学校でもやりました?」

「……はい」

「じゃあ、合ってます」

それ以上、言わない。

湊は一行書き、少し考えてから、次の問題に移る。

海斗は隣に座ったまま、何もしない。

湊の口元が、わずかに緩む。

その表情は、母にも、先生にも、直子にも見せていないものだった。

その様子を、公園の入口から見ている人がいた。

直子だった。

買い物袋を持ったまま、足を止めている。

声は聞こえない。

けれど、湊の顔だけで分かる。

話している内容ではない。

隣にいる人間のあり方が違う。

直子は、しばらく動かない。

それから、静かにその場を離れた。


第十章:視点を変える

翌日、直子は海斗に連絡を入れた。

用件は短い。

「少し、時間をください」

指定したのは、神保町の喫茶店だった。

海斗は理由を聞かずに来た。

いつもの席に座り、コーヒーを注文する。

直子はメニューを見ない。

「三浦湊くんの件です」

海斗はうなずく。

「昨日、公園にいましたね」

「いました」

「話しましたか」

「少し」

直子はメモを出さない。

「学校の対応は、制度上は妥当です」

「そうですね」

「それでも、届いていません」

海斗は返さない。

「あなたは、何をしましたか」

「隣に座って、話しました」

「助言は?」

「してません」

「判断は?」

「してません」

直子は少し間を置く。

「それでも、状態が変わっていました」

海斗は視線を外さない。

「……戻らなくていいって言われると、戻れなくなる気がする。

そう言いました」

直子の視線が上がる。

「彼がそう言ったのですか?」

「いえ」

「なぜ、そう言いましたか」

「そう聞こえたからです」

直子は、それ以上掘らない。

コーヒーが運ばれてくる。

湯気が立つ。

直子はカップに触れず、続けた。

「私は、事実を整理できます。

手順も、制度も」

海斗は黙って聞く。

「でも、あの状態には辿り着けません」

直子は、そこで言葉を止める。

「だから、この件は、一人では進めません」

海斗を見る。

「協力してください」

海斗はすぐに答えない。

しばらくして、言った。

「何をすればいいですか」

直子は、初めて視線を落とす。

「これから考えます」

それだけだった。

二人の間に、まだ形にならない時間が残る。

だが、もう引き返す話ではなかった。


第十一章:言葉の置き場所

面談室は、いつもより静かだった。

直子は机の中央に資料を置くが、開かない。

三浦真紀と湊が向かいに座る。

湊は椅子の背に寄りかからず、足を床につけている。

海斗は少し離れた位置に座り、手元に何も置かない。

窓の外から、遠くの車の音だけが聞こえる。

直子が口を開く。

「今日は、結論を出す場ではありません」

真紀がうなずく。

湊は何も言わない。

視線は机の木目を追っている。

「学校からの提案は、すでに共有しています」

直子は続ける。

「別室での対応。時間帯の調整。接点の維持」

言葉を区切り、湊を見る。

「それについて、どう思いますか」

湊はすぐに答えない。

視線を落としたまま、指を組み直す。

真紀が口を挟みそうになり、直子の視線に気づいて止める。

海斗は動かない。

ただ、湊の横顔だけを見ている。

沈黙が続く。

空調の音。

誰かの呼吸。

湊の指が、わずかに震える。

「……分からないです」

湊はそう言って、少し間を置く。

「今日どうか、って聞かれると」

声が細くなる。

「……分からない」

直子は書き留めない。

ペンにも触れない。

「分からない、で構いません」

湊は顔を上げる。

初めて、直子の目を見た。

「今、学校に行っていない理由を、言葉にする必要もありません」

真紀の肩が少し下がる。

けれど、目は湊から離れない。

直子は視線を戻し、続ける。

「ただ、今日どうするかは選べます」

湊は考える。

唇を一度結び、ほどく。

「……今日は」

少し間。

「行かないです」

直子はうなずく。

「それは記録します」

少し間があって、海斗が口を開く。

「行かない、でいいと思います」

直子が視線を向ける。

海斗は湊を見たまま、続ける。

「理由が決まってから行く、でもいいですし」

湊は海斗を見る。

初めて、言葉を探さない目になる。

海斗は少しだけ視線を落とす。

「……分からないまま行くとさ」

少し間。

「多分、もっと分からなくなる」

湊が息を呑む。

「だから、今日は待つ」

海斗は顔を上げる。

「それだけでいいと思います」

湊の目に、わずかに涙が浮かぶ。

真紀は唇を噛み、視線を落とす。

直子は何も足さない。

ただ、その空気を壊さないように、静かに資料を閉じた。

「"今日は行かない" そう記録します」

湊は小さくうなずく。

面談はそれ以上進まない。

だが、止まってもいなかった。

扉が開く音。

