第19章
外灯に照らされた通りを、和人は足早に歩いていた。
店の戸を開けると、小さなウィンドチャイムがカランと鳴った。
店内の柔らかな灯りが、外の暗がりを押し返すように広がった。
「いらっしゃいま――……和人。どうした、今日は出番じゃないよな」
カウンター奥の作業台から顔を出した年配男性は、白髪混じりの短髪に、鼻先にかかった眼鏡と作業用のエプロンを身につけていた。彼は、和人のバイト先であるこの峰写真館の主人、峰幸太郎だった。
「うん。幸太郎さんにちょっと頼みがあって」
和人は肩に下げていたカメラを示した。
「今日、沈む前にギリギリ撮れたやつ。学校の暗室だと間に合わなかったから、現像だけやらせてほしいんだけど……」
幸太郎は和人の持つカメラを見て、すぐに頷いた。
「おお。いいぞ、今タンク入れてやる。回すのはやれよ」
幸太郎には、一連の工程を体に染み込ませた者特有の、独特の落ち着きがあった。
「上がったらスキャンまでやるんだろ?」
「うん」
「ちょっと待ってろ」
奥に下がった幸太郎に代わり、妻の由美子が、湯気の立つマグを手に現れた。
「あの人が準備してる間に、どうぞ」
「由美子さん。忙しいところすみません」
幸太郎がフィルムの処理に入りながら、ぼそっと言った。
「撮ったやつ、そんなに良かったのか」
「……うん。現像、今日じゃなきゃ駄目な気がした」
「そうか。じゃあ、ちゃんと仕上げないとな」
「ありがとうございます」
紅茶を一口含むと、アールグレイのベルガモットがやわらかく鼻を抜け、意識が静かに一点へとまとまっていく。
* * *
和人と別れて数時間後、ユキナが風呂場から部屋に戻ったタイミングで、彼からメッセージが届いた。
『今日は会えてよかった』
シンプルだけど、飾らないストレートな言葉選び。紛れもなく今日のあの人だ、と自然に笑みが溢れる。
『こちらこそ!
元気出たよ
ありがとう』
そう打ってから、少し迷って、笑顔の絵文字を文末につけた。
送信したと同時に、階下からジョンの吠える声がした。ジョンは大好きな樹が来ると、よく興奮して吠えてしまうため、彼の来訪はすぐにわかる。
間もなくして部屋のドアがノックされる。
「入るぞ」
「はーい」
ユキナは、ベッドの上で、スマホを見たまま返事をした。
ドアが音を立てて開かれた。
「あ、お前スマホいじってんなら返信しろよ」
「は?」
「は、じゃねえよ。メッセージ送ったろ」
「え、うそ」
ユキナはトーク画面を開いた。
「あれ、本当だ。今、他の人とやり取りしてたのに、通知全然気づかなかった」
「えっと……『地理の教科書借りパクすんな』――げ! ごめん、忘れてた!」
慌てて机に駆け寄るユキナを見て、樹はため息をついた。
「てか、たつに教科書借りたの昨日の3時間目だけど、今日は大丈夫だった?」
「ああ、今日は地理なかったから。でも明日1時間目に使うから、さっさと返せよ」
樹は、ベッドに腰掛けた。
「お前起きんのギリギリだから、朝バタつくの面倒くせえし、取りに来た」
「ごめんごめん、どこやったかな」
ユキナは勉強机に無造作に置かれた教科書の山から探し始めた。
「失くしたとか言うなよ」
樹はベッド横のローテーブルの前に移り、ついていたテレビをぼんやり眺めていた。
通知音がした。テーブルのユキナのスマホ画面に、メッセージが表示されていた。
『また今度ゆっくり話そうな』
続いて二通目を受信した。
『今日一緒に帰った時に
撮った写真』
画像が添付されたと通知が出る。
樹は送信者の「東和人」の文字に眉をひそめた。
「あったあった。ほら」
ユキナは笑顔で教科書を見せた。
「お前……今日盛岡とかと会ってたんだろ?」
「あー。えっとね、あれから都合悪くなって――予定キャンセルになったの」
目は合わなかった。
「……ふーん」
樹はスウェットのポケットからタバコを出し、咥えた。
「あ、もー。ダメだってば」
ユキナが樹の口元からタバコを取り上げた瞬間、反射的に樹が手を伸ばす。それから逃れようとしたユキナは、バランスを崩した。
「わっ……」
背中から、座っている樹の胸へ倒れ込む。受け止めようとした腕に絡め取られるようにして、ユキナの身体はその内側に収まった。
気づけば、後ろから抱き寄せられているような体勢になっていた。
「……びっくりした」
ユキナは身を離そうとしたが、彼女を支えていた樹の腕が、まるで逃がすまいとするように、ユキナの腹部にまわって引き寄せていた。
「たつ。もう、大丈夫だよ」
ユキナが言うと、樹は彼女の背中に、自分の頭をもたれかけた。
「たつ? ……どうしたの?」
彼の意図が組めず、ユキナは戸惑った。
「離して」
「やだ」
樹の低い声が、ユキナの背に響いて伝わる。
「やだって……小学生? ふざけないでってば」
ユキナは呆れた声で言った。
「……お前さあ」
「何?」
樹はしばらく沈黙し、口を開く。
「何でもねえよ、バーカ」
「はあ、何? マジ小学生」
樹は灰皿とタバコの箱をスウェットのポケットに入れ、立ち上がった。
呆れた表情のまま樹を見上げているユキナの額に、樹はデコピンをした。
「いたっ!」
ユキナは、顔をしかめながら額を抑えた。
「ねえ! たつのそれ、超痛いんだからね」
樹は、怒るユキナの目の前まで顔を近づけてきた。
「……何なの?」
予測不能な彼の行動に、ユキナはたじろいだ。
黙って見つめる彼はいつもの無表情だったが、その瞳の奥には、また新月の海が広がっていた。
「じゃー、な!」
樹はユキナの耳元で、わざとらしく大声を出した。
「うるさ」
ユキナは顔をしかめ、耳を塞ぐ。
樹は教科書を手に、そのまま部屋を出ていった。
「何イラついてんの……変なやつ」
閉まったドアを見つめたまま、ユキナは小さく呟く。
胸に引っかかるものを覚えながら、カーテンの隙間から樹の部屋を覗いた。
戻ってきたらしい彼の影が、ぼんやりと横切る。
ため息をつき、ベッドに腰を下ろす。
何気なくテーブルの上のスマホを手に取ると、通知が一件届いていた。
添えられた空の写真を開いた瞬間、ユキナの胸が高鳴った。
『和人の撮る写真好き
また遊びに行ってもいい?』
送信して間もなく、返信が届く。
『もちろん
いつでも』
その言葉に、自然と笑みがこぼれる。
『ありがとう
明日でもいいかな』
今度も、間を置かずに返ってきた。
『待ってる』
そのメッセージを読みながら、ユキナは彼の柔らかい笑顔を思い出した。
なんでもないのに、気づけば心に残って、ふと思い出すたびに救われる。
あの日のラクガキと同じ。
そんな笑い方をする人だと思った。




