第4章
光樹は樹の4歳年上の兄で、サヤカはユキナより3歳年上だった。
樹が6歳のとき、彼の母親は突然帰ってこなくなり、その後、両親は離婚した。それ以来、樹たちは一度も母親と会っていない。
そうした事情もあって、大杉兄弟は自分たちの家よりも、和久井家で過ごす時間のほうがはるかに長かった。
年の近い光樹とサヤカ、同い年の樹とユキナという組み合わせで、遊ぶときも出かけるときも、気づけば自然とペアが固定されていた。
ユキナが小学6年生の頃、当時中学3年生だったサヤカは、ひとつ上の高校1年生になっていた光樹と、いつの間にか付き合い始めていた。
それはまるで、最初からそうなることが決まっていたかのような、ごく自然な流れだった。
光樹は高校を卒業すると、すぐに地元の建築系の工務店に就職した。
サヤカはその一年後に美容系の専門学校へ進学し、今年からはデパート勤めになった。
社会人になった今でも、ふたりは毎朝同じ時間に家を出て、同じ電車に乗り、同じように通勤を続けている。
ユキナは、自分と樹もきっと同じ道を歩むのだろうと、疑いもなく思っていた。
そして、樹もまた同じように思っているのだと――そう信じ込んでいた。
だが中学に入ると、樹は同じサッカー部の友達とばかりつるむようになった。その頃から、ふたりは自然と疎遠になり、クラスも三年間、一度も同じになることはなかった。
家の前で偶然顔を合わせたときや、母に頼まれて樹の家に何かを届けたときに、少し言葉を交わす程度。会う機会自体が、目に見えて減っていった。
それでもなぜかユキナは、いつか自分と樹は、光樹とサヤカのような関係になるのだと、漠然と、しかし確信に近い感覚で思い続けていた。
ユキナは、尻尾を振って喜ぶジョンにハーネスを装着しながら、中学2年生の修学旅行のことを、ぼんやりと思い出していた。
行き先は京都だった。
当時2年5組だったユキナは、同じ班の友達と決めたコースを回っていた。清水寺に来たとき、樹のいた8組の5班と、ばったり遭遇した。
ユキナと同じ班だった奈々は、樹の班にいる琥太郎とすでに両思いで、交際間近だと噂されていた。
偶然顔を合わせた彼らは、流れで班行動を抜け、二人きりでどこかへ行ってしまった。
その場に残された六人は、たまたま顔なじみで気の合うメンバーだったこともあり、一緒に回ろうという話になった。
そのとき、樹が言った。
「俺、ユキと回るわ」
ユキナもそうしたいと思っていたし、樹ならそう言い出すだろうとも思っていた。
言葉にしなくても通じ合っている、その感覚が久しぶりで、胸の奥がふっと温かくなった。
他のメンバーも快く了承し、ふたりで回ることになった。
「ユキ、もう全部見て回った?」
樹が尋ねた。
「一応、ほとんど見たは見たんだけど。みんなあんま興味なくて、立ち止まったりはしないから、ゆっくり見れてないの。なんかもったいないなって思ってたとこ」
「だよな。俺のとこもそんな感じ。まだ結構時間あるし、もっかい見直さねえ?」
その提案に、ユキナはすぐに笑顔で答えた。
「見る!見たい!」
周辺をじっくりと見て回ったあと、樹がぽつりと言った。
「やっぱユキといるのが一番だな。ペースも見たいもんも同じで楽」
その言葉を聞いた瞬間、胸が高鳴り、足取りが軽くなった。
最近、樹が遠い存在になってしまったように感じていた。その分、寂しさも募っていた。
けれど、こうして並んで歩き、言葉を交わしてみると、何も変わっていないように思えた。
「そーだね、私もそう思う」
「そういや、明日の自由行動どうすんの?」
ふと、樹が話題を変えた。
「りっちゃん達と水族館行こうかって話してたけど、私は祇園も行きたくて、単独で別行動しようか迷ってたの」
「サッカー部のやつらと行動する予定だったけど、俺も祇園にしようかな」
「そうなの? じゃあ一緒に行こうよ。街並みも見て回りたいなって思ってたから」
二人で見た花見小路の街並みが美しかったこと。
抹茶わらび餅が驚くほど美味しかったこと。
何をしても、ただ一緒にいるだけで楽しかったこと。
ユキナの頭の中には、当時の景色が、今もなお鮮明に蘇っていた。
その翌日の最終日の自由行動は、互いに予定通り友達と回った。
そして帰宅した日の夜、久しぶりに樹がユキナの家を訪ねてきた。
樹は一階にいたユキナの家族にお土産を渡し、そのまま二階へ上がり、ユキナの部屋に入ってくる。
「ユキ、これやる。お土産。」
そう言って、小さな包みを差し出した。
「えー?私も行ったのに?」
クスクス笑いながら包みを開けると、そこには当時流行っていた『ご当地クマさん』のスマホケースが入っていた。
