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第三話:隣人の気配

第一章:路地裏のアパート

夜、神保町の路地裏。

海斗はアパートの階段を降りながら、スマホで配達完了をタップした。いつもの動作。何も考えず、何も残さない。

自転車を停めてある場所へ向かう。

その途中——

……トン。

ドアの向こうから、かすかな衝撃音。

海斗の足が、わずかに緩む。

耳を澄ます。けれど、すぐに静かになる。

「……気のせいか」

古い建物だ。音なんて珍しくない。

そう自分に言い聞かせ、出口へ向かう。

けれど、歩きながら——背中に、何かが張りつくような感覚だけが残った。

海斗は小さく首を振り、自転車にまたがる。

ペダルを踏み出した瞬間、無意識にアパートを振り返る。

窓には明かりが灯っている。いつもと変わらない夜。

海斗は視線を戻し、夜の道へ消えていった。


第二章:隣人トラブルの受理

家庭裁判所・調査官室。

直子は机に置かれた新規案件ファイルを開く。表紙には「隣室騒音・申立人 吉岡美優」の文字。

ページをめくる。

—— 夜間に隣室から衝撃音が続き、眠れない。

—— 管理会社へ相談したが改善されず。

—— 生活に支障が出ており、仕事にも影響が出始めている。

—— 原因は隣だと思うが、確信が持てず不安。

文章は丁寧だが、ところどころ線が震えている。

直子の指が、一枚の紙の上でわずかに止まる。

それだけ。

表情は変わらない。淡々とページをめくり、必要書類を整える。

ファイルを閉じる音が、静かに響く。

直子は席を立ち、申立人への聞き取りへ向かった。


第三章:二つの証言

■美優の聞き取り

家庭裁判所・面談室。

美優は椅子の端に腰を下ろし、膝の上で両手を軽く握りしめている。肩が少し内側に入り、視線は机の木目を追っていた。

「夜、気になる音がするとのことですが……どのような音でしたか」

直子の声は淡々としている。

「……あの、たぶん……"ドン"って……。壁に何か……当たってるのかな、って……」

「たぶん、というのは?」

「……すみません。はっきり言えなくて……。音がしても……すぐ終わるので……。私が……神経質なのかも……」

直子はペンを走らせる。

「聞こえた時、隣で何か作業しているような気配は?」

「……作業? いえ……。……たぶん、隣……だと思います。でも……自信はなくて……」

「自信がない?」

美優の指が、わずかに絡まる。

「……原因が……よく、わからないんです。でも、音がすると……その……気持ちがざわついて……」

直子は表情を変えない。淡々とメモを取り続ける。

美優は、それ以上言葉を続けられなかった。


■隣人・高城の聞き取り

古本屋の店内。

高城はカウンターの奥で本を揃えていたが、直子の質問で手を止めた。

「夜に衝撃音がするという話を聞いています。あなたの方でも何か気づいた点は?」

「……音は、たまに聞こえます」

「どのような音でしょう」

高城は一度目を閉じ、言葉を探す。

「……強い音じゃないんです。何か……抑えてる時のような……"揺れ"っていうか……」

「揺れ?」

「言い方が難しいんですが……。普通の生活音とは違う気がする。でも、何の音かは……分かりません」

直子はペンを止めない。

「あなたの部屋で何か原因になる行為は?」

「ないです。俺の部屋じゃありません」

「隣の部屋から、という認識ですね」

高城は少し黙り、視線を落とす。

「……隣の部屋がどう、というより……夜中、急に……空気が落ちる日があるんです」

「空気が落ちる?」

「すみません。……音じゃ説明つかない感じ、ってだけです」

直子は一度だけノートを見るが、表情は変えない。

「わかりました。ご協力ありがとうございました」

高城は短くうなずく。

扉が閉まると、店内には紙の匂いだけが残った。


第四章:整合しない音

調査官室。

直子は机に広げたメモと申立書を順番に並べ直す。几帳面な動作。一つ一つ、丁寧に。

美優の証言——

"たまに聞こえる""隣だと思う""自信がない"。

高城の証言——

"説明できない揺れ""生活音とは違う""夜だけ空気が落ちる"。

直子は記録を照らし合わせる。

しかし、

・音の種類は一致しない。

・聞こえる時間帯も一定しない。

・どちらも"はっきりしない"。

・原因は特定できない。