三人が廊下へ出ていく。

海斗は最後に席を立ち、直子と目が合う。

「……ありがとうございました」

直子は短くうなずいた。

海斗が出ていった後、直子は一人、面談室に残る。

右手が、無意識に左手首をさする。

窓の外を見る。

誰もいない廊下に、足音だけが遠ざかっていく。


第十二章:湊の夜

夜、三浦家。

湊は自分の部屋で、布団の上に座っていた。

机の上には開かれたままのノート。

算数の問題が、途中で止まっている。

窓の外は暗い。

リビングから、母が食器を洗う音が聞こえる。

湊は膝を抱える。

「……今日は行かない」

自分で言った言葉を、もう一度口の中で繰り返す。

今日は。

明日は?

分からない。

ずっと、分からない。

いつになったら、分かるんだろう。

湊は目を閉じる。

教室の景色が浮かぶ。

黒板。

机。

窓際の席。

先生の声。

「はい、次、三浦くん」

名前を呼ばれる。

立ち上がる。

答える。

間違える。

……間違えたら、どうなる?

別に、何も起こらない。

先生は怒らない。

友だちも笑わない。

でも、心臓が早く打つ。

手が震える。

声が出なくなる。

湊は目を開ける。

布団に手をつき、深く息を吸う。

リビングの音が止まる。

母の足音が、廊下を通り過ぎる。

湊の部屋の前で、一度止まる。

ノックはしない。

声もかけない。

ただ、少しだけ間があって、足音が遠ざかる。

湊は、その音を聞きながら、また膝を抱えた。

「……今日は、行かない」

それだけでいい。

海斗が言った。

それだけで、いい。

湊は布団に入り、目を閉じた。

明日のことは、明日考える。

今日は、もう終わる。


第十三章:手続きを変える

直子は職場に戻り、学校への報告書を作成する。

文言を一つずつ選ぶ。

「復学」という言葉は使わない。

「登校指導」も使わない。

代わりに書く。

—— 学校との接点は、当面維持する

—— 学習は在宅を基本とする

—— 状況は定期的に確認する

確定ではない。

期限も書かない。

直子はペンを止め、書いた文章を読み返す。

制度としては、正しい。

けれど、これで湊は動けるのか。

直子は視線を落とす。

右手が、また左手首をさする。

湊の顔が浮かぶ。

「……僕だけ、できない気がして」

あの言葉。

直子は目を開け、報告書に一行だけ付け足す。

—— 本人の意思を最優先とする

上司は書類に目を通し、短く言う。

「慎重ですね」

「はい」

直子はそれ以上説明しない。

書類は提出され、受理される。

制度は崩れていない。

ただ、使われ方が変わった。


第十四章:母の葛藤

朝、三浦家。

湊は自分で起き、顔を洗う。

ランドセルは手に取らない。

机に向かい、ノートを開く。

一問、解く。

次のページはめくらない。

真紀は声をかけない。

時計を見るが、言葉にはしない。

キッチンで朝食の片付けをしながら、真紀は窓の外を見る。

近所の子どもたちが、ランドセルを背負って学校へ向かっている。

笑い声が聞こえる。

真紀は手を止める。

湊も、あの中にいたはずだった。

朝、一緒に「いってきます」を言って、夕方に「ただいま」を言う。

それが、普通だった。

真紀自身も、そうだった。

学校に行くのが当たり前。

行かないなんて、考えたこともなかった。

だから、湊が「行けない」と言った時、最初は信じられなかった。

何か理由があるはずだと思った。

いじめ。

先生とのトラブル。

友だちとの喧嘩。

でも、何もなかった。

ただ、「行けない」。

それだけ。

真紀は、それが理由だと思えなかった。

けれど、昨日の面談で直子が言った。

「行けない、という言葉は、理由です」

真紀は、その言葉を何度も反芻していた。

理由。 理由なんだ。

言い訳じゃない。

甘えでもない。

真紀は、リビングの方を見る。

湊は机に向かっている。

背中が、小さく見える。

真紀は、声をかけようとして、やめた。

昼前、湊は外に出る。

公園へ向かうかどうか、途中で足を止める。

少し考え、引き返す。

玄関のドアが開く音がして、真紀は顔を上げる。

「……おかえり」

「……ただいま」

短いやり取り。

湊は部屋に戻る。

真紀は、それを見送る。

今日は、家にいる。

それだけの選択だった。

真紀は、それでいいと思えるようになっていた。


第十五章:海斗の記憶

配達を終えた海斗は、いつもの喫茶店に入った。

店長がカウンターから手を振る。

「おう、お疲れ」

「お疲れっす」

海斗はいつもの席に座り、アイスコーヒーを注文する。

窓の外を見ながら、ぼんやりと公園での湊との会話を思い出していた。 「……分からないまま行くとさ、

多分、もっと分からなくなる」

自分が言った言葉。

あれは、誰に向けて言ったんだろう。

湊に?

