第9章
樹がテストの前の週にはバイトを一切入れていなかったこともあり、図書室ではあの日から連日勉強会が開かれていた。しかし、ユキナはあの日以来参加することなく、自宅にて勉強していた。
部屋の机に向かう時間は静かだった。窓の外から聞こえる車の音や、どこからか届く子供たちが遊ぶ声が、やけに近くに感じられるほどに。
3人での勉強会から3日後の夜だった。
短い通知音とともに、卓上にあったスマホ画面が淡く光った。
数学の問題を解いていたユキナのシャープペンシルの先が、ノートの上で小さく止まった。
『今から行く』
開いたトークルームに表示されたメッセージ。説明も理由も、こちらの都合を伺う気さえもない、いつもの樹らしい淡白な文。
しばらくして、廊下から聞き慣れた足音が響き、間もなくドアがノックされた。
「どーぞ」
ユキナが言い終わる前に、樹がドアを開けた。廊下の空気と一緒に、樹のシトラス系の香水の香りがふわりと部屋に入り込む。
「お? 勉強してる」
「当たり前でしょ?」
ユキナはドヤ顔をしてみせる。
樹が視線を移したノートには、計算式がびっしりと並んでいる。
普段のユキナなら途中で投げ出してしまいそうな量だった。
「じゃあお前、なんで来ねえの? 逃げやがったなって思ってたけど、ちゃんと勉強してんじゃねえかよ」
樹が机の右隣にあるベッドに腰掛けると、ベッドのスプリングがわずかに軋んだ。
ユキナの部屋に来ると、樹は小さな頃から決まってその場所に座る。
「図書室より部屋の方が集中できるかなって。紗江がいたら、喋りたくなっちゃうし」
「まあ、ちゃんとやってんなら何でもいいけど」
樹はそう言うと、手に持っていた本をバサっとローテーブルに置いた。
「これやる」
よく見ると、分厚い教科書のようなものだった。ほとんど開いた形跡もない綺麗さだ。
「なに?」
「数学の教科書に沿った参考書。ガイドと問題集に分かれてるから1人で勉強するならお前にちょうどいいかなと思って」
「ありがとう! でもたつは、使わないの?」
「中身大して見ねえで買ったら、基本的なことしか書いてねえから俺には必要なかった」
「うーわ。超嫌味ー」
ユキナはじとっとした目で樹を見た。
パラパラとページをめくってみた。
その口元が少し緩んでいることに、本人さえも気づいていない。
「まあ俺、天才なんで」
「うっざ」
ユキナがそう言うと、樹は笑った。普段はほとんど表情を変えないくせに、笑うと目尻がくしゃっと下がり、眉がやさしく下がる。そのまま向けられる視線は、まるで愛情でも滲んでいるかのようにやわらかい。昔から変わらない笑い方だった。
幾度となく見たはずのその笑顔に、胸がざわめく感覚を、ユキナは必死で気づかないふりをした。
「んじゃ、無理はすんなよ」
樹はそう言うと立ち上がった。
「ありがとう」
ユキナの言葉に、軽く手を挙げると、彼はそのまま部屋を出ていった。
樹が去ったあとの部屋で、香水の残り香がやけに腹立たしかった。
「この香り、嫌い」
ポツリとそう呟いたのは、無意識だった。
自分の中の樹とは、別人のように感じるその香りが憎らしかった。
――ふと、頭に落書きのあの言葉がよぎる。
ユキナは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐きだす。この胸のわだかまりがすべて消え去るようにと。