メモをまとめようとするたびに、数字や言葉が小さく噛み合わなくなる。

書き込んでいたペンが止まる。

静かな部屋に、空調の音だけが流れる。

直子は資料を一度閉じ、数秒だけ視線を落とした。

右手が、無意識に左手首をさする。

本人は気づかない。

やがて直子は、整然とした手つきでファイルを揃え、次の行動——証言の再確認——へ向けて席を立った。


第五章:古本屋の沈黙

神保町の古本屋。

狭い店内に紙の匂いが満ちている。文庫本が天井近くまで積まれ、窓から差し込む光が埃を照らしていた。

高城はカウンターで文庫本の背を揃えていたが、直子が現れると、手の動きだけが止まった。

「先日はお時間をいただきました。いくつか追加で確認したいことがあります」

「……どうぞ」

声は穏やかだが、距離感が固い。

直子は資料を開かず、まっすぐ高城を見た。

「夜間に音がする、とおっしゃいましたね。それは最近も続いていますか」

「……日によります。何もない日もあれば……急に、ある日も」

「音の特徴に変化は?」

「変化……というより……"普通の音じゃない"感じは、同じです」

「普通ではない、というのは?」

高城は口を開きかけ、少しだけ言葉を飲み込む。

「……すみません。言葉にできません。ただ……"ああ、またか"って……そんな気配だけは分かるんです」

直子は反応を見せず、メモを取る。

「あなたの生活音が原因になっている可能性は?」

「……俺の部屋は静かなもんです。少なくとも、あの音の出どころじゃない」

「周囲の部屋の住人から、同じ訴えはありますか」

「聞かないですね。……でも、みんな気にしてないだけかも」

「なぜそう思うのですか」

高城は一度本を置き、視線を落とした。

「……音って、慣れると"違い"が分かるんですよ。俺は……気になってしまうだけで」

そこで言葉を切る。

続きがあるような沈黙だったが、彼はもう口を開かない。

直子は、その"言わなかった部分"にわずかに視線を落とす。

「……わかりました。ご協力ありがとうございました」

高城は小さくうなずき、本を揃える手だけが静かに動き始めた。

直子は店を出る。

扉の鈴が、小さく鳴った。


第六章:路地裏の気配

夜、神保町。

海斗は配達の帰り、自転車を押して路地裏を抜けていく。街灯の光が途切れる場所。影が長く伸びる。

角を曲がった先に、見覚えのあるアパートの影が立っていた。

海斗は一瞬だけ足を止めるが、そのまま歩き出す。

建物の前を通り過ぎようとした、その時——

……カタン。

ドアの向こうで、何かが触れたような、軽い音。

海斗は歩く足を止めない。

ただ、押す力を少し弱めた自転車が、静かに音を立てる。

何も続かない。

海斗はそのまま通り過ぎ、少し行ったところで自転車にまたがる。

ペダルを踏み出してから、一度だけ、無意識にアパートの方へ視線が戻る。

窓には明かりが灯っている。何も変わらない夜。

海斗は視線を戻し、夜の道へ溶けていった。

けれど胸の奥に、小さな違和感だけが残っていた。


第七章:事実の壁

調査官室。

直子は机の上に書類を並べ替え、順番を変えながら目を通している。

美優の申立書。

面談の記録。

高城の聞き取りメモ。

一枚、めくる。

また一枚、戻す。

直子はペンを取り、余白に短い記号を書き込む。

しかし、すぐに線を引いて消した。

書き足そうとして、やめる。

ページを閉じ、別の資料を開く。

音の種類。

時間帯。

場所。

どれも揃っていない。

直子は視線を落としたまま、書類の端を揃える。

几帳面な動きだが、いつもより少し遅い。

ペン先が止まる。

空調の低い音だけが室内に残る。

直子は資料を一度すべて閉じ、無言で重ね直した。

そして、ファイルの背に指を添えたまま、しばらく動かなかった。


第八章:別の視点

調査官室。

直子はファイルを開き、二枚の記録を机の上に並べる。

美優の聞き取り記録。

高城の聞き取り記録。

二つを少し距離をあけて置き、その間に残った空白に、直子の視線が止まる。

ペンを取るが、何も書かない。

代わりに、机の端へそっと置いた。

直子はスマートフォンを手に取り、登録済みの連絡先を一つ選ぶ。

呼び出し音。

「柊木です。今、少し時間はありますか」

短い間。

「確認したいことがあります。……ええ。いつもの喫茶店で」

通話を終えると、直子は二枚の記録を重ね、静かにファイルへ戻した。

