第15章
ユキナが目を開けたとき、樹はベッドの脇に座り込み、枕元に頬杖をついてユキナを眺めていた。
目が合うなり、樹が言った。
「やっとお目覚めですか、白雪姫」
樹が言うと、ユキナは寝ぼけた様子で言った。
「たつ……?」
「時計見てみろよ」
その樹の言葉に、ユキナの目は見開かれた。
慌てて起き上がり、時計を見ると、7時50分を過ぎたところだった。
いつもの電車はもう出ている。次のは、8時発。家から駅まで徒歩5分――乗車してから学校の最寄駅までは30分かかる。絶望的だった。
「たつ、そんなところでぼんやりしてないで、起こしてよー!!」
樹の肩をバシバシ叩く。
「てか、ママは?」
「とっくに仕事行った。お前全く起きなくて無理だったんだよ。とりあえずさっさと支度しろ。時間割揃えてあんのか?」
「ない!!」
「じゃあ、俺やっとくから下で準備してこい」
ユキナはバタバタと階段を降りていった。
机の脇の壁に貼られた時間割表を見ながら、机の本棚にある教科書を通学用のリュックに入れ、彼女がいつもカバンに入れている化粧ポーチと、ベッドに放り投げてあったスマホも入れた。
そのリュックを持ち、階下へ降りて行き、慌ただしく準備するユキナに声をかけた。
「準備できたか」
「うん。化粧は学校でするから――あっ、ポーチ……」
「ピンクのポーチだろ、入れた。俺チャリ出して来る。出るとき戸締まりちゃんとしろよ」
「え? 自転車で行くの?」
「電車待ってたら遅刻する。お前スカートの下にジャージ履いとけ」
そう言って、樹は先に家を出た。
ユキナは言われた通り、スカートの下に体育着のハーフパンツを履いた。
「お待たせ」
「鍵、閉めたか?」
「閉めた」
「じゃ、後ろ乗れ」
荷台のない自転車の後ろで、ユキナはタイヤのフレームに足をかけて立った。頼れるのは彼の背中だけだった。
樹はユキナが乗ったことを確認する。
「落ちんなよ」
彼は肩にそっと添えられたユキナの手をぐいっと引っ張り、しがみつかせる形で彼の首に腕を回させ、走り出した。
その速さに驚き、ユキナは必死で樹にしがみついた。
「たつ、ごめんね」
「あ? なんか言った?」
ユキナの言葉を、樹は大きな声で聞き返した。
車通りの激しい道路沿いでは、話し声はたちまちかき消されてしまう。
ユキナは、聴こえるようにと彼の耳元に口を寄せてもう一度言った。
「たつまで急がせちゃって、ごめんね」
樹は肩に押し付けられた柔らかい感触と、耳にかかる吐息に加え、先ほどの唇の感触を思い出してゾクッとした。
樹はそれを悟られないように、少し大きめの声で、ぶっきらぼうに言った。
「お前、なんであんな起きなかったんだよ」
「遅くまで、たつにもらった問題集やってたの。テスト期間じゃなくても勉強する習慣つけようと思って」
「生活に支障きたすぐらいやってた意味ねえだろ。お前は要領悪りぃんだよ」
「だからごめんてー!」
何度目かの信号待ちの時、樹は言った。
「足疲れねえ? お前サドル座れよ」
「いい。たつこそ疲れるでしょ。」
「いいから座れ」
「ありがとう」
ユキナは樹に支えられながら、サドルに移動し、彼の腰を掴む。
学校の近くの通りまで来ると、辺りに見慣れた制服が増え始めた。樹は左腕のスマートウォッチを見ながら言った。
「俺の脚力やばくね? いつもと同じぐらいの時間」
「すごいすごい! たつ神すぎるー! ありがとう!」
ユキナは感激して、ぎゅっと腰に抱きついた。
「……そろそろ歩くぞ。さすがに疲れた」
肩で息をする樹に、ユキナは頷く。
「私乗せてあの坂の多い道を全力でこいだら、そりゃ疲れるよね。たつ本当ありがとう」
樹は手を差し出した。
「ほら、早く降りろ」
「うん」
ユキナは樹の手を掴んでは見たものの、185センチある樹の自転車からは、地面に足がつかなかった。樹はそんなユキナをふわりと抱き上げ、下ろした。
「ありがと」
少し照れたように自分を見上げるユキナに、樹は自身の心の内を隠すかのように、話題を変えた。
「問題集」
「ん?」
「苦戦してたのか?」
「あ、うん。ガイド見ても数列のとこがよくわかんなくて」
「解決したのか」
「その問題はなんとか解けたけど、応用とかになったら無理」
「俺今日バイトねえから教えるか?」
「マジ! 助か――」
ユキナは言いかけて、ハッとした。
「あ、今日用事あるの忘れてた」
「じゃあ、わかんないとこあったら俺に連絡しろよ。一人で悩んで寝坊するくらいならな」
樹はそう言って、ユキナの額にデコピンをした。
「いった! ……はい、そうします」
いつもなら怒るユキナも、額を撫でながら、しおらしく頷いた。
* * *
ーー本当は、用事なんてない。
紗江の気持ちを考えると、ユキナは複雑な気持ちになった。
こうして樹と毎日登下校を共にしているのも、しょっちゅうお互いの家で勉強しているのも、紗江がいくら良いと言ったって、彼女の気持ちを知ってしまった以上、なんだか気が引けてしまう。
3時間目の理科の授業は、実験だった。
理科室の席に着くなり、あのラクガキを探した。
黒い天板の表面に残る線は薄く、光の角度でかろうじて読めた。
『表彰式、来てね』の下に、
『もちろん』の文字が足されていた。
ユキナはシャープペンシルを手に取った。
『あなたは呼吸、できてる?』
自分が書き足した文字をじっと見つめた。
ラクガキの相手の文字は整っていて芯があり、ユキナの丸みを帯びた癖字とは線の強さがまるで違った。
指先で机を軽くなぞりかけて、その手を止めた。
触れたらラクガキが消えてしまいそうな気がしたからだ。
理科室にはまだ実験の準備をする音が広がり始めたばかりだった。ユキナはペンケースと配られたプリントを、実験台の下の棚にしまった。
やってらんねえ、と投げやりな言葉を書いていたこの人は、今ちゃんと、自分で呼吸ができているのだろうかと、思いを馳せた。
顔も名前も、性別さえ知らない相手のことを、こんなに気になることは今までなかった。
今の時代、インターネットの中にそんな関係はありふれているのに、ユキナはこの文字から伝わる何かが、胸の奥へ、ゆっくり浸透していくのを感じた。
そのとき、ガチャリとガラスのぶつかる音がして、視界の端に金属のトレーが入り込んだ。
「ユキナ。ぼーっとしてないで手伝ってよ」
「サボり禁止ー」
クラスメイトの沙里と朱莉が言った。二人とは同じ実験グループだった。
「ほれほれ、これここ置くから、並べて」
沙里はビーカーと試験管立てを、ちょうどそのラクガキの上に置いた。
透明なガラスが机の表面を覆い、文字はほとんど見えなくなる。
「はーい、ママ」
ユキナはそう言うと、沙里に言われるがまま、数本の試験管を、試験管立てに並べた。
理科室の奥では、水道の蛇口がひねられる音と、アルコールランプの金具が触れ合う乾いた音が混ざっていた。




