第二話:きょうだいの重さ
プロローグ:夜の配達
夜22時。
住宅街は家々が息を潜めているように静かだった。
海斗は自転車を止め、インターホンを押す。
ピンポーン。
幼い声が返った。
「はーい!置いといて!」
置き配指定。
海斗は袋をそっと置く。
扉がわずかに開き、小さな男の子が顔を出した。
パジャマ姿の陸。髪がはねている。
「ありがとー!」
「……うん。気をつけて運んでね」
陸は扉を閉める。
海斗は自転車にまたがりかけ、ふと視線を向ける。
二階の窓。
カーテンの奥で、誰かがわずかに動く影。
表情は変えず、ペダルを踏む。
風が背後へ抜けていった。
■ 第一章:玄関の子ども
数日後の夜。
また同じ住所がスマホに表示されていた。
海斗はため息をひとつ落とし、玄関前に立つ。
ピンポーン。
ほどなく扉が少し開いた。
中学生の少女──咲希。
笑顔は丁寧だが、目の下に薄い影。
「ありがとうございます!」
海斗は軽く会釈する。
奥から明るい声。
「お姉ちゃん!ごはん!」
咲希は振り返らず、小さく返した。
「はいはい、今やるからね!」
扉が閉まる。
海斗はしばらく玄関を見つめたまま動かない。
スマホを手にし、記録を確認する。
(……毎日。この家……)
言葉にはしない。
けれど肩がわずかに沈んだ。
第二章:拭えない違和感
昼下がりの喫茶店。
ジャズが静かに流れ、アイスコーヒーの氷が音を立てる。
海斗はスマホの画面をじっと見ていた。
「なに見てんの?」
店長がコーヒーを置きながら覗き込む。
「……毎日配達してる家があって。
全部、子どもが受け取るんですよね」
「親は?」
海斗は少しだけ首を振る。
「見たことないです。
夜遅い時間に注文が来ることもあって……」
店長は眉を寄せる。
「それ、ほっといていいのか?」
海斗は曖昧に笑おうとして、うまく笑えなかった。
「……でも俺、ただの配達員ですから。
関係ないっすよね」
言いながら、目がテーブルの一点で止まっている。
店長はその様子に気づき、ほんの少しだけ視線を海斗の方へ向けた。
「誰かに相談したら?」
「……誰に」
海斗の指がコップの縁で止まる。
ふと、直子の顔が浮かんだ。
「……一応、聞いてみる価値はあるかも」
自分に言い聞かせるような声だった。
第三章:沈黙の一日
朝5時。
目覚ましが鳴ると同時に咲希が体を起こす。
眠そうに目をこすりながら台所へ向かい、
卵を割り、味噌汁を温め、
テキパキと二人分の朝食を並べる。
保育園へ弟を送り出し、学校へ。
授業中、ペンが手から落ち、
咲希の肩が小さく揺れた。
誰も気づかない。
放課後。
保育園に迎えに行くと、陸が笑顔で抱きつく。
咲希の眉がわずかに緩み、すぐ“しっかり者”の顔に戻る。
夕方。
母の薬を並べ、洗濯物を畳み、
陸の食事、母の食事。
夜11時。
机に向かい、宿題を広げる。
文字が揺れて見える。
ノートに落ちた涙に気づき、
慌てて指で拭った。
誰も見ていない。
咲希の声もしない。
第四章:遅れた夕方
夕方18時。
別の配達が詰まり、海斗は予定より大幅に遅れていた。
「……やべ」
自転車を走らせ、高橋家に到着。
インターホンを押すと、しばらくして扉が開いた。
咲希が立っていた。
目が赤く、いつもの笑顔がない。
「遅れてすみません!」
「……大丈夫です」
声が弱い。
奥から陸が呼ぶ。
「お姉ちゃん、お腹すいたー!」
咲希は小さく頷くだけだった。
「……あの、大丈夫ですか?」
「……はい。大丈夫です」
笑みを作ろうとしたが、頬が震えている。
袋を受け取ると、急ぐように扉を閉めた。
海斗はしばらく玄関を見つめていた。
手がポケットの中で握られている。
言葉は出なかった。
第五章:相談の席
夕方の喫茶店。
入口のベルが鳴き、直子が入ってくる。
海斗は立ち上がりかけ、軽く会釈した。
「すみません。忙しいのに…..」
直子は頷き、座る。
「いえ。どうしましたか」
海斗は少し迷いながらスマホを差し出す。
注文履歴が並んでいる。
「……この家なんですけど、
毎日深夜まで注文してて。