空白は、まだ埋まっていない。


第九章:招集

いつもの喫茶店。

昼下がりの静かな時間帯。店内にはジャズが流れ、コーヒー豆を挽く音が心地よく響いていた。

海斗はカウンター席に腰を下ろし、コーヒーを一口飲んだところで、直子に気づく。

「あ……どうも」

「どうも」

短い沈黙。

直子は席に着き、メニューも見ずに店員に目配せする。

海斗は少し身構えた。

「……えっと。今日は、どういう用件で?」

「確認です」

「確認?」

「いま扱っている案件について」

「……俺、関係あります?」

直子は答えず、テーブルの上に二枚の紙を並べる。

海斗はそれを見るが、内容までは読み取れない。

「……なんで俺なんですか」

「二つの証言があります」

「はぁ」

「どちらも、音について話しています。ですが、内容が一致しません」

「まぁ……そういうこと、ありますよね」

「あります。ただし、整理できないまま残ることは少ない」

海斗は少しだけ姿勢を正す。

「……それで?」

「あなたは、音そのものではなく、"起きた前後"を見ています」

「……それ、褒めてます?」

「評価ではありません。事実です」

海斗は小さく息を吐く。

「……つまり、"聞こえたかどうか"じゃなくて、"その場がどうなってたか"を見ろ、と」

「そうです」

「……面倒そうなやつですね」

「はい」

即答。

海斗は苦笑した。

「……それ、俺が断ったら?」

「別の方法を考えます」

「考えるんだ」

「はい」

「……ちなみに、その"別の方法"って、俺より楽そうです?」

「いいえ」

海斗はコーヒーを一口飲み、少し間を置く。

「……いつですか」

「今夜です」

「今夜!? あー……じゃあ、心の準備だけさせてください」

「不要です」

「そこは"お願いします"って言うとこじゃないですか?」

「不要です」

「……はいはい。じゃあ"自分から首突っ込んだ"ってことで行きます」

「助かります」

二人の間に、短い沈黙。

海斗はカップを持ち上げながら、小さく笑った。

直子は表情を変えない。

けれど、その静けさには——拒絶ではない何かがあった。


第十章:同行調査開始

夜の神保町。

直子と海斗は並んで路地裏のアパートに入る。外廊下に足音が響く。

「……ここっすか。配達で何度か来たことあります」

「何か覚えていますか」

「……いや。はっきりとは」

二人は外廊下を進む。

「騒音トラブルなら、もうちょい分かりやすく音してそうですけど」

「"分かりやすい"とは限りません」

「……まぁ、そうっすよね」

数歩進む。

途中、海斗の足取りが自然にゆっくりになる。

直子は何も言わず、その変化だけを見る。

廊下の奥は静かだ。

遠くの車の音だけが、かすかに聞こえる。

「……」

海斗は言いかけて、口を閉じる。

「何かありますか」

「……いや。なんでもないです」

二人はそのまま歩く。

アパートの出口が見える。

「……音、しないですね」

「今は、ですね」

海斗はそれ以上言わず、無意識に肩の力を抜く。

直子は立ち止まり、廊下を一度だけ見渡す。

「……今日は、ここまでです」

「……了解です」

短いやり取りだけを残し、二人はアパートを出た。


第十一章:高城の告白

夜の古本屋。

シャッターは半分ほど下ろされ、店内は静まり返っている。本の匂いと、わずかな明かりだけ。

高城はカウンターの奥で、本の背を揃えていた。

直子は入口付近で黙って待ち、海斗だけが一歩、中へ入る。

「……さっき言った"音"なんですけど」

「はい」

「ドン、とかガタン、とか……そういうはっきりした音じゃないんです」

海斗はうなずくだけで、先を促さない。

「なんていうか……部屋が揺れるほどでもないのに……"揺れた"って分かる感じで」

「……分かります」

高城が少し顔を上げる。

「……え?」

「音じゃなくて、空気が一瞬、落ちる感じですよね」

高城の指が止まる。

「……そう。それです」

しばらく、二人とも何も言わない。

「説明しようとすると……大したことないみたいに聞こえるから」

「はい」

「でも……"何もなかった"とは、どうしても思えなくて」

海斗は少しだけ視線を落とし、静かに言う。

「……俺も、前に……同じ感じ、聞いたことあって」

「……」

「その時は、何の音か分からなかったですけど」

言葉を切る。

