第13章
テスト週間が終わった。
通常登校が再開され、開放感に浸る間もなく、初日からひとつ、またひとつと、答案用紙が机の上に舞い戻って来た。
帰りのホームルームが終わってから、ユキナは今日返ってきたいくつかの答案用紙をそっと眺めた。その表情には、手応えと、わずかな安堵がにじんでいた。
「え、やばー!」
朱莉が、ユキナの背後から答案用紙を覗き込んで言った。
「お前……ついにやっちまったな」
沙里はユキナの肩にポンと手を添える。
「いくら出来ないからってカンニングはダメだよ」
朱莉が憐れむような目で言った。
「してないし」
ユキナが答えると、沙里はガシっとユキナの肩に腕を回し、耳元でささやいた。
「じゃ、どんな手使った?白状しろ」
「何かした前提やめてよね。ただたつに勉強見てもらっただけ」
「なんだよ、最強のチートかよ」
沙里は大げさにため息をついた。
「何がチートなわけ」
「イケメン幼馴染と放課後秘密のお・べ・ん・きょ・う」
朱莉はそう言うと、ユキナの頬を人差し指でつついた。
「後半はほぼ1人で、夜遅くまで勉強してたもんねー」
「裏切り者め」
沙里が言うと、ユキナは答案用紙をひらひらさせた。
「ふふーん。悔しかったら毎日勉強してみなさい」
「それは無理」
朱莉は頭を抱えた。
沙里と朱莉と笑い合いながら教室を出る。
彼女たちは二人とも同じバレーボール部で、これから部活に向かう。ユキナは二人に別れを告げた。
どこからか、聞き慣れた、鈴を転がすようなやわらかな笑い声が聞こえてきた。
周囲を見渡すと、廊下の奥にその姿を見つけた。
紗江は答案を手に、樹の前で嬉しそうに話していた。
樹も珍しくよく笑っていて、紗江の成績が良かったのだと、その様子からすぐに分かった。
もともと紗江の成績は、常に平均点より上だった。
その紗江があれだけ頑張ったのだ。きっと、とてもすばらしい結果だったに違いない。
いつもほとんどが平均30点前後だったユキナの成績が20〜30点上がったところで、彼女に遠く及ばないことくらい、察することができる。
ユキナは少し離れた場所に立ったまま、二人の姿をぼんやりと視界に入れていた。
ユキナも、頑張ったつもりだった。
樹にも教わったし、夜遅くまで問題集を解いた。苦手なところは何度もノートに書いた。
――確かに成績は上がった。むしろ自分としては、かなり上出来だった。
でも、紗江のようにはいかない。きっと、あんなふうに笑いかけてもらえるほどには……。
ユキナの目に映る紗江の笑顔は、まっすぐでまぶしかった。
彼に見せようと手に持っていた答案が、紙のくせに、やけに重く感じられた。
樹と紗江の明るく弾んだ声を背中に残したまま、ユキナは廊下を歩いていた。
ただ、この場を離れたかった。
気づけば、理科室の扉の前に来ていた。
胸の奥で、小さな期待と確信が芽を出していた。
まっすぐ、あの机の前に向かう。
以前に『深呼吸!』と書かれた文字の下に、『呼吸、できた』と書き足した。
その更に下に、やはり新たな文字が書き足されている。
『偉い。ノーベル呼吸賞』
丁寧な文字で書かれたその言葉に、ユキナは思わず吹き出した。
「くだらな」
ふいに、胸の錘がほんの少し軽くなった気がした。
『表彰式、来てね』
ユキナは自分で書いた文字を読み返し、くすくすと笑った。
――本当に、会ってみたい。どんな人なのだろう……。
落書きが書き足されていくたびに、ユキナの中で相手への興味が膨らんでいった。
靴箱の前まで来たところで、制服のポケットの中でスマホが振動していることに気づいた。
樹からの着信だった。
「……はい」
「お前、今どこいんの?」
「今昇降口だけど。たつ今日バイトでしょ?」
「今日17時出勤で、そんなに急いでねえから。今行くわ」
そう言って切られたスマホを、ユキナは見つめていた。
