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第8章

 車窓の向こうで、朝がほどけていく。ユキナは吊り革につかまり、それをぼんやりと眺めていた。


 身動きも取れない車内で、誰もが黙って今日を抱えている。

 肩越しに差し込む光だけが、この無言の群れのあいだを、言葉もなく歩いていく。


「お前、昨日追試どうだった?」


 ふと、耳元に樹の低い声が響いた。


「多分、合格点は取れた」


 得意げにそう言った彼女を、樹は甚だ疑わしいという顔で見つめ、眉を顰めた。


「本当かあ?」


「たつがここ押さえとけって言ったところ、全部出たの。勉強できる人ってそもそも要領がいいんだね」


「お前が悪すぎんだろ」


 樹はため息をつく。


「私なりに努力してるもん」


「最近やっとだろ。小テストの追試できたくらいで、調子乗んなよ。中間まであと10日なんだからな。今日も勉強すんぞ」


「えー」


「お前自分の部屋なら遊びだすから、俺の部屋な」


「何さ人を子供みたいに」


「子供なんて思ってねえよ。クソガキだ」


 ユキナはそう言った樹の二の腕をバシッと叩き、睨みつける。

 樹は片側だけ口角を上げ、憎たらしい笑みを浮かべていた。


 電車を降りてから、樹は制服のポケットの振動に気づき、画面に視線を落とした。


「なあ、やっぱ今日の勉強、図書室にしねえ?」


 画面から目を離さないまま、彼は言った。


「そこまでしなくても別に遊ばないし。私クソガキじゃないので」


 ユキナがいじけたように言うと、樹は言った。


「有森から連絡来た」


「え?」


「この前、勉強教えて欲しいって言われて、連絡先交換した」


 樹はニッと笑い、紗江とのやり取りの画面を自慢げに見せてきた。


「今日の放課後はどうかって」


 見せつけられた画面を見ると、見慣れたアイコンが表示され、トークルームが開かれていた。


 人の波が流れ、アナウンスが天井から降りてくる。ユキナはその流れの中に立ちながら、自分だけがそこにいないような気分になった。


 ざわめきは、遠い海の音のように寄せては返すばかりで、心の奥にはひとつも届かなかった。


「……そっか。うん、いいよ図書室で」


 口にした言葉は素直だったはずなのに、心のどこかにうまく着地しないものが残った。


* * *


 黒板の前で、教師がチョークを走らせている。

 白い線が次々と重なり、文字や図になっていく。書き終えるたびに振り返り、身振りを交えて何かを説明していた。


 ユキナはそれを、ぼんやりと眺めていた。


 ノートの上に置いたペンは、まだ一文字も書かれていない。


 ふと視線を移した窓の外では、風に押された雲がゆっくり流れている。


 ここ清森(せいしん)高校には、三つのコースがある。

 普通コース、文理コース、そして難関大学を目指す特進コース。


 ユキナと紗江は普通コースだった。


 普通コースは基礎的な授業が中心で、進路がまだ決まっていない生徒や、学校から強豪認定されている部活生もここに入れられる。


 樹も、その一人だった。


 本来なら文理コースにいてもおかしくない成績だったが、サッカー部が強豪認定部だったため、学校の方針で普通コースに所属していたのだ。


 文理コースは進学志向の強い生徒が集まり、授業の進度も速い。

 さらにその上に特進コースがあり、授業数も科目も増え、土曜講習まである。限られた選抜生だけが進むコースだった。


 コースが違えば、使う教科書もテスト範囲も変わる。

 数学一つ取っても、扱う単元がまるで違っていた。


 樹は、部活を辞めた。


 だから今は、文理コースへの変更を見据えて勉強しているらしい。

 来年度には特進を目指す、とも聞いた。


 そんな状況なのに、樹は当然のようにユキナの勉強を見てくれる。


 自分のやるべき勉強があるはずなのに、ユキナの理解できるところまで噛み砕いて説明してくれる。文句を言いながらも、途中で投げ出すことはない。


 昔からそうだった。


 どんな場面でも、最後まで見捨てずに助けてくれる。


 それは、幼馴染である自分だけに向けられたものなのだと、ユキナはどこかでそう思っていた。


 放課後、憂鬱な気持ちで図書室へ向かった。

 樹はまだ来ていないようで、室内にずらりと並べられた長テーブルの、一番窓際の席に座っていた紗江がこちらに気づき、手を振ってきた。


「ごめん、ユキナ今日元々大杉くんと勉強する予定だったんだね」