「だから……"気のせい"って言われる感じも、分かります」

高城は、ふっと息を吐いた。

「……そういう人、初めてです」

「え?」

「"分かる"って言われたの」

高城は視線を落としたまま、続ける。

「だから……何も聞こえなかったふりは、できなかった」

「……」

「……ありがとう」

高城のその言葉は小さく、けれど確かだった。

海斗は何も言わず、ただ小さくうなずいた。


第十二章:壁の揺れ

夜。

神保町の路地裏。

直子、海斗、高城は、アパートの外廊下に並んで立っている。

三人とも、言葉を出さない。

遠くの車の音。

どこかの部屋のテレビ。

この建物にとっては、いつもと変わらない夜。

その中で——

……トン。

壁の奥から、軽い音が一つだけ伝わる。

高城の肩が、わずかに強張った。

海斗は視線を動かさず、耳だけでその方向を追う。

直子は反応を変えず、時間を測るように黙っている。

数秒。

何も続かない。

外廊下を風が抜け、手すりが小さく鳴る。

高城が喉を鳴らし、押し殺すように口を開いた。

「……今の」

返事はない。

海斗は音のあった方を見たまま、呼吸だけを落としている。

少し間を置いて、直子が淡々と告げた。

「……今の程度では、騒音として扱えません」

高城は何か言いかけ、口を閉じる。

「……そうですね」

短く同意したのは海斗だった。

一拍。

「……でも」

続きが出てこない。

海斗は唇を引き結び、もう一度だけ耳を澄ます。

何も聞こえない。

直子が視線を向け、先を促す。

「……さっきまで"あった"ものが、急に……止まった感じです」

海斗の言葉に、高城がゆっくりとうなずいた。

「……それ。俺が言いたかったの、それです」

直子は二人を見比べることなく、メモに一行だけ書き足す。

時刻。場所。音の種類——小。

「記録します。ただ、現時点では"隣人騒音"の枠では動けません」

高城の視線が壁に戻る。

言葉は、そこで止まった。

海斗だけが、まだ壁を見ている。

「……何もなかった音じゃないです」

直子はペンを止めない。

「今夜は、ここまで。続きは、別の形で確認します」

高城が短く息を吐き、うなずく。

海斗も、それに合わせるように小さくうなずいた。

三人は外廊下を引き返し、音のない夜の路地裏へ降りていった。


第十三章:直子の認定

調査官室。

直子は机に並べた記録を、改めて順に読み返している。

申立書。

二度の聞き取り。

夜の現場での時刻記録。

一つずつ確認し、最後に、ペンを置いた。

しばらく、何も書き足さない。

直子はファイルを閉じ、隣の棚から別の書式を取り出す。

紙の質が、先ほどまでのものと違う。

項目を確認し、必要な欄にだけチェックを入れていく。

外廊下での音。

単発。

音量は小。

継続性なし。

指が、次の行で止まる。

——当事者の心理的負荷。

——生活への影響。

——原因の所在が外部に特定できない。

ペンが再び動く。

直子は視線を落としたまま、淡々と声に出す。

「……これは、隣人騒音の枠では扱えません」

向かいに座る海斗は、口を挟まずに聞いている。

「外部に原因が見当たらない以上、生活圏の内側を検討する必要があります」

海斗が、小さく息を吐く。

直子は書式の下段に、短く追記する。

——保護案件の可能性あり。

——関係機関との連携を検討。

ペンを置く。

「……次は、当事者を含めて確認します」

海斗はうなずき、それ以上の質問はしない。

直子はファイルを閉じ、次の予定を淡々と確認し始めた。


第十四章:四者の面談準備

家庭裁判所の面談室。

机と椅子が四脚、一定の距離を保って並んでいる。

直子は部屋の中央に立ち、資料を机の上に配置していく。

申立人の席。

隣人の席。

同居人の席。

最後に、入口に近い位置に、もう一脚の椅子を引いた。

直子はその椅子を一度見てから、軽く位置を調整する。

やがて、扉がノックされる。

最初に入ってきたのは美優だった。

足取りは静かで、視線は落ち着かない。肩が少し内側に入り、両手はバッグを強く握りしめている。

直子は何も言わず、空いている席を目で示す。

次に高城が入室する。

店にいる時よりも、背中が丸い。視線は床に落ちたまま、短く会釈をして席に着く。

二人の間に、会話はない。

少し遅れて、美優の同居人、岸田が姿を見せる。