嫌でもテストの話題になる。
そう思うと、ユキナは気が重くなった。
樹と合流して、駅までの道すがら、彼は言った。
「良くなかったのか」
「えっ?」
「テスト。元気ねえじゃん」
「んー……」
煮え切らない返事に、樹は言った。
「見せろよ」
「……」
ユキナが黙っていると、樹は彼女の背後に周り、リュックを開けた。
「俺には見る権利がある」
あれだけ勉強に付き合ってくれた彼に、見るなと言えるはずもなかった。
「4教科だけ?」
後方からの樹の問いに、ユキナは短く返事した。
手にした数枚の答案をじっと見つめながら、樹はユキナの隣を、いつもよりゆっくり歩いていた。
ユキナは、自分の憂鬱さを映したかのような鉛色の空を見上げながら、その歩幅に合わせて黙って歩いた。
「おい、かなり良くなってんじゃねえかよ」
樹はそう言うと、ユキナを見た。
「……まあ」
「それで、なんでそんな不貞腐れてんだよ」
「不貞腐れてないけど。良い点数ではないから」
「……お前なあ、軸がちげえんだよ」
「じく?」
「他人の軸で考えりゃ、超悪かった成績から中の下になっただけかもしんねえけど、お前にとっちゃ、良い点じゃねえかよ。あんだけ頑張ったから、ここまで上がったんだろ」
そう、頑張ったのだ。それは紛れもない事実だった。
彼はその努力を理解し、認めてくれている。
あれだけ一生懸命、勉強を見てくれた彼の言葉がずしっと心に届き、それと同時に、卑屈になっていたことへの申し訳なさや、彼への感謝が一緒くたに溢れて、胸がぎゅっと痛くなった。
彼に何か言いたい。
けれど、喉に何か詰まったように言葉が出てこない。
「お前はな、昔から周りを気にするとこあるぞ。もっと自分軸で考えろ。点が上がった事を素直に喜べ」
無邪気に自分の成績を喜び、笑顔で樹に伝えていた紗江の姿が頭に浮かんだ。そしてすぐ、ハッとした。また無意識に紗江と自分の違いを考えていた。
――ああ、樹が言っているのは、こういうところか。
そう思った瞬間、自分に嫌気がさした。
結局、喉につかえた言葉は、出てこないままだった。
* * *
その夜、22時過ぎに樹からメッセージが届いた。
『今から行く』
そのメッセージに、ユキナは『了解』とだけ返信した。
数分後、樹が階下でユキナの家族と談笑する声が聞こえた。
程なくして、ノックのあと、部屋のドアが開く。
「うす」
「たつ、バイト帰り?」
「おお。お前もう寝る感じ?」
「ううん。まだ寝ないけど」
「じゃ、前言ってた漫画見して」
「ああ、星の宮殿ね。何巻から読む?」
「細かいとこ忘れたから一巻から」
そう言うと、樹はローテーブルの前に座った。
「あー。疲れた」
彼は後ろにあるベッドに頭をもたせた。
「お疲れ。忙しかったの?」
ユキナはそう言いながら、1巻を彼の目の前のテーブルに置いた。
「人足りねえんだよ最近」
樹は大きく息を吐いた。
「あ、これ食え。下でも渡して来たけど、これはお前の分」
そう言った樹が、コンビニの袋からプリンを取り出すや否や、ユキナは
「食べる!」
と即答した。
見る見る明るい笑顔になったユキナを見て、樹はふっと笑みをこぼした。
「なに?」
「や、お前反応早すぎ」
「だってこのプリンが1番好きなんだもん」
「知ってる。だから買って来た」
樹はさらっとそう言うと、漫画を読み始めた。
ユキナは、プラスチックスプーンですくったプリンを口に運んだ。
やわらかい甘みを引き立てるカラメルソースの、熟成されたようなほろ苦さが香ばしく、とても美味しかった。
「やっぱり好きだな」
と、ユキナは言った。
樹は何も言わず、漫画を読み続けている。
それでも、どうして今ここにいるのかは、なんとなく分かる気がした。
ユキナはまたプリンをひと口すくい、静かに口に運んだ。




