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第21章

 和人はユキナの手からカメラを受け取り、慣れた手つきで巻き戻しクランクを起こした。


「どんな風に撮れたかすぐわからないのって、なんだかドキドキする」


「ネガになっちゃうけど、現像の作業だけなら今できるよ。30分くらい」


「見てみたい!」


 目を輝かせて即答したユキナの笑顔に、和人の表情は綻んだ。


「乾燥させる時間が必要だから、プリントはまた後日になるけど。ネガでも雰囲気はわかるよ」


 奥の扉を開けると、赤い安全灯に照らされた空間が現れる。湿気と薬品の匂いがまとわりつき、外とは異なる時間が流れているようだった。


「わあ……真っ暗。お化け屋敷みたい」


 思わずこぼしたユキナの素直な感想に、和人は笑った。


「ユキナの反応、いちいち可愛いな」


 ふわりとほどけたその笑顔に、胸の奥が落ち着かなかった。視線を逸らしても、その表情が残像のように離れず、耳が熱くなった。


「簡単に言うと、必要な光だけで像を作るから、途中で余計な光が入ると、全部に反応してダメになるんだ。だから暗い場所で作業する必要がある」


「なるほど」


「暗室がある高校って結構レアなんだ。カラー現像までできる環境って、今は全国でもほとんどないんじゃないかな」


「わかんないけど、それってかなりすごいことだよね?」


「うん。設備も薬品も管理が大変だからね。この整った環境は昔の名残なんだ。10年くらい前まではかなり活発だったらしくて」


「すごい。機材も道具も本格派なんだね」


「うん。でも今の顧問はただの無責任なじいちゃんで、カメラや写真については無知なんだ。興味もないから、かなり放任」


「先生、誰?」


神田(かんだ)


「あ、現国の教科担任。確かに無責任なじいちゃんだ」


 ユキナはクスクスと笑った。


「だろ。普通は生徒だけで、こんな薬液とかいじらせない。まあ、そのお陰で自由にやれてんだけどね」


 和人は話しながら棚にある黒い筒と薬液のボトルを三本取り出し、近くの保温ポットからステンレスのトレーに湯を注いだ。


「よし。じゃあ、現像やってみようか」


 ボトルのラベルには、それぞれ手書きで薬液の名前が記されていた。


 それぞれをビーカーに注ぎ、ステンレストレーの湯に浸す。温度計の針の動きをじっと見守るユキナの横顔に、赤い灯が反射している。


「0.3度ずれるだけで発色が変わるんだ」


「えっ。そんな繊細な世界なの……」


 ユキナは息をのんだ。


「でも手間かけた分、仕上がりは裏切らない」


 和人は温度を計っている針が適温で安定したのを確認すると、そのトレーのお湯に、先ほどのビーカーを並べた。お湯はビーカーの半分ほどの水位で、しっかりと浸った。


「こうして薬液の温度を安定させておくんだ」


 和人は言った。


 手元の筒のフタを開けた。中には、淡いグレーのらせん状のプラスチックリールが収まっている。


「この筒が現像タンク。この中に、あとから今温めている液体を流し込んで現像するから、フィルムが重ならないように、まずは中に入っているリールに均等に巻く必要があるんだ。……この作業だけは、真っ暗じゃないとできない」


 そう言うと、部屋の赤いランプが落とされ、完全な闇が訪れた。


 ユキナの視界がゼロになる。わずかに聞こえるのは、和人の指先が器具に触れるかすかな音だけ。


「何やってるか見えないと思うけど、この作業終わったら明かりつけられるから」


「うん」


 和人はフィルムの端を慎重にリールへ巻きつけていった。

 すべて巻き付け終わると、リールごと現像タンクに戻し、しっかりとフタを閉めた。


 ユキナの目は、だんだん暗闇に慣れてきた。

 細部までは確認できないものの、手の動きはなんとなく見える。


「このタンクに入れることで、光を遮れる」


 和人がそばのスイッチに触れると、黒く細いアームの先で、小さな電球がひとつ灯った。頼りない光が、机の上の手元だけを静かに浮かび上がらせる。


「で、この三つを順番に使う。時間もきっちり測るんだ。けっこう気むずかしい作業なんだよ」


 和人は最初の薬液を、先ほどのリールが入ったタンクの注ぎ口に注入した。

 そばにあったストップウォッチを押すと、タンクを両手でゆっくり傾けて撹拌かくはんを始めた。

 時折、軽く机に打ちつけるようにして気泡を逃がす。


 一定のリズムで左右に動かすその動作は、呼吸のように静かだった。


 無駄のない動作と集中が、彼の写真への真剣さを物語っているように思えた。


「今時カラー現像やる人なんて少ないけど、この作業全部が写真って感じで、俺は好き」


 その一言に重なるように、和人の眼差しは澄んでいた。ユキナはその眼差しに、言葉以上の強さを感じ取り、目を離すことができなかった。


 薄暗くてよかった、とユキナは思った。


 彼は薬液を順に注ぎ入れ、ゆっくり揺らしながら液体を静かに行き渡らせた。薄明かりの下で静かに流れる時間が、フィルムの中に像を刻んでいく。


 最後の水洗いを終えると、和人はタンクの蓋を開け、リールをそっと引き上げた。


 その瞬間、ユキナは思わず声をあげた。


「わ、出てきた」


「乾かさないとプリントはできないけど、これがネガ」


 濡れた帯に小さな像が連なり、ユキナの目に反転したオレンジの世界が映り込む。

 光を透かして吊るされたネガには、見覚えのある景色が淡く刻まれていた。


 ユキナはそれを、息を詰めるようにして見上げていた。


 透明だったフィルムに、いつの間にか像が宿っている。


 ほんのわずかな温度の違いや、時間のずれで変わってしまう、そのすべてを、和人は迷いなく扱っていた。


 ただシャッターを切っただけの、その先を、彼が形にしてくれた。


「乾くの時間かかるから、それ以降の作業は明日になるけど、スキャンすれば画面で見られるし、プリントできるよ」


「楽しみ……!」


 ユキナはしばらく視線を外さずにいた。胸の奥に広がる感覚はまだ形を持たず、ただ静かに、波紋を広げていた。

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