第12章
樹は窓を閉めてから、ため息をついた。
先ほどカーテンを開けて彼女と目が合った瞬間、彼女はどこか動揺しているように見えた。
――ユキ。
彼女をそう呼んだのは、いつぶりだろう。呼び止めて、飲み込んだ言葉を頭に浮かべる。
――俺の部屋を見つめて、何を考えてた?
もしそれを聞いたとして、自分はどうするつもりだったのか。今となっては、よくわからない。
何か言葉をかけたかっただけなのかもしれない。
いつも明るい彼女の、少し憂いを帯びた瞳を見て、ただ胸が苦しくなった。
最近の彼女が、何かに揺れ、思い悩んでいることも伝わってきていた。
窓越しの、近いけれど触れられない距離。
彼女を抱きしめられないことが、ひどくもどかしかった。
ユキナが紗江に、自分のことを兄妹のようなものだと言い切った場面を思い返す。
ああいう場面なら、自分でもそう答えるだろう、と思った。
この数年間、ずっと答えを見出せずにいた。
彼女が紗江に言っていたように、家族に対する愛情と似たものを感じるのは事実だ。
彼女の本心も、きっと自分と同じくらい複雑なのではないか。
彼女自身ですら測りかねている――根拠はないのに、それは不思議と確信めいていた。
樹はベッドに入り、目を閉じた。
3年前、中学2年生の修学旅行のことを思い出す。
その頃、ユキナと関わる機会は減っていたが、修学旅行先で久しぶりにゆっくり話すことができた。
やはり、彼女と一緒にいる時間は心地よかった。
少し距離を置いていたぶん、引いた視点で彼女を見ることもできた。
観光地ではしゃぐ笑顔は昔と変わらず明るくて、同性の友人を含めて考えてみても、彼女は一番自然体でいられる存在だった。
修学旅行から帰ったあと、ユキナの家族にお土産を届けに行った。
彼女の家族とは、実の親よりも長い時間を過ごしてきた。育ての親と言っても過言ではない関係だった。
そのとき、久しぶりに彼女の部屋に入った。
小学生の頃以来だった。
ほんの2年前までキャラクターグッズで溢れていた部屋は、すっかり様子を変えていた。
小洒落た雑貨や化粧品が並び、ドーム型のアロマディフューザーの淡い光と、ほんのりと広がる甘い香り。
どこか落ち着かず、樹はソワソワした。
風呂上がりのユキナは、パステルピンクのパイル地のキャミソールワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っていた。
知らぬ間に、同年代の女子よりもずっと発育した、無防備な姿。
渡したお土産を喜んだユキナが、無邪気に抱きついてきた瞬間――まずい、と思った。
腹部に触れた胸はやわらかく、自分を見上げて笑う頬は、風呂上がりのせいかほんのり火照っている。
あのとき彼女の髪からふわりと香ったシャンプーの匂いは、今でも覚えている。
その一つ一つが妙に艶っぽく映り、当時の自分はまともに目を向けることすらできなかった。
そのくせ、そんな彼女を強く抱きしめ返して、めちゃくちゃにキスしたい――そんな衝動に駆られ、必死に堪えた。
彼女に対してそんな感情が湧いたのは初めてで、樹は困惑したまま立ち尽くしていた。
視線だけが定まらず、床や机の端をなぞるように行き来する。
指先がわずかに動き、やがて拳を握りしめた。
ユキナは楽しそうに何かを話し続けていたが、何も頭に入ってこなかった。
とにかく理性にしがみつき、ただ耐え、逃げるように部屋を出てきた。
触れたいのに、触れたらあの笑顔を壊してしまう。
それがどうしようもなく怖かった。
中2のあの日、ユキナに抱きつかれてひどく動揺したのは、その一年前の出来事も関係していた。
中学に入学したばかりの春のことだ。
