第23章
駅ビルの吹き抜けに、人の往来の熱気が渦を巻いていた。夕方のチャイムが耳の奥で反響している。
母の真子が残業で帰りが遅くなる――それは朝のうちに知らされていた。
「外で食べて帰ろうかな」
いつもの駅でユキナがぽつりと口にしたのも、半ば独り言に近かった。
「じゃ、俺も食ってこ」
これだけ辺りが騒々しくても、樹はユキナの呟きをしっかりと拾っていたらしい。彼はそれだけ言って、腕のスマートウォッチを見る。
16時半。夕食にはまだ早い時間だった。
「このスニーカー、靴底劣化してんだよな」
時間があるうちに買い替えるつもりなのだと、言葉を最後まで聞かずともユキナはすぐにわかった。
「いいよ」
ユキナが一言返すや否や、二人の足はスポーツショップに向いた。
エスカレーターを降りると、ゴムの匂いと新品の布地の乾いた香りがいっぺんに押し寄せる。
樹は棚をひと通り眺めたあと、黒いローカットのスニーカーを手に取った。
鏡の前で紐を締め、軽く屈伸して床を踏む。
ユキナは横からそんな彼の足元を覗き込んで、頷いた。
会計を済ませた後、樹は新しい靴に履き替えて店を出た。
まだ時間があったので、そのまま館内をぶらついた。
雑貨屋を冷やかし、並んだボールペンのインクを試したり、猫耳のカチューシャを樹に試着させて写真を撮ってみたりもした。
「きゃはは! 化け猫!」
樹は近くの鏡に目をやり、手を叩いて笑うユキナを横目に、無表情のまま言った。
「愛くるしいだろうが」
気づけば18時。ビルの端、通路の角にある、スパイスの香りを漂わせるカレー屋に入った。
案内された二人掛けのテーブル席に座り、注文を済ませてから、会話は始まった。
「私、写真部に入ることにしたから、一緒に帰れない日が多くなる。まあ、たつもバイト多いから最近あんまり一緒に帰ってなかったけどね」
スマホに向けられていた樹の視線が、ゆっくりユキナに移る。
「……写真部?」
「うん。今日入部届け出したんだ」
汗をかいたグラスの水面が揺れる。店内スピーカーから小さく流れるポップスが、ちょうどBメロに差しかかった。
「は? なんで?」
「写真っていいなって思って」
「お前、スマホでしか撮ったことねえだろ」
ユキナは身を乗り出す。
「あのね、この前初めてフィルムカメラで撮らせてもらったの。写真って奥が深いんだよ」
給仕が置いていった皿から、スパイスの香りが立ち上る。銀色のスプーンにランプの光が跳ねた。
「どうせ続かねえだろ。お前、ピアノも習字も、そろばんもすぐ辞めたろ」
「はあ? いつの話してんの。それ小学生でしょ」
樹はルーをひとすくいし、口に運ぶ前に問いを重ねる。
「で、誰に誘われたんだよ」
ユキナが突発的に行動する時は、大抵誰かに誘われてその気になった時だった。
「別に誰にも誘われてないよ。……あ、結構辛い」
「じゃあなんで急に……」
「だから、写真に興味が湧いたの」
ユキナはナプキンで口元のルーを軽く拭い、ひと呼吸置いて続ける。窓の外で、駅のアナウンスがかすかに重なった。
「部員、何人いんの」
「3年生が四人――らしい。でも活動してるのは、その中の一人だけなの」
樹の手が一瞬止まる。顔を上げないままユキナを見て、すぐ皿に戻した。
考え事をする時、スプーンの先でサクサクと押しつぶす癖が出る。
「……東和人?」
以前ユキナのスマホで見た名前が、不意に口をついた。
「え、そう。たつ和人のこと知ってるの?」
「……名前知ってるだけ。つーかお前……下の名前で呼ぶような親しい3年いたっけ」
ユキナは水をひと口飲み、氷がグラスの中で鳴る。熱を帯びた舌がひんやりと気持ち良かった。
「この前知り合って、仲良くなったんだ。その人が、古いカメラで写真撮らせてくれて、それがすっごく楽しくて!」
樹は眉をわずかに寄せる。靴の箱の角が、紙袋越しに足に当たった。
「知り合った?」
「色々あって話すようになったって感じ」
また一口、ユキナは水を口に運ぶ。口の中がヒリヒリと痛む。
「じゃ、写真部入ったらそいつと二人だけで活動すんの?」
「うん。まだ何もわからないからカメラの使い方から教えてもらうんだ」
ルーの表面に照明がきらりと走る。樹はスプーンを皿に置き、短く吐き出すように言う。
「どうせ続かねえしやめとけよ」
「なんとでも言ってよ。今に絶対良い写真撮ってやるんだから、見てなさい」
「あ、そ」
その短い相槌は、湯気の向こうで冷えて聞こえた。ユキナはスプーンの跡がついたルーをそっとならした。
「ん」
ふいに、樹は自分のカレー皿を差し出した。
「え、いいの?」
ユキナは樹の意図を瞬時に理解し、聞いた。
「お前辛さ5にしたから俺3にしといたんだよ、そうなると思ったから」
樹はオーダーの時点でおおかた予想していたこともあり、普段より水をよく飲むユキナの様子を見てすぐに、5は彼女には辛すぎたとわかった。
「わー助かった! 食べきれないかと思ったー」
ユキナは自分の皿を樹に渡し、差し出された皿を自身の方へ引き寄せた。
「あ。ちょうどいい」
一口食べたユキナの表情はパッと明るくなった。
樹は、ユキナが先ほどよりハイペースにカレーを頬張る姿を見つめた。
店内のざわめきが二人の間に流れ込み、窓外を人の群れが絶え間なく行き交っていた。
テーブルの下では、紙袋に収まった古い靴が黙って座り、今日の小さな変化を静かに抱えていた。




