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第14章

 空は、ぼやけた青と灰色の境目が曖昧で、まるでまどろむ誰かのまぶたの裏のようだった。


 電線にとまった鳥も、まだ目覚めきらないまま、じっとしている。

 遠くから新聞配達のバイクの音がして、それが消えると、また沈黙が戻ってくる。


 そんな眠たげな朝の気配の中で、樹はすでにキッチンに立っていた。


 父と兄と、男だけの三人家族。家事はすべて当番制で、今日の食事担当は樹だった。


 味噌汁の湯気が静かに立ちのぼり、魚焼きグリルからは香ばしい香りが漂う。

 昨晩炊飯器のタイマーをセットしておいたので、ちょうどよく米が炊き上がっていた。


 冷蔵庫の野菜を手際よく刻んでいく。

 まな板に当たる包丁のリズムは落ち着いていて、静かな台所に規則正しく響いていた。


 兄の光樹が起きてきた時には、食卓はすでに整っていた。父は出張中なので、今朝は二人分だった。


「ぜってー味噌は赤より白だろ」


 味噌汁をすすりながら、光樹は言った。


「親父が買ってきたんだよ」


 樹が面倒くさそうに答えると、光樹は何か思い出したかのように虚空を見つめた。


「あー。そういや、前にも赤味噌買ってきたことあったな。マジであの人の記憶、何年前からアップデートされてねえんだって思ったわ」


 樹は黙って焼き鮭をほぐした。


 味噌に赤だの白だのという違いがあることに気づいたのは、家事を分担するようになった中学の頃からだった。光樹が買ってくるのはいつも白味噌だったので、樹もなんとなく同じ銘柄を買うようになった。


 光樹の話し方からすると、おそらく母は赤味噌派だったのだろう。

 樹が幼い頃にはすでに母は家を出ていたので、定かではないが。


「……なんで光樹は、赤味噌派じゃねーの」


 我が家の味噌汁が赤味噌だった頃を覚えているはずの光樹が、なぜ白味噌の方が好きなのか疑問に思い、樹は聞いた。


「ママの味噌汁は白だからだ」


 当然のことを言うように、光樹は断言した。


 光樹と樹は、昔から和久井家の母である真子まこのことを、サヤカとユキナが呼ぶように「ママ」と呼んでいた。成長してもその呼び方は変わらなかったし、彼らにとっては自然なことだった。


 光樹は樹よりも四年多く生きているので、その分、母との思い出も多いはずだ。

 しかし、11年前に母が突然家を出て行って以来、彼の口から彼女の話が出てくることはなかった。過去に対する一種の線引きのようなものを、光樹から感じることがよくあった。


 先に家を出るのは、いつも会社員の光樹の方だった。


「あ、夜飲み会だから飯いらねえわ。じゃ、いってきます」


「わかった。いってらっしゃい」


 短いながらも、同年代の兄弟に比べたら、会話はわりとある方だ。


 幼いうちに父子家庭となり、協力していかなければならなかった。兄弟喧嘩などしている場合ではなかったという事情もある。そもそも光樹は、昔から面倒見のいい兄だった。


 クローゼットから制服を取り出し、シャツのボタンを一つずつ留めながら、時計に一度だけ目をやった。

 音は立てず、考えごとすら挟まない。棚から鍵を手に取り、ひと息もつかず玄関を出た。


 朝のどんよりとした空気に顔をしかめることもなく、自宅の門扉をそっと閉めた。

 そして、隣家のチャイムを鳴らした。


 間もなくして、ドアが開いた。


「たつごめん! ユキまだ寝てて、何度も起こしてるんだけど起きないの!」


 玄関先で、ブラウスにパンツスタイルの真子が、通勤バッグを手に慌てた様子で言った。


 出産を機に専業主婦をしていた彼女は、ユキナと樹が小学3年生に上がる頃に社会復帰した。それ以来、ずっと同じ企業に勤めている。


「たつは先行って! あの子、今日は特に起きないの。本当にもう!」


――この家は、いつも賑やかだ。


「ママもう時間だろ。俺が起こして連れてくから行っていいよ」


「ありがとう。もう、本当世話焼けるやつでごめんね。時間やばそうなら構わず置いてって! じゃあ行ってきます!」


「いってらっしゃい」


「たつも、気をつけていってらっしゃい!」


 樹は、笑顔で手を振る真子に手を振り返した。

 彼の朝は、彼女の「いってらっしゃい」から始まる。


 足早に階段を上がり、ユキナの部屋のドアをノックした。


「おい、遅刻するぞ」


 声をかけても返事がない。


「開けるからな」


 そう呼びかけてから、樹はドアを開けた。


 部屋の右端に置かれたベッドでは、気持ちよさそうにユキナが眠っていた。


「起きろ」


 樹は彼女の肩を軽く揺さぶったが、まったく反応しない。

 小さくため息をつく。


 ふと机に目をやると、樹が渡した問題集が開いたままだった。


「おい、マジで遅刻する」


 まだ応答がない。


「え、生きてる?」


 樹はベッドの脇にかがんで彼女の顔を覗き込み、頬をぺちぺちと軽く叩いた。


「んー……」


 ユキナは眉間にしわを寄せ、自身の頬に添えられたままの樹の手をがっしりと掴んだ。


「ユキ」


 顔を近づけ、耳元で名前を呼ぶ。

 彼女に掴まれたままの手を握り返すように、樹は指を絡ませた。


「おい。起きないとチューすんぞー」


 樹のその言葉にも、ユキナは依然と反応せず、寝息をたてたままだった。


「なんで起きねえんだよ」


 樹は、ゆっくりとユキナに顔を近づけた。唇と唇が触れそうな位置で止まる。


 彼女の吐息が、かすかに唇に触れた。握ったままの彼女の手は、ぴくりとも動かない。


「クソ……。起きてくれよ」


 祈るような声で囁く。


 依然寝息を立て続ける彼女に、樹は優しく触れるように口づけた。


 絡んだ指をそっと解き、体を離す。


 それから数秒ほどの間――ユキナは、ぱっと上下の瞼を開いた。

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