第16章
眠っているユキナにキスをした日から、唇の感触が消えなかった。
やはり自分は、ユキナを恋愛対象として見ているのだ、と樹は思った。
同時に、あそこに寝ていたのが、例えば紗江だったとしても、自分は同じ行動をとったのだろうか、という考えも芽生えた。
眠気を誘うためにあるかのような古典の授業を受けながら、樹は進歩のない自分の悩みに鬱々としていた。
衝動的にキスをしてしまった浅はかな自分に、嫌気がさす。
夜毎想像の中のユキナを思いのままにしていることさえ、この数年の間、彼を罪悪感で苦しめてきた。
帰りのホームルームが終わり、廊下に出ると、紗江がニコニコと微笑んで立っていた。
「俺?」
紗江は小さく頷き、変わらず明るい笑みを浮かべている。
「大杉くんにお礼がしたくて、待ってたんだ」
「え?」
思いがけない言葉に、樹は聞き返した。
「メッセージで、バイトも用事もないって言ってたでしょ? だから、勉強たくさん教えてくれたお礼に、放課後なんかご馳走しようと思って」
「いいよ、そんなん。俺も復習になったし」
肩をすくめて軽く断る。
「本当に感謝してるの。私の気が済まないから、奢らせて」
紗江は一歩身を乗り出すようにして言った。
「……じゃあ。お願いします」
少しだけ間を置いて、樹は観念したように頷いた。
「行きたいお店とか、食べたいものとか、何でも言って」
弾む声で紗江が言う。
「コーヒー」
樹は即答した。
「それだけ……?」
紗江は目を丸くする。
拍子抜けしたように言う紗江が可愛らしくて、樹は思わず笑みをこぼした。
その優しさの滲んだ笑顔に、紗江の瞳が恍惚と輝いていたが、樹は気づかなかった。
「や、マジで俺コーヒー好きなんだよ」
「ならいっか。どっかカフェに行って、メニュー見てからもう一回ちゃんと考えてね?」
くすっと笑いながら紗江が言う。
「了解」
* * *
同じころ、ユキナは樹のクラスへ向かっていた。樹のクラスの前まで来たとき、樹と紗江が楽しそうに話しているのが目に入った。
――最近、仲良いな。
親友の恋が順調なことを、こんなにも沈んだ気持ちで傍観している自分に、言いようのない罪悪感を抱いた。
声をかけようか迷い、立ち止まっていたユキナに、先に気づいたのは紗江の方だった。
「ユキナー!」
紗江はぱっと顔を輝かせ、こちらへ手を振ってきた。
「紗江」
無理やり取り繕った笑顔で、ユキナは今気づいたかのように手を振り返す。
「大杉くんに、勉強見てくれたお礼に、これから何かご馳走するって話してたの。
駅前のカフェにしようかなって。ユキナにも図書室付き合ってくれたお礼したいし、一緒に行こ?」
紗江は当然のように誘った。
「紗江ごめん! 今日ね、中学の友達と約束してて。放課後待ち合わせして、みんなで遊ぶことになってるんだ」
咄嗟に作り話が滑らかに口から溢れる自分に驚きながら、ユキナは表情筋に力を入れた。
「盛岡達?」
不意に樹が口を挟む。
「……あ、うん」
思いがけない質問に、ユキナは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「久々だな。よろしく言っといて」
樹は特に疑う様子もなく言う。
「うん。二人とも楽しんで」
そう言って、ユキナは小さく手を振った。
二人と別れてから、ユキナはため息をついた。
思いがけず、樹の口から共通の友人の名が出た。それを肯定してしまい、嘘に嘘を重ねる形になってしまった。
せっかく誘ってくれた紗江に対して、不誠実な行いをしてしまったことを申し訳なく思う。
それでも、今あの二人と一緒にいるのは無理だった。
ユキナの足は、再び理科室へ向いていた。
理科室の前で立ち止まり、ユキナは一度深呼吸をしてからドアに手をかけた。
いつもの席に視線を送ると、そこにいたのは一人の男子生徒だった。
胸の奥が波打つ。
実験用の机に腕を投げ出し、伏せた顔は見えない。
眠っているようだった。
物音を立てないよう、ゆっくりと近づく。
彼の前の席の椅子に、そっと腰を下ろした。
西日に透ける薄茶色の細い髪が、半分開いた窓から吹き込む風に静かに揺れている。
半袖のシャツから伸びた腕は、陶器のように白く澄んでいた。
――もしかして、この人……。
ラクガキから想像していた人物像とは、少し違っていた。
ユキナは、男子生徒の伏せている実験台の向かい側に頬杖をつき、眠る彼の頭を見つめる。
――髪の毛、サラサラ。
あ、つむじが二つある。
長くて綺麗な指だなあ。
一見して華奢な印象だったが、肩幅は思いのほか広く、骨格はしっかりしていた。
シャツの布越しにも、ただ細いだけではない、余分なものを削ぎ落としたような引き締まった輪郭が感じられる。
これまでのラクガキに綴られていた字は、整っていて力強く、ところどころに冗談めいた言葉が混じっていた。
ユキナは自然と、快活で勇ましい人物を想像していた。
けれど、目の前で眠るこの人は、どこか中性的で、静けさをまとっている。
髪の隙間からのぞくうなじの線。
風に揺れる髪の柔らかさ。
伏せたままの長いまつげ。
名前も知らないはずなのに、目が離せなかった。
ふと、目の前で彼の頭が揺れた。
気怠そうに顔を上げた彼は、視界に入ったユキナの存在に気づいた途端、肩をびくりと跳ねさせる。
彼の驚いたような瞳がこちらに向けられ、真正面から視線がぶつかった。