兄の光樹の部屋に、ユキナの姉であるサヤカが、いつものように遊びに来ていた。
最初は隣室から二人の談笑が聞こえていたが、やがて声は止み、ベッドのスプリングが軋む音と、押し殺したような吐息が漏れてきた。
当時の13歳の樹にも、さすがに何が起こっているのか理解できた。
18歳の光樹と、そのひとつ下のサヤカ。二人は付き合って2年になる。
年頃の恋人として特別おかしなことではないと理解はできても、心は大きく動揺していた。
それまで、二人が付き合っているという事実を、どこかぼんやりとしか受け止めていなかったからだ。
手を繋いで登下校し、放課後はどちらかの家に毎日いる。
そんな、せいぜい幼馴染の延長のような二人しか見ていなかった。
そこに「恋人」という特別なものを感じたことは、一度もなかった。
光樹たちが付き合い始めたとき、ユキナと自分も、いつかはそうなるのだろうと漠然と思っていた。
しかし、二人が恋人である現実を知ってしまったあの日を境に、樹はユキナをそれまでと同じ目では見られなくなっていた。
付き合うということは、ただ一緒にいるだけじゃない。
あの日、そう突きつけられた。
見かけるたびに女性らしくなっていく彼女に、ひとり戸惑う自分が嫌だった。
無防備な笑顔を向けてくる彼女のことが、時々たまらなく憎らしかった。
お土産を渡した日の夜、樹はユキナの早熟な体の感触に支配され、眠ることが出来なかった。
――いつの間にあんなに成長したんだ。
そんな思いが湧くたびに、彼女の無垢な笑顔が浮かび、胸が苦しくなった。
布団の中で何度も寝返りを打ち、脳裏に焼きついた湯上がりの彼女を必死に消そうとしたことを覚えている。腹部に感じた感触まで、まざまざと思い出された。
それが、長い苦悩の時間の始まりだった。
堪え難いほど膨らんでいく自身の欲望に、嫌悪を覚える。
そして彼はその日、その苦しみからほんの一時だけ逃れる方法を知ってしまった。
ユキナを思い、ユキナを感じ、初めて頭の中で彼女を思いのままにする――
欲望を夜の闇に吐き出した樹は疲れ果て、ぼんやり天井を眺めながら考えた。
――恋人同士になれば、彼女とそういうことが出来るのか。
そうすれば、こんなにも苦しい夜を一人で過ごすこともなくなるのだろうか。
そう思った自分に、心底ゾッとした。
あんなふうに無邪気に笑いかけるユキナを、自分の欲望で汚してしまうかもしれない。
取り返しのつかない傷を、彼女の心に負わせてしまうかもしれない。
それが何よりも恐ろしかった。
これは単に、男としての本能的な欲望なのかもしれない。
ユキナほど親しい異性の友人が他にいないから、彼女が“女”になっていくことに動揺しているだけで、それが彼女じゃなくても、この感情は芽生える――そう思いたかった。
けれど、どれだけ考えても答えは出なかった。
昔から、彼女も自分たちが光樹たちのようになることを、なんとなく受け入れているように思えたし、周囲にも、それが当然だという暗黙の空気があったのは確かだ。
ただ、このまま狭い世界で完結するのかと思うと、薄っすらとした絶望も感じた。
中学に入ってから、ユキナは本当に魅力的に成長していった。
しかし、知らず知らず流されるがまま、自分もその方向に向かおうとしていたことに気づいたとき、反発心や抵抗感も芽生えた。
――もっと色んな女子と仲良くなったら、世界が広がり、何かが変わるのかもしれない。
偶然ユキナが同じ高校を受験すると聞いたときは、一種の恐怖さえ感じ、いよいよ逃れられない気がした。
そんな不安を抱えているにも関わらず、気づけばまんまと登下校を共にし、勉強まで見てしまっている。
見えない渦にゆっくり飲み込まれていくような日々に、樹は言いようのない焦りを感じていた。