ドアを閉める動作が丁寧で、軽く頭を下げてから室内に入ってくる。スーツは整い、表情は穏やかだ。

空気が、わずかに張る。

岸田は美優の隣に立ちかけ、一瞬迷ってから、正面の席に座った。

直子はその様子を、何の反応も見せずに見ている。

最後に海斗が入ってくる。

一歩踏み出してから、この場の静けさに気づき、歩幅を小さくした。

直子が入口側の椅子に視線を向ける。

海斗は一度うなずき、言葉を発さずに腰を下ろす。

全員が揃う。

直子は資料を閉じ、机の中央に手を置いた。

これから話されることを、まだ誰も知らない。


第十五章:礼儀正しい同居人

面談室の空気は、張りつめたまま静かだった。

直子が机の中央に資料を置き、視線を上げる。

岸田が、先に口を開いた。

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

声は落ち着いていて、語尾まで丁寧に整っている。礼儀正しく、柔らかく、誰に対しても好印象を与える話し方。

「こちらからお願いする立場なのに、きちんと対応していただいて……助かります」

直子はうなずき、資料に目を落としたまま応じる。

「事実確認です。順に伺います」

岸田は姿勢を正し、両手を膝の上に置いた。

「はい。何でもお答えします」

その様子を、高城は黙って見ている。

直子が美優に視線を向ける。

「夜間の音について、ご本人の認識を改めて確認します」

美優が小さく息を吸う。

「……はい」

その直後、岸田が美優の方へ顔を向けた。

「大丈夫だよ。落ち着いて話せばいい」

声は低く、しかし強くはない。

優しさを装った声。けれど、その奥に何かが隠れている。

部屋の誰も反応しない。

美優の肩が、わずかに下がる。

直子は岸田の方へ視線を移す。

「同居人として、何か心当たりはありますか」

岸田はすぐに答えた。

「特にありません。夜は静かに過ごしていますし、大きな音を立てるようなこともしていません」

「生活音について、指摘を受けたことは?」

「いいえ。管理会社からも、特に注意は受けていません」

受け答えに、迷いはない。流暢で、完璧すぎる。

直子は次の質問に移る。

「音がしたとされる時間帯、ご在宅でしたか」

「在宅していました。ただ、音がしたという認識はありません」

その言葉に、高城が一瞬だけ視線を動かす。

岸田は気づかない。

直子が美優を見る。

「その時間帯、何をしていましたか」

美優が何か言いかける。

その前に、岸田の指が、机の端を軽く叩いた。

音は小さい。

けれど、美優は、その音で口を閉じた。

「美優、無理に思い出さなくていい」

声の高さが、さきほどより一段低い。

海斗の視線が、岸田の口元に止まる。

美優は小さくうなずき、言葉を選ぶ。

「……部屋に、いました」

岸田はすぐに視線を戻し、直子に向き直る。

「彼女、少し音に敏感なところがあって。疲れていると、気になることも増えるみたいです」

直子は反応を変えない。

「それは、以前からですか」

「ええ。一緒に住む前から、そういうところはありました」

穏やかな説明。

責める調子はない。

直子はメモを取る。

その間、海斗は何も言わず、ただ岸田の声を追っていた。

同じ言葉でも、向けられる相手で、音が違う。

それだけが、確かだった。


第十六章:矛盾の崩落

面談室。

机の上に置かれた資料を、直子は一枚ずつ順に並べ替えている。

美優は視線を落としたまま、両手を膝の上で重ねている。指先が、わずかに震えていた。

岸田は背筋を伸ばし、静かに成り行きを見ている。表情は穏やかで、変わらない。

直子は、記録の一行を指でなぞり、顔を上げた。

「音がしたとされる時間帯は、夜間です」

反論は出ない。

「隣室から聞こえたと考えている」

美優が、小さくうなずく。

「ただし、音の種類は一定していません」

沈黙。

「発生の頻度も、不定期です」

美優の指が、わずかに絡まる。

「管理会社による確認では、隣室からの継続的な騒音は確認されていません」

一つずつ、淡々と事実だけが積み重ねられる。

美優の呼吸が、少しだけ浅くなる。

「それでも、生活への影響は出ている」

直子は視線を外さない。

「原因が外部に特定できない以上、別の可能性も考える必要があります」

美優の唇が動く。

「……でも」

小さな声。

「……隣の音、なんです」

直子は遮らない。