毎回、子どもが受け取ってて」
直子の眉がわずかに動く。
「続けてください」
「親御さん、まだ一回も見たことなくて……
で、今日ちょっと遅れたら……その……
受け取った子、全然笑えてなくて。
弟が呼んでたのに……返事も弱くて……
なんか……違うなって。」
言葉がそこで止まる。
「……どうすればいいんですかね」
直子は即答しなかった。
目線だけが海斗の手元へ動く。
「あなたは、どうしたいのですか」
海斗は視線を落とす。
「……本当は、俺……関係ないです。
配達して終わりの立場なんで。
けど……見ちゃって……
何もなかったフリするの、ちょっと……」
最後のほうは小さくなった。
直子は短く頷き、
「まず学校か児童相談所に通報してください。
それが正しい手順です」
海斗は深く息を吸い、頷いた。
「……はい」
しかし、まだ視線が揺れている。
直子はその“揺れ”だけを読み取り、
「……私も一度確認に行きます。
調査官としてではありません。事実の確認です」
海斗の目が上がる。
「あなたも来ますか」
海斗は驚き、数秒ためらってから、頷いた。
「……行きます」
直子は席を立ち、歩き出す。
海斗は背中を見送ったまま、
コーヒーに手を伸ばせずにいた。
第六章:匿名の電話
放課後の人気が薄れた商店街。
海斗は自転車を止め、ヘルメットを外すと、少しためらうようにスマホを耳に当てた。
「……あの、すみません。匿名で相談したいことがあって」
受話器の向こうが静まり返る。
「はい、どうぞ」
海斗は一度息を吸い、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始める。
「高橋さんって表札の家なんですけど……
夜に何度か配達に行くと、いつも子どもがひとりで玄関に出てくるんです。
親御さんを見たことがなくて……ちょっと心配になって」
必要なことだけを話す。
海斗にしては珍しく、言葉が途切れ気味だった。
教師は短く息を呑む。
「……詳しく聞かせていただけますか」
海斗は、配達時間帯が夜遅くに集中していること、
受け取りが子どもだけであることをだけ伝える。
「……情報ありがとうございます。こちらで確認します」
電話が切れた。
海斗はスマホを見つめ、ゆっくり息を吐く。
“言ってしまった”実感が胸に残っていた。
第七章:学校の気配
翌日。
昼休み前の廊下で、咲希の名前が呼ばれる。
教師「高橋さん、ちょっといい?」
咲希は笑顔を作り、近づいてくる。
頬の筋肉が少しこわばっていた。
「最近、授業中に眠そうだけど……大丈夫?」
「あ……すみません。夜、ちょっと……」
「宿題?」
咲希は一瞬だけ視線をそらす。
「……はい。宿題とか……」
教師は咲希の顔を見つめ、静かに尋ねる。
「家のこと、手伝ってる?」
咲希の指先がスカートの裾をつまむ。
答えが喉で止まる。
「……少しだけです」
“少しだけ”という言葉の薄さに、教師は気づいていたが、
それ以上を言わせるのは危ういと判断する。
「そっか。……また話そうね」
咲希は小さく頷いて去る。
職員室に戻った教師の表情は固かった。
「……高橋咲希さん。ヤングケアラーの可能性があります」
校長が深く頷く。
児童相談所への連絡が静かに進められた。
第八章:訪問
夕方17時。
直子と海斗が高橋家へ向かう。
海斗は玄関の前でそわそわと指を組む。
前編で“関係ない”と言ったはずの足が、ここにいる。
インターホンを押すと、咲希が扉を開ける。
「……はい?」
直子が身分を告げる。
「家庭裁判所調査官の柊木です。
状況を確認しに来ました」
咲希の目が揺れる。
戸惑いが一瞬、顔をかすめる。
「あ、俺……いつも配達してる……人」
咲希はほんの少しだけ緊張をほどき、扉を広く開いた。
「……どうぞ」
リビングへ案内される。
洗濯物の山、テーブルの空容器。
生活の隙間に疲れが溜まり続けている光景だった。
直子が椅子に座ると、咲希も緊張した姿勢で向かいに座る。
「毎日、あなたが家のことを?」
「……はい」
