第5章
その日の放課後は、樹の部屋で勉強することになっていた。
数日前、ユキナの部屋で樹と勉強したとき、彼女はテレビをつけてみたり、音楽を流したりしていて――
「お前、落ち着きなさすぎ」
樹にそう指摘されたからだ。
玄関に入るなり、樹は習慣のように郵便受けを開け、感情を挟むことなく郵便物を手に取った。
「先、部屋行ってて」
そう言い残し、彼はリビングへ入っていった。
ユキナは階段を上がり、約3年ぶりに彼の部屋へ入った。
黒を基調とした、相変わらずシンプルなインテリアだった。ベッドと机以外は何も置かれていない。
確かに、この部屋の方が勉強に集中できそうだ、とユキナは思った。
昔と変わったのは、サッカーに関するものが一つも置かれていないことだけだった。
ふいに、ミャー、と声がした。
「あれ、いたの」
ベッドの上にいた雑種の黒猫に、ユキナは声をかける。黒い布団に紛れていて、気づかなかった。
「久しぶりだね」
黒猫はミャーと返事をするように鳴き、ユキナの方へと歩いてくる。
「よしよし」
目を細め、背を撫でながら、ユキナは小学校三年生の頃、この黒猫と出会った日のことを思い出した。
あの頃も、ユキナは樹と毎朝登下校を共にしていた。
いつもの通学路の途中に、住宅の間にぽっかりと空いた空き地があり、そこでよく見かける黒猫がいた。
ある朝、登校中にユキナと樹は、その黒猫が小さな子猫を咥えて歩いているのを見つけた。毛色も瞳も漆黒だった。
ユキナと樹は黙って顔を見合わせたあと、黒猫をこっそりと追う。空き地の片隅に生えている、クスノキの幼木の下、ボロボロの廃タイヤの中に身を沈めていた。
ミーミーと頼りない声をあげる子猫に、じっとお乳を与えている。
その光景に、ユキナも樹も言葉を失うほど感激した。
二人とも、動物が大好きだった。
それからというもの、登下校のたびに、猫の親子が無事かどうかをそっと確かめるのが、彼らの日課になった。
人間の気配は猫にとってストレスになるからと、樹はできるだけ距離をとるよう気を配っていた。
猫の方から近づいてくるとき以外、こちらからそばへ行くことはなかった。
もともとひとりっ子だったのか、それとも何か事情があって一匹になったのかはわからないが、親猫が連れている子猫はいつもその一匹だけだった。
ある月曜日の朝、いつものように猫たちの生存確認をすべく空き地を見ると、その日は親子の姿を確認することができなかった。
廃タイヤをそっと確認すると、そこに親猫はおらず、子猫一匹だけだった。
「ママ、お出かけ中かな?」
ユキナは樹を見た。
「……いつからいないんだろう」
樹はそう呟くと、母親を呼ぶかのようにミーミー鳴き続けている子猫を、静かに見つめていた。
土日を挟んでいたので、最後に確認したのは金曜日の放課後だった。そのときはすぐ近くに親猫を確認している。
ユキナは樹の手を握った。
「すぐ戻ってくるよ、きっと。また帰りに様子を見にこよう」
ユキナの言葉に、樹は黙って頷いた。
そこから学校まで、ユキナは俯く樹の手を引き、少し前を歩いた。
ユキナの手を握る樹の手に、ぎゅっと力が入る。
――大丈夫、大丈夫。
ユキナは心の中でそう唱え、彼の手を強く握り返した。
樹の手から、少しずつ力が抜けていくのを感じた。
ユキナは樹の方へ振り返り、にこりと微笑んだ。
彼の、先ほどまでの強張った表情から力は抜け、安堵の表情へと変わった。
学校が終わると、二人で急いで空き地へ向かった。
朝のようなしつこいくらいの鳴き声は、一切聞こえてこなかった。
タイヤを覗いてみると、そこにはやはり子猫だけが一匹で丸まっていた。
ユキナと樹の気配に気づくと、子猫は鳴き出した。
その様子を見て、二人はホッとしたように顔を見合わせた。
「ママ、まだ戻ってないみたいだね」
ユキナは言った。
「……今日、夕方から雨降るって光樹が言ってた」
樹は呟くように言った。
「ひとりぼっちだと寒いね。今日中に戻ってくるといいね」
しばらく様子を見ていたが、親猫は一向に現れなかった。
樹と共に自宅に帰ったユキナは、ダイニングテーブルに座り、おやつを食べていた。
テーブルに手作りのパウンドケーキが置いてあり、手紙が添えられていた。
――――――――
ユキ・たつへ
おかえりなさい
ふたりでわけて食べてね
ママより
――――――――
「たつ、ケーキ食べないの?」
樹はリビングのソファに座ってテレビゲームをしている。
「んー……」
彼はコントローラーを握ったまま、答えたが、明らかに空返事だった。先ほどからレーシングゲームのフィニッシュライン通過後の音楽が流れ続けている。
画面を見ると、いつも1位しかとらない彼の順位は4位と表示されていて、いつから眺めているのか、リプレイが繰り返し流れていた。
ユキナは窓の外をチラリと見た。空は分厚い暗雲が立ち込めていて、今にも泣き出しそうだった。
「見に行こう」
ユキナは言った。
二人で空き地へ向かっている途中、ついに雨が降り出した。