「……あの音があるから……」

言葉が続かない。

「……あの音のせいで……」

同じ言葉が、形を変えずに繰り返される。

岸田が、静かに口を開く。

「彼女、音に過敏なところがありまして」

美優の肩が、わずかにすくむ。

直子はその言葉を拾わない。

「音があった、という点については、現場での確認も行いました」

美優の視線が、わずかに揺れる。

「その音は、大きなものではありませんでした」

沈黙。

「隣人騒音として扱う基準には、達していません」

美優の声が、少し強くなる。

「……でも、聞こえたんです」

直子は首を傾けない。

「……隣の音、だったんです」

言い切るように。

その時まで、黙って座っていた海斗が、初めて顔を上げた。

壁の方を見たまま、言葉を落とす。

「……あの音」

一拍。

「……助けてって、言おうとしてた音だと思います」

空気が、止まる。

美優の顔から、色が抜ける。

岸田が、ゆっくり海斗を見る。

直子は何も言わない。

海斗は、それ以上続けない。

ただ、壁から目を離さずにいる。

美優の指が、強く絡まり、ほどける。

「……」

言葉にならない音が、喉の奥で詰まる。

直子は、その沈黙を遮らなかった。


第十七章:置き換えられた理由

面談室の空気は、張りつめたまま動かない。

美優は俯いたまま、両手を強く組み、指先に力を込めている。爪が食い込むほど強く。

直子は机の上の資料を一枚、ゆっくりとずらした。

そこに書かれているのは、夜の時刻と、繰り返し記された短い言葉だけだ。

「……先ほどの話に戻ります」

淡々とした声。

「音がした、という点について。それ自体は、否定していません」

美優の肩が、わずかに揺れる。

「ただ、その音が"原因"である、という説明は、ここまでの記録とは一致しません」

静かな間。

「……隣の音、なんです」

美優の声は小さい。

けれど、逃げ場を探すように、同じ言葉をなぞる。

「……あの音があるから……私が……落ち着かなくて……」

言葉の端が、震える。

「……あの音のせいで……」

直子は、言葉を遮らない。

「音がした時間帯と、あなたが不安を強く感じた時間帯には、ずれがあります」

美優の指が、ぎゅっと絡まる。

「……でも……」

「確認させてください」

直子の視線は、机の上から外れない。

「音がなかった日にも、同じような不安はありましたか」

美優の呼吸が、詰まる。

沈黙。

その沈黙に、岸田が口を挟む。

「少し大げさなんです。彼女、疲れていると、気にしすぎるところがあって」

声は穏やかで、場を丸く収めるような調子だった。

「音がした、というのも……感じ方の問題だと思います」

美優は、何も言わない。

直子は岸田を見ない。

「"誇張"という説明であれば、条件があります」

岸田の言葉が止まる。

「誇張であれば、状況は一貫しているはずです」

一枚、資料が動く。

「しかし、あなたの説明は、不安の理由を外に置いたり、内に戻したりしている」

美優の唇が、かすかに開く。

「……私……」

声が、途中で折れる。

直子は、そこで初めて視線を上げた。

「原因が置き換えられている可能性があります」

美優の目が、揺れる。

「……置き換え……?」

直子は、言い直さない。

「音があったから不安になった、のではなく、不安になった理由を、"音"に置き換えて説明している」

言葉は静かだ。

責める調子はない。

美優の肩が、すとんと落ちる。

「……私が……悪いんじゃなくて……」

かすれた声。

「……私……私のせいだって……思ってなきゃ、いけない気がして……」

言葉が、途中で止まる。

「……だから……"音"のせいに……」

そこまで言って、美優は言葉を失った。

涙は落ちない。

ただ、視線が定まらなくなる。

岸田が、表情を変えないまま口を開く。

「それは……解釈の問題です。彼女が、そう感じているだけで」

直子は、即座に返さない。

一拍。

「解釈であれば、検証できます」

岸田の眉が、ほんのわずかに動く。

「ここまでの記録では、"音"が原因であるという説明より、不安そのものが先に存在していると考える方が、整合性が取れます」

美優の視線が、初めて直子に向いた。

「……私……ずっと……理由を……間違えてた……?」

直子は、うなずきも、否定もしない。

「理由が、置き換えられていた。それだけです」