「朝は何時に起きてますか?」
「5時です」
海斗の視線がわずかに揺れる。
「寝るのは?」
「1時くらい」
「睡眠時間は4時間程度ですか」
「……はい」
直子は淡々と記録を取る。
「辛くないですか」
咲希は笑おうとし、
しかし頬が震え、目元が揺れた。
「……辛くないです。
お母さんは悪くないです。
病気だから……私が頑張ればいいだけで」
声がとても小さい。
海斗は拳を握りしめ、言葉を飲み込んだ。
咲希の“無理してる空気”が見えてしまう。
第九章:母の沈黙
寝室の扉を開けると、
弱い光の中で千春が体を起こしていた。
「……すみません、散らかってて」
「お気になさらず。少しだけお話を伺います」
千春は布団の端をぎゅっと握る。
「……あの子が全部やってくれてます。
本当に……申し訳なくて」
「支援を求めることは考えませんでしたか」
千春は目を伏せ、声を震わせる。
「……頼るのが怖くて……
娘が頑張ってるのを見たら……
言えなくて……」
直子は冷静に言葉を重ねる。
「娘さんはまだ14歳です。
大人の役割を背負わせるのは負担が大きすぎます」
千春は涙を流す。
「私さえ元気なら……あの子に、こんな……」
海斗は静かに視線をそらす。
「児童相談所と連携し、支援が入ります。
まずは生活を整えるところから」
千春は震える声で、何度も「すみません」と呟いた。
直子の表情は変わらない。
だが海斗には、ほんの一瞬だけ直子の目が揺れた気がした。
第十章:重なる影
翌日。
喫茶店の窓から差し込む光が、テーブルの端だけを白くしていた。
海斗は、その端に置いたカップを、まだ一口も減らしていない。
「……で?」
カウンターから店長の声が飛ぶ。
「なんすか、その“続きあるでしょ”みたいな言い方」
「顔に“続きあります”って書いてある」
海斗は苦笑いにもならない表情で、視線を落とした。
「昨日、あの家に行ってきたんです」
「高橋さんち?」
「あの子、朝5時起きで、夜1時まで起きてて……
弟の面倒見て、お母さんの看病して……」
言葉が細くなる。
「……それでも、“大丈夫です”って笑ってました」
スプーンがカップの中で小さく音を立てる。
店長は布巾でグラスを拭きながら、少しだけ体の向きを変えた。
「……似てんな」
「何がですか」
「昔お前が言ってた、姉ちゃんの話」
海斗の手が止まる。
店長「家事も弟の世話も、ぜんぶ背負ってたって」
海斗は、わずかに眉を寄せた。
「……あの時、俺は何もわかってなかったんで。
全部甘えて……気づいた時には、いなくなってました」
店長はカウンターからそっと近づき、海斗の肩を軽く叩いた。
「……でも今回は、気づいた」
海斗は目を伏せたまま、うなずく。
「……はい」
店長「だったら、いいじゃん」
短い言葉だったが、それだけで少しだけ胸が軽くなる。
海斗はようやく、コーヒーに口をつけた。
第十一章:限界
夜22時。
高橋家の前の道は、街灯だけが頼りだった。
海斗は自転車を止め、インターホンを押す。
ピンポーン。
返事がない。
もう一度押す。
しばらくして、ゆっくりと扉が開いた。
咲希が立っていた。
髪は乱れ、目に焦点が合っていない。
口元は閉じたまま、袋を受け取ろうとしない。
「……咲希ちゃん?」
呼びかけにも、返事はなかった。
そのまま、咲希の膝が床へ落ちる。
玄関の前に、すとんと座り込む。
「……っ!」
海斗は慌ててしゃがみ込み、咲希の肩に手を伸ばした。
「大丈夫!?」
咲希は顔を両手で覆い、かすれた声を漏らす。
「……もう……無理……」
震える声。
「お母さんも……陸も……
全部……無理……
でも……“助けて”なんて……言えない……
言ったら……お母さん、もっとつらくなる……」
言葉が途中で途切れ、喉が鳴る。
海斗は咲希の横で黙って息を整え、
少しだけ目を閉じた。
そして、静かに口を開く。
「“助けて”って言えない時ほど……
本当は、助けが必要なんだよ」
咲希の肩がびくりと震える。
「つらいのに笑ってるのって……さ。
めちゃくちゃ苦しいよね。
