第11章
紗江と書店で会った日の夜、静まり返った部屋で、ユキナは机に向かっていた。
問題集にペンを走らせていると、不意にスマホの通知音が鳴り、思考がぷつりと途切れる。
顔を上げると、時計はすでに0時を回っていた。
こんな時間に連絡してくる相手なんて、一人しかいない。
画面には、樹からのメッセージが表示されていた。
『おい
そろそろ寝ろ
おやすみ』
ユキナはそれを一瞥し、メッセージ画面を開かないまま立ち上がった。
部屋の窓を開け、大きく伸びをする。
ひんやりとした夜風が頬をかすめる。
空気をいっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
日中の紗江とのやりとり、詰め込みすぎた数式や英単語――絡まり合っていた思考の糸が、風にほどけていくようだった。
煮詰まったとき、いつの間にか、深呼吸することが癖になっていた。
ぼんやりと向かいの樹の部屋を見ていると、ふっと明かりが消えた。
「おやすみ、たつ……」
小さくつぶやいたと同時に、向かいのカーテンがサッと開いた。
煙草をくわえた樹が窓の鍵に手をかけていた。
視線が、ぶつかる。
ユキナは思わず固まった。
こちらに気づき、窓越しにひらりと手を挙げる樹に、ユキナも小さく手を振る。
まだ胸の奥が、少し騒がしかった。
樹が窓を開けた。
「たつ……寝ないの?」
「ん、寝る。一服してから」
そう言いながら、ライターで煙草に火をつけた。
「お前も寝ろよ。絶対明日起きれねえぞ」
言葉とは裏腹に、樹は煙がユキナにかからないよう、顔を少し右上へ向けて吐き出した。
「あと1ページ分、問題解いてから寝るつもり。たつにもらった問題集」
樹の視線が流れるようにこちらへ移る。
ユキナを見ると、ほんのわずか眉を上げた。
彼は昔からよく、目で返事をする。
「おやすみってメッセージきたのに、急に顔出すんだもん。びっくりした」
「なんだよ。既読も返信もねえから、見てねえのかと思った」
「私は『おやすみ』には返信しない派なの」
「あ、そ」
どうでもよさそうに返し、樹はゆっくり煙を吐く。
火照った夜気のなか、白煙がゆらゆらと漂う。
その奥で、樹の輪郭がぬるく滲んで見えた。
どこか獰猛で、同時に脆さの滲んだ横顔。
ユキナは、知っていた。
彼が、誰にも触れさせないまま抱え続けてきた暗黙を。
これ以上失わないよう、崩れないようにと、必死で築いてきた平然を。
「……てかさ」
ユキナの声は、少し掠れていた。
「スポーツマンのくせに、煙草やめなよ」
「元、だろ。もう関係ねえし」
「どっちにしたって未成年じゃん。やめなさいよ」
「うるせえな、お前は俺の母ちゃんか」
「たつだって私に勉強勉強言うじゃん。そっちのが母ちゃんじゃん」
「言わざるを得ない成績だからだろ。……まあ、最近はちゃんとやってるよな。でも、無理やり詰め込みすぎなんだよ。もっとバランスよくやりゃいいのに」
ユキナは窓枠に頭をもたれさせ、小さくつぶやいた。
「私はたつみたいに、何でも卒なくこなせる器用さがあるわけでもないし、紗江みたいに目標があるわけでもないから――」
言葉が少し詰まる。
「この成績で勉強から逃げたら、さすがに終わりだよなって……最近思って」
しばしの沈黙が連れてきた夜の静けさの奥から、遠い街のざわめきが微かに届く。
樹はまた、煙を吐いた。
「じゃあ――私、まだもう少し勉強するから。おやすみ」
窓を閉めかけた、そのとき。
「ユキ」
不意に名前を呼ばれ、ユキナの胸が波立つ。
「……なに?」
樹は一瞬、言葉を探すように目を逸らした。
「いや。明日寝坊すんなよ。おやすみ」
「うん。おやすみ」
ユキナは静かに窓を閉めた。カチリ、と鍵の音が心に小さく残った。
カーテンを引きながら、もう一度だけ窓に視線をやる。向かいの部屋は既にカーテンの奥に隠れていた。
机に戻り、問題集を開く。ペンの音が静かに部屋へ戻ってくる。
最後の問題に丸をつけ、教科書を閉じたとき、ようやく一日が終わった実感が胸に降りてきた。
ベッドに入り、明かりを落とす。
まぶたを閉じた瞬間、ふと口をついて出た。
「ユキ……か」
懐かしい響きだった。
いつからか、お前と呼ばれるばかりになったことが、ずっと引っかかっていた。
ユキナは、おやすみ、と言った樹の顔を思い出す。
どこか切なさを含んだ、あの笑みを思いながら、静かに眠りに落ちていった。