 ユキナが紗江の隣の椅子を引くと、両手を合わせて、申し訳なさそうに彼女は言った。


「先にユキナに聞けばよかったね」


「いいの、場所変わっただけだし。それより、私の方がごめん。今ここ来る時、ハッとしたの。私、気が利かなくて。今から適当に理由つけて帰るから、紗江はたつと――」


 紗江は、ユキナのブレザーの裾を掴んだ。


「ダメ! 私、勇気を出して誘ったは良いけど今日ずっと緊張してたの。ユキナもいるって知って、ホッとしてたんだから。行かないで」


 慌てる紗江を見て、ユキナは笑った。


「紗江、可愛い」


「もう口から心臓出そうなんだよー」


「大和君のことは、もういいの?」


「うん……。あれから、マネージャーとのやり取りを見ちゃったことを伝えたの。ヤマくんは部員とマネージャーの関係でしかないって言うんだけど、なんか煮え切らない態度で。私が、信じられないって伝えたら、向こうから別れを切り出してきた。だから、ヤマくんとはもう終わったんだ」


 そう言った紗江は神妙な面持ちではあったが、どこか吹っ切れたような清々しさも感じられた。


「別れてすぐ、はい次、みたいなのもどうかと思うんだけど……。私やっぱり、大杉くんと話してたら、どんどん好きになってくの。本当、私って調子良いやつって、自分でも思う」


 紗江は伏し目がちにそう言って、小さくため息をついた。


「え、なんで? 別れてずっと落ち込んでるより前向きでいいじゃん」


 あっけらかんと言ったユキナの言葉に、紗江の表情が和らいだ。


「もー。ユキナ好きー」


 そう言って全力で抱きついてきた紗江に、ユキナもぎゅっと抱きつき返す。


「なにさー! 私だって好きー!」


「うっ苦し……ユキナ怪力すぎ」


 きゃっきゃと紗江と戯れあっていると、


「お取り込み中すいませーん」


 声がした。


 見上げた先、テーブルの向こう側に、樹が立っていた。


「ここ、いーっすか」


 樹が、向かい側の椅子を引いて言った。


「あ、うん。どうぞどうぞ」


 紗江は前髪をささっと直しながら、手のひらでどうぞのジェスチャーをして言った。


「静かにするようにって奈美ちゃんが言ってんぞ」


 樹は自身の後方にある図書カウンターに座る司書の市原さんを親指で指しながら言った。

 五十代くらいの彼女は気さくな人柄で、一部の生徒たちからは「奈美ちゃん」と親しげに下の名前で呼ばれていた。


「あ、ごめんなさい」


 ユキナと紗江は慌てて謝った。

 市原さんはにこにこと笑顔で手を振り、あっさりと許してくれた。


 秒針が時を刻む音と、鉛筆の走る音が静かに重なっている。

 時折、わからない数式を樹に尋ねる紗江は、終始笑顔だった。樹も特に構えることなく、淡々と、しかしどこかいつもより穏やかな声色で説明していた。


 ユキナは視線をノートに落とした。

 数字がただの記号のように並んでいるだけだった。


 いたって穏やかな空気の中で、ユキナだけが、この勉強会に来たことを胸の内で何度も悔やんでいた。


 3人が図書室を出たのは、閉館時間の18時を過ぎた18時半。

 中間テスト前ということで、熱心に勉強する3人を見た市原さんが、特別に延長してくれたのだ。


 昇降口を出た瞬間、夜の空気が肌に触れた。

 昼のぬるさはすっかり消えて、風はひんやりとしていた。


 見上げた空はすでに星がにじみ始めていて、街の灯りが遠く瞬いていた。地平のほうにだけわずかに残った茜に、雲の端が薄く染められていた。


「大杉くん、今日はありがとう。とってもわかりやすくて、本当に助かりました。ユキナもほぼ私の勉強に付き合わせるみたいになっちゃってごめんね、ありがとう」


 にっこりと微笑む紗江。


「ううん」


 ユキナも微笑み返した。


「こいつに教えるのに慣れてたから、のみ込み早すぎてびびったわ」


「すいませんね、理解力なくて」


 ユキナは樹を睨んだ。

 そのやり取りを見て、紗江は楽しそうに笑っていた。


「テストまで、都合いい時でいいからまたお願いします」


「おお。今週こいつの勉強見る予定だからバイト入れてないし、いつでも」


 樹のその声は柔らかく、ふっと力の抜けた笑顔が優しかった。


 ユキナが目を逸らすようにふと見上げた校舎の窓には、外の闇が静かに映っていた。


 もうこの勉強会に参加することはない、と彼女は思った。

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