「あー!新選組クマさん!これどこのお店行っても売り切れで諦めてたの!」
可愛らしいクマのキャラクターが、47都道府県それぞれをイメージしたイラストで描かれた、ご当地グッズのスマホケースだった。
全国の土産物店で地域限定デザインとして販売され、人気アイドルが所持していたことで話題になり、当時は各地で品薄状態が続いていた。
「帰る前にたまたま寄った駅の売店にあったから。ついでに俺も買った」
樹はニッと笑い、自分のスマホケースを見せた。ユキナのものとは色違いで、同じく袴を着た新選組クマさんが描かれている。
この頃の樹は、今よりもずっと愛想が良くて、可愛げもあったな、とユキナは思った。
「可愛いー!ありがとう!」
ユキナは思わず樹に抱きついた。昔から、テンションが上がると、つい人に抱きついてしまう癖があった。
早速スマホに新しいケースを付け替えながら、何気なく口にする。
「そーいえばさぁ、奈々と琥太郎君あのあと付き合う事になったらしいねー」
「ふーん。じゃ、俺もう帰るな」
その夜のことを思い出しながら、ユキナはジョンの散歩をして、ため息をついた。
――たつと、何も気にせずに仲良くできたのは、あの修学旅行が最後だったな。
周囲の生徒たちが、修学旅行でのふたりの様子を見て、噂をするようになった。
樹と一緒にいるだけで、関係を問い詰められる。そのことが、次第に耐えがたい窮屈さへと変わっていった。
そのせいで、ただでさえ会話の機会が減っていたふたりのあいだに、さらに距離が生まれた。ユキナはそんな気がしていた。
高校が偶然同じになってからは、同じ時間に、同じ方向の電車に乗るため、また自然と一緒に登校するようになった。
周囲も中学の頃ほど子供ではなく、騒がれることも少ない。
たまに付き合っているのかと聞かれることはあっても、幼馴染だと答えれば、それ以上踏み込まれることはなかった。随分と楽になったと思う。
それでも、確実に前と同じではなかった。
今の樹は、受け答えも素っ気なく、愛想も悪い。
「お前」と呼ばれるばかりで、何年もまともに名前を呼ばれていないことに、ユキナは気づいていた。
サヤカの言いつけ通り、ジョンの散歩と家事を済ませ、ついでに自分の部屋の掃除をする。
開け放した窓の真正面には、隣家である樹の部屋の窓があった。
ハンディモップで窓の桟を掃除していると、ちょうど向かいのカーテンが開いた。
樹と目が合う。
彼は口に咥えていた、まだ火のついていない煙草を、慌てて隠した。
樹が窓を開ける。
朝の風がカーテンの裾を揺らし、ガラス一枚分の距離が、ふっと近づく。
「おす」
「おはよ。バレてるけど」
樹は火のついていない煙草をポケットにねじ込んだ。
「うるせーな、未遂だからいいだろ。つーか今日はお前一人なんだってな。光樹からきいた」
「そう。みんな不在だから、お昼ご飯何にしようか悩んでるとこ」
向かい合う窓のあいだで、朝の光が跳ねた。
「お前が作るの?」
「高校生なんだからお昼ぐらい自分で用意しろってサヤに言われた」
「まーな、そらそうだ」
樹は口の端だけで笑った。
「たつは? お昼どうするの?」
「適当に作るつもりだけど」
「何作るの?」
「んーまだ決めてねえけど、昨日のシチュー少し余ってるから、グラタンにすっかな」
グラタン。その言葉だけで、胃が動くような感覚がした。
「えーずるい、そんなおしゃれランチ! 私はそんなハイレベルなもの作れないし、面倒くさいからお茶漬けにしとこ」
「食いに来るか? お前の分くらいなら作れる量あるぞ」
誘われた瞬間、ユキナの体が、ほんの少しだけ前に出た。
「えっ本当? やった――あ、いや、やっぱやめとこ」
「どっちだよ」
「ワタクシ高校生にもなりましたので、自分で作ります。……お茶漬けとか言ってないで、私も料理してみようかなあ」
「ほう。お前にしちゃ良い心がけだな」
余裕ぶった笑みが、ユキナの勘に触った。
「えっらそうに」
「キッチン爆発させんなよ」
「……させないし!」
ムキになるユキナを見て、樹は笑った。
時刻は、まだ朝の八時を少し過ぎたばかりだった。
いつの間にかヒヨドリが鳴き始め、風が遠くの車の音を運んでくる。
ジョギングする人の足音が、まだ眠たげな道路に、軽やかに響いていた。
まるで街全体が、少し遅れて朝に気づき、慌てて日常を始めたかのようだった。
その中で、自分はもう昼食のことを考えている。
その小さな優越感と、樹とのたわいもない会話に、心が満たされていく。
たまには、早起きも悪くない。
ユキナは、そう思った。