……俺も、知ってるから」
しばらく、雨が降る前のような沈黙が落ちる。
咲希は、ゆっくり顔を上げた。
目のふちが赤く、涙がにじんでいる。
「……笑ってないと……お母さん、心配するから……
“しんどい”って言えないから……」
海斗は小さく首を振った。
「誰も悪くなくてもさ。
重いものは、ちゃんと重いんだよ。
一人で持てる重さじゃない」
咲希の目から、ぽとりと涙が落ちる。
「……助けて……
もう……一人じゃ無理……」
その言葉は、小さかったが、はっきりしていた。
海斗は咲希の肩に手を置いたまま、短く答える。
「……うん。もう一人じゃないから」
玄関の小さな光の中で、
咲希は声を上げて泣いた。
第十二章:言えない言葉
数週間後。
家庭裁判所の面談室。
白いテーブルの上に、ティッシュが箱のまま置かれている。
直子、咲希、千春が向かい合って座っていた。
「……では、始めます」
千春は両手をぎゅっと握りしめている。
視線は下を向いたまま。
「高橋千春さん。
娘さんに、家事と弟さんの世話を任せすぎていましたね」
千春は、かすかにうなずく。
「……はい……。わかってます……」
声が震えていた。
「では、なぜ状況を変えようとしなかったのですか」
千春は唇を噛み、少し間を置いてから答える。
「……変えたくても……
どうしたらいいか、わからなくて……
娘が頑張ってるのを見たら……余計に、言えなくて……」
直子は淡々とした口調のまま、言葉を重ねる。
「力がなかったのではありません。
助けを求める勇気が、足りなかっただけです」
千春の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
直子は視線を咲希に向ける。
「……咲希さん。
お母さんに、言いたいことはありますか」
咲希は両手を膝の上で握りしめたまま、しばらく黙っていた。
部屋の空気が、少し重くなる。
やがて、絞り出すように声が出た。
「……なんで……私なのって……ずっと、思ってました」
千春の肩が小さく揺れる。
「私だって、中学生なのに……
友達と遊びたかったし……
勉強だって、ちゃんとしたかったし……
普通の生活が……したかった……」
言葉と一緒に、涙があふれ出す。
「でも……言えなかった……
お母さん、苦しそうだから……
私が言ったら……お母さんがもっと苦しくなるって……
だから、“大丈夫”って……ずっと……」
千春は耐えきれず、身を乗り出して咲希を抱きしめた。
「ごめんね……
本当に……ごめんね……」
咲希も、泣きながらその腕をつかむ。
直子はしばらく黙って、その光景を見ていた。
そして、静かに千春へ視線を向け直す。
「……千春さん」
千春が顔を上げる。
涙で濡れた目。
「咲希さんは、あなたを責めているのではありません。
“助けが必要だった”と言っているだけです」
千春は、言葉の意味を飲み込むように、何度か瞬きをした。
直子は淡々と続ける。
「弱さを隠すことより、
今こうして助けを求めた事実の方が、ずっと大切です」
千春の表情が、ほんの少しだけ、ほどけた。
咲希は泣きながらも、母の服を握る手に力を込める。
直子は記録用のペンを置き、静かにまとめた。
「……ここからは、周囲の大人が動きます。
あなたたちだけの問題ではありません」
その言葉は、決して優しい言い方ではなかったが、
二人の肩に乗っていた重さを、少しだけ分けてくれる響きがあった。
第十三章:支援の手
家庭裁判所での面談から、さらに日が経った。
高橋家には、少しずつ変化が訪れていた。
週に何度か、家事ヘルパーがやってくる。
洗濯物の山が、前より低くなった。
咲希が学校から帰る時間に合わせて、
学習支援のスタッフが訪ねてくる日もある。
陸は、ヘルパーと一緒に簡単なお手伝いをしながら、
嬉しそうに笑っていた。
千春のもとには、医療ソーシャルワーカーが定期的に訪れ、
今後の治療や生活について一緒に考えてくれるようになった。
咲希は、保育園の迎えの時間にいつも追われていた足を、
ほんの少しだけゆっくり動かせるようになる。
