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第6章

 ユキナは、いつもの駅までの道を樹と歩いていた。

 見上げると、空はようやく白から青に染まりはじめ、街路樹の葉に光が透けていた。カラスが、どこか遠くで鳴いている。


「ガソリンスタンド? あの駅の近くの?」


「そう。土日から働いて、今日で3日目」


 最近、樹はバイトを始めたらしい。学校の最寄り駅のすぐ近くにあるガソリンスタンド。そこに欠員が出たからと、クラスの友達に紹介されたのだという。


「でもうちの学校、バイト禁止じゃなかった?」


「申請した。学費を稼ぐためって適当に理由書いたら、すぐ通った」


「へえ。大変?」


「覚えちまえば、大丈夫そう」


「最近遅くまで電気ついてるなとは思ってたけど――バイトの後に勉強してたんだね」


「見んな」


「最近頑張りすぎてない?」


「部活辞めたから、その時間帯なんかしてねえと落ち着かねえんだよ」


「たつさあ……」


「あ?」


「どうしてサッカー辞めたの?」


 少しの間があって、樹は前を向いたまま言った。


「限界感じたんだよ。レギュラーでやってくことに」


「でも、サッカー大好きだったじゃん……」


「うるせえな、いろいろあんだよ」


 それ以上、踏み込んではいけない気がして、ユキナは追求することをやめた。


「そうだ。私今日掃除当番だから、バイトあるなら先帰っていいからね」


「おう」


* * *


 帰りのホームルームを終え、生徒たちが次々に下校していくなか、ユキナは水飲み場の脇にある排水用シンクに身をかがめ、バケツの水を静かにあけていた。


 不意に、その背後から紗江の声が聞こえてきた。


「ユキナも掃除当番だったんだ」


「紗江! 今帰り? 私もう終わるから、一緒に帰ろ」


 振り返ったユキナは、同じくバケツを持っている紗江に向かってそう言った。


「大杉くんは?」


 紗江は辺りを見回した。


「先に帰ったよ」


「そうなんだ。じゃあ私、荷物取ってから、そっちの教室行くね」


 ユキナが教室で掃除用具を片付けていると、間もなく紗江が来た。


「おまたせ。今日は駅前からバスに乗ることにするね」


 紗江はそう言いながら、ユキナのいる机のところまで歩いてきた。


「わーい。合わせてくれてありがと」


 ユキナは机にあるカバンを取った。


「今日も帰ったら、大杉くんと勉強?」


「たつ今日バイトだから、夕食後に少しだけする感じだと思う」


「バイトしてるんだ」


 紗江は意外そうに言った。


「うん。なんか最近始めたみたい」


「忙しい中、勉強教えてくれるなんて優しいね」


「こないだの小テスト散々だったのが、たつにバレたの。私の点に絶句してた。紗江は、大和くんと勉強するようになってから成績上がったんでしょ?」


 ユキナはそう言って笑った。


「がっかりされたくないし、頑張らなきゃって思えるから」


 紗江が言うと、ユキナはため息をついた。


「あー、勉強相手が彼氏だからか。紗江と私のモチベーションの差はそこだ」


「何言ってるの。ユキナだって、大杉くんに教えてもらってるじゃん」


 紗江は、クスクスと笑った。


「たつは腐れ縁の幼馴染だからなぁ。彼氏に教えてもらう感覚と同じではないよ」


 ユキナの言葉に、紗江の目の奥にかすかな戸惑いが滲んだ。


「ユキナと大杉くん、付き合ってるでしょ」


「ちょっと、今更何言ってるの。幼馴染ってさんざん周りに言ってるの、紗江いっつも横で聞いてたじゃん」


 ユキナは笑いながら手をひらひらと振り、目尻がほんの少しだけ引きつってしまうのを必死に隠した。


「周りに詮索されるのが面倒でそう言ってるのかと思ってた。一緒に登下校したり勉強したりしてるのも、そういうことなんだと思ってたの」


「いやいや! 登下校は成り行きっていうか、隣に住んでるから自然とそうなった感じ。私一人だと遅刻ギリギリになること多いし、たつが家出るついでに寄ってくれてる」


 風がひとすじ、カーテンを揺らす。その短い沈黙。紗江は依然として困惑した表情を浮かべていた。


「二人は、どこからどう見ても恋人そのものだったよ」


「でも、勉強だって最近だよ。小学生の頃に一緒に宿題したことはあるけど、こんなふうに毎日一緒にやったことはなくて。ここんとこ私の成績がやばすぎて、たつが見かねてって感じ」