ユキナは持っていた傘を開こうとしたが、樹はその手を掴んで言った。
「走るぞ」
二人は、手を繋ぎ空き地まで走った。
急いでタイヤの中を確認すると、先ほどの子猫が一匹、横たわっている。
一瞬ドキリとしたが、微かに息をしていた。
クスノキの幼木の鬱蒼たる葉が、雨除けの役割を果たしているおかげか、子猫は濡れてはいなかった。
しかし、明らかに衰弱していた。
樹は自分が着ていたパーカーを脱いでタイヤの中に敷き、子猫を包んだ。
パーカーの上から子猫の体をさする樹の目は、真剣だった。
今まで樹は、人間の匂いがつくといけないからと、触れるのはもちろん、近づくことさえ我慢していた。
今はもう、そんなことを言っている状況をとうに過ぎたのだと、ユキナは思った。
そんな樹と猫に傘をさしながら、ユキナは祈るように呟いた。
「早く……」
――早く帰ってきて。子猫が……たつが、凍えちゃう。
ユキナは、これ以上、母を待つこの子猫の姿を、彼の中に沈めたくなかった。
雨足はどんどん強くなっていった。
傘を持つ彼女の手はかじかんで、とっくに感覚がなかった。
限界まで待とうと、ユキナは思っていた。子猫が心配なのはもちろんだが、ユキナは何より樹が心配だった。
「連れて帰る」
樹は、パーカーごと子猫を抱いて言った。
「でも……。もしお母さんが戻ってきたら、この子いないと心配しちゃうかも――」
「来ねえよ、もう」
言いかけたユキナの言葉を遮り、吐き捨てるように言った樹の目は、ぞっとするほど冷たいガラス玉のようだった。
樹の家に着くと、彼は電気ヒーターを引っ張り出して、その前に毛布を敷き、子猫の寝床を作った。
中学から帰宅した光樹とサヤカに事情を話すと、二人はあれこれ調べて子猫のために買い物をしてきてくれた。
子猫用ミルクをシリンジに入れて樹が与えると、ほんの少し飲んでくれた以外は、子猫はずっと眠っていた。
その夜帰宅した樹の父は少し驚いた様子だったが、突然猫を拾ってきた息子に、何も言わなかった。
あれから8年。ユキナの足に顔を擦り寄せ、ゴロゴロと甘えるこの黒猫は、あの時の子猫、リッカ。
拾ってきた翌日に、光樹とサヤカがリッカを連れ、動物病院を訪れた。
そこで子猫は生後二ヶ月のオスということが判明して、ノミや目ヤニなどの処置をしてもらい、確か薬も処方されていた気がする。
その後も何度も空き地へ出向いて、樹とリッカの親猫を探したものの、一度も見かけることはなかった。樹は、見つけたら母親も飼うつもりだった。絶対一緒がいいはずだからと必死で探す樹の姿を、ユキナは今でも覚えている。
親猫は何か事情があって戻ってこられなかったのかもしれないし、完全に育児を放棄したのかもしれない。
真相は誰にもわからない。
「よく、たつとリッカと一緒に眠ったね」
ユキナは喉を鳴らすリッカに話しかけた。
拾ってきてからは何度も、ユキナと樹の間で眠るリッカを、二人で抱くようにして眠った。
そんな時、二人はいつも手を繋いでいた。
「悪い、親父から電話きてて」
部屋に入ってきた樹は、ユキナの座るテーブルに、麦茶の入ったグラスを置いた。
「ふーん。お父さん、なんて?」
「なんか親父の会社でペット用品のラインも新たに追加されることになったらしい。んで、明日モニターとしてリッカを会社に連れて行くけどいいかって」
樹の父は、大手日用品メーカーの商品開発部の部長をしている。
「リッカに余計なストレスかけるなよ、って言っといた」
「リッカ連れてどんなことするの?」
「ペットのケア用品を企画してて、とりあえずプロトタイプの使用感とか、ディテール詰めたいんだと」
「へえ。よくわかんないけど、お父さん、リッカと一緒に出社するのなんか可愛い」
ユキナはにんまりと笑う。
「負担ないよう気をつけるって言うから、許可した。会議終わったらすぐ家に戻しにくるらしいし」
「お父さん優しいねー。良かったねリッカ」
ユキナはリッカの首元を指先でくすぐるように撫でた。
「リッカは親父にかなり懐いてるからな。意外と溺愛してるぞ。心配だから会議は少人数でやるってよ」
樹はリッカを抱き上げた。
「知らねえ奴らにこねくり回されたら嫌だもんな、リッカ」
「そういえば、どうしてリッカって名前にしたの?」
ユキナはふと、名前の由来を聞いていなかったことに気づいた。名付け親は樹だった。
「忘れた。多分、なんとなく」
少し間を開けて樹は答えた。
「ふーん。可愛い響きだもんね」
「さ、やるぞ」
樹は数学の教科書を開いた。
「まずは壊滅的な数学からだな。どこがわかんねーの?」
「……どこがわかんないのかが、わかんない」
樹はユキナの言葉に絶句する。
「やべ、頭痛くなってきた」
そう言いつつも、結局、樹はユキナがわかるまで丁寧にじっくりと教えてくれた。
変わってしまった部分にばかり目を奪われて、彼の成長の痕跡に戸惑いを覚えつつも、一緒に過ごすこのひとときには、過去と地続きの温度がまだ残っているように思えた。