遅い時間まで開いていたノートも、
日付が変わる前に閉じられる日が増えた。
誰も劇的には変わっていない。
ただ、毎日の“重さ”が、少しずつ、分散されていく。
第十四章:戻った日常
ある夕方。
公園の前を、自転車を押しながら通りかかった海斗は、
笑い声に足を止めた。
ブランコの前で、咲希が友達とじゃれ合っている。
制服のまま、楽しそうに身振り手振りで話していた。
海斗はしばらく、その光景を遠くから眺めていたが、
咲希がこちらに気づき、目を丸くした。
「……あ、海斗さん!」
手を振りながら駆け寄ってくる。
「おー。元気そうじゃん」
咲希は少し照れたように笑った。
「今日、友達とカラオケ行ってきたんです。
プリクラも撮って……!」
スマホを取り出しかけて、
恥ずかしくなったのか、すぐ引っ込める。
「……なんか……
初めて“普通の中学生”みたいなことしました」
笑顔のまま、少しだけ目に涙がにじむ。
海斗は深く頷いた。
「……うん。そうやって笑ってるのが、一番いいよ。」
咲希は小さく息を吸い、言葉を続ける。
「……気づいてくれて、ありがとうございました」
「いや、俺は配達してただけだから」
そう言いながらも、海斗の声はどこか柔らかかった。
咲希は「でも」と小さくつぶやき、
友達の方へ手を振って戻っていく。
海斗はその背中を見送り、
自転車のハンドルを握り直した。
第十五章:弟のひと言
高橋家のリビング。
テーブルの上には、宿題のノートと、
新しく買った消しゴムが並んでいる。
咲希が問題に向き合っていると、
隣にちょこんと陸が座った。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「お姉ちゃん、最近いっぱい笑ってる」
咲希の手が止まる。
「……そうかな」
「前は……夜になると、ないてた。
今は、笑ってる」
陸は当たり前のことのように言う。
咲希は陸を抱き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
「……ありがと」
陸「え?」
「陸が、そう言ってくれて……嬉しい」
陸は咲希の腕の中で、無邪気に笑った。
「お姉ちゃん、大好き!」
咲希は涙をこぼしながら、笑顔になった。
第十六章:喫茶店での報告
喫茶店。
窓際の席で、海斗と直子が向かい合って座っていた。
「……咲希ちゃん、
友達と遊ぶ時間が増えたみたいです」
「そうですか」
「ヘルパーさんも来てくれて……
“宿題しても眠くならない日がある”って」
直子は小さくうなずく。
「良かったですね」
海斗はコーヒーを一口飲み、カップを置いた。
「……柊木さん」
「はい」
「俺……これからも、
こういうの気づいたら……相談していいですか」
直子は少しだけ考えるように視線を落とし、
また海斗を見た。
「……はい。お願いします」
海斗の目が丸くなる。
「え、本当に?」
「あなたの観察は、有効です」
淡々とした言い方だったが、
肯定の意味ははっきりしている。
海斗は、照れくさそうに笑った。
「……ありがとうございます」
直子はコーヒーに手を伸ばす。
その口元が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
海斗は気づかない。
最終章:それぞれの明日
調査官室。
直子は、書類を整え、
最後の一枚にクリップを留めた。
右手が自然に左手首へ伸びる。
軽くなぞるように指を動かし、
ふと窓の外へ視線を向けた。
「……風間さんは、気づく力がある」
誰に聞かせるわけでもない声だった。
同じ頃、公園では、
咲希と陸が走り回っている。
「お姉ちゃん、鬼ね!」
「えー、また私!?」
文句を言いながらも、
咲希の笑い声には、もう影がない。
そして──
夕暮れの道を、自転車で走る海斗。
空を見上げ、目を細める。
「姉貴……
俺、今度はちゃんと気づけたよ」
声は小さく、風に紛れた。
夕日が街を柔らかく照らし、
海斗の影を長く伸ばしていく。