それとも、自分に?

海斗は、姉のことを思い出していた。

小学生の頃。

姉は中学生だった。

いつも家事をしていて、いつも笑っていた。

「お姉ちゃん、大丈夫?」

ある日、海斗は聞いた。

姉の目の下に、薄いクマができていたから。

「大丈夫だよ」

姉は笑った。

あの笑顔は、今思えば、湊と同じだった。

大丈夫じゃなかった。

でも、海斗は気づけなかった。

姉が高校に入ってすぐ、家を出た。

理由は言わなかった。

ただ、「ごめんね」とだけ。

海斗は、その時初めて、姉が苦しんでいたことを知った。

店長がコーヒーを置く。

「なんか、考え事?」

「……ちょっと」

海斗はコーヒーを一口飲む。

「昔のこと、思い出してました」

「珍しいな。

お前、そういうタイプじゃないだろ」

「そうっすね」

海斗は苦笑する。

店長は、少し考えてから言う。

「……まぁ、過去はどうにもならんけどな」

「そうっすね」

海斗は窓の外を見る。

夕日が、街を柔らかく照らしている。

店を出ると、夕暮れの風が頬を撫でる。

海斗は自転車にまたがり、ペダルを踏み出す。

夕日が海斗の影を長く伸ばしていく。


第十六章:それぞれの正義

夜、三浦家のリビング。

真紀は椅子に座り、湊は少し離れたソファに座っている。

テレビはついていない。

「……今日は、家にいたね」

真紀が言う。

「うん」

湊は短く答える。

「明日は?」

「……分からない」

真紀は何も言わない。

ただ、小さくうなずいた。

「分からない、でいいよ」

湊は顔を上げる。

「今日は今日だから」

その言葉は、直子から聞いた言葉だった。

真紀なりに、噛み砕いた形で。

湊は、少しだけ肩の力を抜く。

「……うん」

二人の間に、長い沈黙が落ちる。

けれど、その沈黙は、前より軽かった。

真紀は立ち上がり、キッチンへ向かう。

「お茶、入れるね」

「……ありがとう」

湊の声は小さかったが、確かに聞こえた。

真紀は、その声を聞いて、少しだけ笑った。

調査官室。

直子は机の上のファイルを閉じる。

少しだけ、視線を窓の外へ向ける。

行かない理由。

行けない理由。

どちらも、間違いではない。

ただ、どちらかに決める必要もない。

直子は、ペンを置き、次の案件ファイルを開いた。

けれど、開く前に、一度だけ手を止める。

海斗の顔が浮かぶ。

「分からないまま行くとさ、

多分、もっと分からなくなる」

あの言葉。

自分には、言えなかった。

制度を守ること。

手順を踏むこと。

それが、自分の正義だった。

けれど、それだけでは足りない時がある。

直子は、ファイルを開く。

次の案件も、きっと同じだ。

正しい手順だけでは、救えないものがある。

だから、また海斗に連絡するだろう。

直子は、そう思いながら、資料に目を落とした。

喫茶店。

翌日の昼、海斗は店長にコーヒーを出してもらいながら、

窓の外を見ていた。

「今日も、あの子のとこ行った?」

店長が聞く。

「行ってないです。今日は配達だけ」

「そっか」

店長はカウンターで布巾を絞る。

「学校、行けそう?」

「……分かんないです」

海斗はコーヒーを一口飲む。

「でも、行かなくてもいい日があるってことは、

分かったみたいです」

店長は小さく笑った。

「それって、進んでんの?」

「……さぁ」

海斗は肩をすくめる。

「でも、止まってないと思います」

その言葉に、店長はうなずいた。

「そういうもんだよな、人生って」

「そうっすかね」

「そうだよ。一歩ずつでいいんだよ」

海斗は窓の外を見る。

公園の方向。

あそこに、また湊がいるかもしれない。

でも、今日は会わない。

会わなくてもいい。

必要な時に、必要な分だけ。

それが、海斗のやり方だった。

夕方、三浦家。

湊は机に向かい、ノートを開いている。

一問、解く。

次のページをめくる。

また一問、解く。

ゆっくりだが、進んでいる。 真

紀はリビングで洗濯物を畳みながら、その様子を見ている。

声はかけない。

ただ、見守る。

それだけでいい。

窓の外から、夕日が差し込む。

部屋が、オレンジ色に染まる。

湊の影が、壁に映る。

その影は、前より少しだけ大きく見えた。

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