「そっかぁ……」


兄妹(きょうだい)みたいな感じだし、付き合うとか、ないない!」


 ユキナは、自分が放ったその言葉の輪郭だけが取り残され、空虚な違和感を覚えた。


 二人が話す教室の前で、樹は壁に背を預け、戸がわずかに開いたままの教室から二人の会話をぼんやりと聞いていた。

 バイトのシフトが急遽変更になり、今日の勤務が明日になったため、ユキナを迎えに来たのだが――教室の前まで来たところで、ふいに聞こえてきた自分の名前に、声をかけるタイミングを見失ったのだ。


――兄妹。


 言葉自体は珍しくもない。何のてらいもない、聞き慣れたユキナの声で、笑い声に紛れて聞こえたその一言が、樹には妙にくっきりと鮮やかだった。


 樹は、壁に預けていた背を静かに起こし、深く息をついてその場を後にした。


 教室の扉の隙間から漏れる会話は、何事もなかったかのように続いていた。その声が、誰かを切り取ったことなど、知るはずもなく。


「私、大杉くんを初めて見た時ね、格好いい人だなあって思ったの。すぐクラスと名前覚えて、廊下で見かけたらこっそり喜んでて――」


「そうだったの?」


「でも、すぐに、毎日教室にユキナを迎えに来てるのに気づいて、ああ、そうなんだって。ユキナ周りに関係聞かれても、いつも適当にあしらってたけど、二人の独特の空気感がもう、心が通じ合ってる感じだったから」


「じゃあ――その頃からずっと、たつのこと……?」


「1年の初めの頃、放課後にユキナを迎えに来た大杉くんと話す機会があって。その時ユキナ職員室に行ってたから、すぐ戻ると思うよって伝えたの。その数分で少しだけ話して、こんな風に笑うんだ、声低くて格好いいな、やっぱり背高いなあ……って色々考えちゃって。これ以上関わらないほうがいいと思った。ユキナの彼氏好きになるなんて絶対ダメって、自分の気持ち制御した」


――あの時だ。


 ユキナは思った。

 その日は日直の仕事で、日誌を届けに職員室へ行っていた。帰り道、樹が紗江のことを好意的に話していたので覚えている。


――同じ時期に、惹かれ合っていたんだ。


 大人びた紗江は、樹のことなんて相手にしないと勝手に思っていた。自分の存在が、二人の仲を邪魔していたのだ。


 紗江は話を続けた。


「必死で大杉くんのこと考えないようにしてた時期に、中学の友達に紹介されたのがヤマくんだったんだ」


「そっか……」


「よくみんなで遊んだりするようになって、告白された時には、私もかなりヤマくんに惹かれてたから、付き合うことになった」


「部活やめて、煙草吸って、ちゃらんぽらんなたつより、ストイックな大和くんのほうが、紗江とお似合いだもんね」


 そう言ったユキナの言葉に、紗江の顔が少し曇った。


「でもね。ヤマくん最近部活忙しくて会えないこと多くて。毎日部活のあとコンビニで菓子パン買い食いするって言ってたから、この前サプライズのつもりで、お弁当作って学校まで行ったの」


紗江は毛先を指で弄りながら、続けた。


「私、お弁当なんて自分用に適当に作ったことしかないから、栄養面考えてしっかり作ったら、1時間もかかっちゃった」


「すごい。紗江、頑張ったんだね!」


 ユキナの言葉に紗江は微笑んだが、すぐに俯いた。


 そのときの光景を、紗江ははっきりと思い出していた。


 急いでおかずを弁当箱に詰めながら、これでいい、これで伝わる、と自分に言い聞かせ家を出た。


 日が落ち切った他校のグラウンド。周囲はすでに夜に溶け、フェンスの外側は黒一色だが、等間隔に立つ照明灯だけがその闇を切り取るように光を落としている。白い光は均質ではなく、中心は強く、外縁に向かって緩やかに薄れ、砂埃を含んだ空気を淡く浮かび上がらせる。紗江は緊張しながら、まだ暖かいお弁当の包みを抱え、視線を巡らせ、大和を探した。