その言葉は、刃ではなく、重りのように落ちた。

美優は、両手をほどく。

指先の力が、抜けていく。

面談室には、誰も否定しない沈黙だけが残った。


第十八章:境界線の回復

面談室の空気が、少しだけ緩む。

直子は資料を閉じ、新しい紙を一枚、机の中央に置いた。

「……いまの話は、記録として扱います」

声は変わらない。

「ただし、結論は出しません」

美優が顔を上げる。

不安と戸惑いが混じった視線。

「いま必要なのは、"原因を決めること"ではありません」

直子は続ける。

「生活への影響が出ている。それだけで、検討すべきことはあります」

机の上に、別の書類が並べられる。

項目は少なく、簡潔だ。

——当事者の安全確認。

——生活環境の調整。

——外部支援の導入。

「ここから先は、選択肢を並べます」

視線は、美優に向く。

「選ぶのは、あなたです」

美優は、すぐに答えない。

だが、さきほどまでの硬さはない。

高城が、ゆっくりと息を吐く。

「……それで、いいと思います」

誰に向けた言葉でもない。

直子はうなずかない。

ただ、書類の端を揃える。

海斗は、椅子に深く腰をかけ直した。

肩の力が、少し抜けている。

「……今夜は、ここまでにしましょう」

直子が立ち上がる。

「必要な連絡は、こちらで行います」

美優の前に、一枚のメモが置かれる。

番号と、時間帯。

短い説明。

「困った時の窓口です。今すぐでなくて構いません」

美優はメモを見つめ、小さくうなずいた。

岸田は何も言わない。

ただ、背筋を伸ばしたまま、席を立つ。

直子は、その動きを止めない。

面談室の扉が開き、順に外へ出ていく。

最後に残ったのは、直子と海斗だけだった。

直子は、机を一度見渡し、資料をまとめる。

「……今日は、十分です」

海斗は短く息を吐き、うなずいた。

「……はい」

二人は廊下に出る。

夜の音が、少し遠くに感じられた。


第十九章:壁の外と内

面談を終えた二人は、路地裏のアパートの前に立っていた。

昼間とは違い、建物はただの影としてそこにある。窓からは明かりが漏れ、人が暮らす気配だけが残っていた。

直子は壁を見上げ、しばらく何も言わない。

街の音が遠く、人の気配だけが薄く残っている。

「……外からは、壁ですね」

言葉は低く、確認するようだった。

「でも、中では……世界が違う」

海斗は、壁に視線を向けたまま、少し考えてから肩をすくめる。

「ま、壁って……大体そうっすね」

直子は答えない。

ただ、その言葉を否定もしなかった。

右手が、無意識に左手首をさする。

海斗は、その仕草に気づく。けれど、何も言わない。

二人は並んで歩き出す。

壁は、何も語らないまま、夜の中に残された。


第二十章:バディの影

路地裏の夜は、静かだった。

アパートを背に、直子と海斗は並んで歩き出す。

少し先の通りに出れば、人の気配が戻る。けれど、今はまだ影の中。

「……今日の件ですが」

歩きながら、直子が言う。

「今後も、経過を確認します」

海斗は一拍置いてから返す。

「……あれ。今日で終わり、じゃない感じです?」

「終わりません」

即答。

海斗は小さく息を吐く。

「ですよね。そんな気はしてました」

二人の歩幅は、まだ揃っていない。

「あなたが見たこと、聞いたことは、記録には残りません」

海斗は少し考えてから言う。

「じゃあ……俺、何者でもないままっすね」

「必要な時に、必要な分だけです」

「都合いいなぁ」

「事実です」

「そこ、否定してほしかった」

路地を抜け、街灯の下に出る。

直子は足を止め、初めて海斗を見る。

「……次も、声をかけるかもしれません」

海斗は肩をすくめる。

「でしょうね。なんとなく、そんな気はしてます」

直子は短くうなずく。

「その時は、今日と同じで構いません」

「はいはい」

海斗は一歩前に出て、夜道を指差す。

「じゃあ、また"必要な時"に」

直子は一瞬だけ立ち止まり、その背中を見る。

「……ありがとうございます」

海斗は振り返らず、片手を軽く上げた。

「どういたしまして」

二人は別々の方向へ歩き出す。

影はまだ重ならない。

けれど、同じ夜の中にあった。

そして——気づかぬうちに、二人の距離は少しだけ近くなっていた。

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