第10章
次の月曜日から5日間にわたって中間テストが始まる。
そんな土曜の午後、ユキナは学校の最寄駅に直結した大型書店、クマザワ書店に来ていた。
午前中は自宅で勉強していたのだが、ノートとシャープペンシルの芯を切らしてしまったため、もともとは近所の小さな書店へ行くつもりだった。
ところが出かける直前、姉のサヤカに呼び止められ、美容系雑誌のバックナンバーを買ってくるよう頼まれてしまった。
結局その雑誌は近所の店では見つからず、仕方なく電車に乗り、クマザワ書店まで来た。ノートも芯も、ここで買うことにした。
2階の文房具売り場で自分の物を購入し、エスカレーターを下りて、頼まれた雑誌の置いてあるコーナーへ向かう途中、ふと視界の端に見覚えのある後ろ姿が入ってきた。
進路関連の参考書がぎっしり並んだ一角に、紗江が立っていた。
彼女は看護系の入門書のページをめくりながら、隣に積まれた本にも目をやっている。その場で決めきれずにいるように見えた。
「さーえーちゃん」
ユキナは、紗江に後ろから抱きつく。
「きゃっ……!」
申し訳なくなるくらい、紗江の体はびくっと跳ね上がった。驚いて振り返った紗江は、安堵の表情に変わる。
「ユキナ! もーびっくりした」
「ごめん、そんな驚くと思わなくて」
ユキナは、週末の午後、人混みの中で知り合いに会えたことで、いつも以上に浮き立ってしまった自分を恥じた。
「それ、看護の本?」
「うん。私、一応看護師志望なんだ」
「へえ、初耳!」
「小さい頃から漠然とした夢って感じだったんだけど、そろそろちゃんと考えなきゃと思って。さっき、このビルに入ってる看護系の予備校の資料もらってきたの。今日はその帰りなんだ」
「もう進路のこと見据えて動いてて、偉いなぁ。紗江、絶対看護師合ってる」
「ふふ、ありがと。ユキナは、何してたの?」
「姉のパシリ。芯とノートだけパパっと近所で買おうと思ったら、美容系雑誌のバックナンバーなんて面倒なもの頼まれちゃって。大きい本屋にしか置いてないやつみたいで、私、勉強中だったのにさ」
「お姉さん、メイクのプロだもんね。格好いい」
「ただの鬼だよ」
ユキナはため息をついた。
「ユキナ、勉強順調? 図書室の勉強会来ないの、集中するためって前に言ってたけど……。今まで大杉くんに教えてもらってたのに、私が突然参加したから、二人のペース乱しちゃったかなって、気になってたの」
「ううん、違うよ。たつに言われてイヤイヤやるんじゃなくて、そろそろ一人でもちゃんと勉強しなきゃなって思ってたから。たまたまそのタイミングが重なっただけ」
「そっか。それなら良かった」
紗江は安堵したように微笑んだ。
「紗江。あの、ずっと気になってたんだけどね。私とたつがよく一緒にいるのって、嫌じゃない?」
ユキナは、恐る恐る尋ねた。
「まさか。嫌なんて、思ったことない。私が恋人同士と勘違いしてた件だって、はっきりと二人の関係について話してくれたから、そこは気になってないよ」
紗江は穏やかにそう答えた。
「そっか……。紗江、どう思ってるのかなって気になってて。もし紗江が気になるなら、幼馴染とはいえ、距離を保たないといけないなって思ってたの」
「ううん。私の気持ちのせいで、2人が疎遠になるなんて嫌だよ。気にせず、今まで通りでいてね」
紗江から向けられたなんの疑いもない純粋な笑顔を見た瞬間、ユキナの胸の奥に、まるで濃いインクに水がひとしずく垂れたように、黒く重たい感情が広がっていった。
それは、自分の中に潜んでいた暗がりに触れたように、じわじわと、けれど容赦なく、心の隅々を染め上げていった。
その黒い感情に、ユキナは必死で蓋をした。こぼれ出さぬよう、押し殺すように唇の端を持ち上げて――まるで仮面のように、笑顔を作った。
「なんかあったら遠慮なく言ってね。じゃあ、月曜日ね」
声は、明るかった。自分から放たれたものとは思えないほどに。
「ありがとう。テスト勉強、頑張ろうね」
そう言って手を振る紗江のもとから、早く離れたかった。
早く、早く。もっと遠くへ。
無意識に、歩調はどんどん早くなっていった。
――紗江がもっと狡猾でずるい子だったら、どれだけ救われただろう。こんなにも息苦しいのは、彼女がただ恋を楽しむ、純粋な少女だからだ。
紗江が自分と樹の関係を否定するはずがないと、ユキナはわかっていた。わかっていて、聞いた。
まっすぐで眩しいあの笑顔に見つめられると、自分の中の澱が浮き上がるようだった。
ほんの少しでも気を緩めれば、底の見えない闇へと滑り落ちてしまいそうで、足がすくんだ。