 フェンス越しに、大和の姿を見つけた。意外とすぐ近くにいたことに驚きつつ、初めて見る部活中の彼の姿に嬉しくなった。

 練習を終えた直後らしく、汗でシャツが張り付いていた。声をかけようか迷っているうちに、マネージャーらしき女子生徒が彼の近くに寄っていき、袋を差し出すのが見えた。


「今日これだけ?」


 大和が、袋の中身を覗いて言った。 


「ごめん、朝時間なくて。でも、ヤマの好きな梅干とツナマヨにしたから許して。明日は、ちゃんといつものお弁当作るから」


 マネージャーはそう明るく言っていた。


 紗江は、その場で足がすくんだ。

 自分の弁当箱の中身が、急にとても重く感じられた。


 紗江の話を聞いて、ユキナは驚いた。


「え? マネージャーが部員みんなにおにぎりとか弁当作ってるってこと?」


「ヤマくんにだけ渡してた。私のおにぎりは、おかかと鮭。ヤマくんの好きなおにぎりの具なんて、知らなかった」


「は? それって――」


「ヤマくん、『ありがとな』って、そのマネージャーさんの頭を撫でたの」


 紗江の声は、かすかに震えていた。


「ヤマだけ、そんなに栄養満点な弁当毎日食べてるから、エースストライカーなんだよ」


 他の部員の冗談めかしたその言葉に、女子マネージャーは笑って答えた。


「エースストライカーだから、作ってあげてるの」


 大和はただ楽しそうに笑っていた。否定も、距離を取る素振りもなかった。


 フェンスのこちら側で、紗江は弁当を持ったまま立ち尽くした。自分の用意したものが、急に場違いなものに思えた。声をかける理由も、近づく意味も、そこで途切れた。

 紗江はそっとその場を後にした。

 

 帰宅してから、キッチンのゴミ箱に向かって、乱雑に弁当をひっくり返した瞬間、心の中で何かが壊れた。


 ユキナが、思わず声を上げた。


「紗江。大和くんと、ちゃんとそのことについて話した?」


「ううん。そのあとメッセージで短いやりとりはしたけど……。部活終わったって伝えられた時間も全然違ったし、なんかヤマくんの言ってること何もかも嘘に思えて、なんだか疲れちゃった」


「そっか。でも――話さなきゃ、わからないこともあるかもしれないよ」


「うん、そう思う。でも……他の女の子のお弁当毎日食べてるなんて知らなかった。親しげに頭なんか撫でないでほしかった。そう思うと、どんな言葉が返ってきたって、私はもう彼のことを心の底から信じることはできないと思う。好きって気持ちも、日に日に萎んでくのがわかるの」


 そう話した紗江の目には、涙が溢れた。


 ユキナは、黙って紗江の背中をさすった。

 しばらくそうしているうちに、紗江の嗚咽も落ち着いてきた。

 

「ユキナは、大杉くんのこと、好きじゃないの?」


 ふいに話を振られ、ユキナはドキッとした。


「えっ、まさか! たつも、多分私なんてあり得ないと思ってるよ。さっきも言ったけど、なんかもう、お互い家族って感じだからさ」


 ユキナは、必死に取り繕った自身のその言葉が、心の底に深く、重く沈殿していくのを感じた。


「そっか」


紗江は小さく息を吐いた。


「大杉くんは、彼女とか好きな人、いないのかな」


「そういう話したことないから、好きな人はわからないけど――彼女は絶対いないよ。部活一筋だったのが、バイトと勉強に変わったってだけの生活してる」


「私、大和くんとの今の微妙な関係をちゃんと終わらせて、しっかりけじめつけてから、頑張ってみてもいいかな」


 聞きたくなかったその言葉に、ユキナは笑顔を作った。


「うんうん。紗江、たつのタイプだよ! がんばれ!」


 明るく言い放つ声が、静まり返った放課後の教室に跳ね返された。頬の筋肉は、正しく持ち上がり、目元の皺も、多分ちゃんと本物だったはずだ。


 沈みきらない西日に照らされた二人の影が、ユキナの心の濁りを見透かしているかのように、並んで伸びていた。

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