プロローグ・第1章
「あの子、可愛いよな。すげえタイプ」
一週間前、そう言い放った彼の、なんとも締まりのない顔といったら。
その日から、あの緊張感のない表情が脳裏に浮かぶたび、胸の奥がざらついた。
「連絡先、聞いてみっかな」
青天の霹靂なんて言葉でも足りないほど衝撃だった。
彼と私の間に、そんな話題が入り込む余地があるなんて、思ってもみなかった。
今まで彼の口から、他の異性に興味を示すような言葉を聞いたことなど一度もなかった。自分にとって彼が特別なように、彼にとっても自分は同じような存在なのだと――そう思い込んでいた。
***
まだ5月上旬だというのに、清森高校の校舎は真夏さながらに蒸し暑かった。
ホームルーム終了を告げるチャイムが鳴ると、ひとときの静寂を破るように、二階の廊下は各教室から吐き出された生徒たちで、瞬く間に溢れていった。
和久井ユキナは、2年4組の教室を出ると、生徒たちでごった返す廊下を抜け、一階の正面玄関へと向かった。
自身の靴箱の前まで来たところで、昇降口から吹き込んできた風が、肩のあたりで切り揃えられた柔らかな髪をふわりと揺らした。
ユキナは頬をくすぐる髪を耳にかけ、心の奥に溜まっていた憂鬱を吐き出すように、ふうっと深いため息をついた。
「どうしたの?」
その声に、ふと我に返った。
隣のクラス、2年3組の有森紗江が、ユキナの顔を心配そうに覗き込んでいた。
「大きなため息ついてたけど……何かあった?」
紗江の大きな瞳が、まっすぐユキナを見つめていた。
同性のユキナでさえ見惚れてしまうほど長く綺麗な彼女のまつ毛は、くるりと上向きにカールしていた。
彼女とはクラスが離れてしまったが、1年生の時に同じクラスになって以来、いちばん仲の良い友達だ。
紗江は胸まで伸びた髪を今日はふわふわに巻いていて、立っているだけで自然と目を引く華やかさがあった。
――ああ、そうか。
紗江が髪を巻いている時はいつも、他校にいる彼とデートの日だ。
「ううん、小テストの点数悪くてうんざりしてただけ! それより紗江、髪可愛いね。今日は大和くんとデート?」
ユキナは目一杯明るい声を意識して言った。
「ありがとう。大和くんが中間テスト間近で部活ないから、誕生日のペアリング買いに行こうって言ってくれたの。そのあと、大和くんちで一緒に勉強しようって話になってるの」
幸せそうに笑う紗江を見て、ユキナは、やっぱり可愛い、と心の中で思った。その言葉が、別の誰かの声と重なって、胸の奥で何かがかすかに翳るのを感じていた。
「良かったね、紗江」
「ユキナ今日は一人で帰るの? 大杉君は?」
紗江は辺りを見回した。
「ああ……私今日は用があるから先に帰ろうかなって」
引きつりそうな顔を笑顔で懸命に隠し、ユキナは答えた。
「そうなんだ。じゃあ駅まで一緒に行こう」
「うん」
ユキナは電車通学で、駅までは歩いて約10分かかる。一方、紗江はバス通学で、停留所は学校のすぐ近くだ。
今日は紗江も彼氏との待ち合わせ場所に向かうため、ユキナと同じ駅から電車に乗るらしい。
校門を出て少ししたところで、ユキナは制服のブレザーのポケットに、いつもあるはずのものがないことに気づいた。そういえば、4限目の理科室でLINEを見て以来、それを触っていない。
「紗江ごめん! 理科室にスマホ忘れたっぽい! 先行って! デート遅れちゃう」
ユキナは慌てて言った。
「あらら。先生に授業中のスマホ持ち込みバレたら面倒だよ、急げ!」
「うん、ありがとう。大和くんと楽しんでね!」
ユキナは紗江に手を振り、急いで踵を返すと校舎へと走った。
下校時間に駅から学校方面へ全力で走るユキナへ、駅に向かう生徒達から不思議そうな視線が送られていた。
* * *
理科室の入り口まで来たところで足を止め、乱れた呼吸を整えた。
開いていたドアの向こうに、黒い天板の実験台が並んでいた。
ユキナの席は、一番後ろの窓側だった。
急いで自分の席に駆け寄り、実験台の下の収納スペースを覗き込んだが、そこに置いたはずのスマートフォンはなかった。
「うそ……」
ユキナはサーッと血の気が引いてく感覚に陥り、額に手を添えた。
「没収された?」
それなら面倒ではあるが、まだマシだ。誰かに持ち去られていたら……とユキナは最悪の事態を思い急に不安になる。
「どうしよ、とりあえず物理の教科担任に聞くしかないか……こないだの小テスト6点だったし今日課題忘れたのに……留めにスマホ持ち込みなんて……」
ユキナは心の声を実際に口にしていることにすら気付かないほど、動揺していた。その時、すぐ背後から急に声がした。
「6点はねえわ」
突然近くで聞こえる男の声にユキナはビクッと肩を震わせ、恐る恐る振り向く。
「あ、たつ!」
声の主は、隣に住む幼なじみ――二年一組の大杉樹だった。
長身の彼は、誰もが自然と見上げてしまうほどの存在感をまとっていた。真っ黒なツーブロックの短髪に、太陽の下で鍛え上げられ日に焼けた精悍な体つき。広い肩に黒のボックスリュックを背負ったその姿は、まさにスポーツマンそのものだった。
「びっくりさせないでよ」
安堵しながらそう言ったユキナを、樹は呆れた表情で見ている。
ユキナは、樹が紗江に好意を示す発言をした事に、思いの外深く傷ついている自分を勝手に気まずく感じ、最近何も言わず勝手に1人で登下校していた。そして今も連絡もなしに先に帰ろうとしていた事が突然後ろめたくなった。
樹は面倒くさそうに頭を掻く。
「びっくりさせないでよって……お前なあ。下校するやつら掻き分けて逆走してるお前見つけたから、後ろから声かけたんだぞ。二回も」
「えっそうなの?」
驚くユキナに、
「ほら。これだろ」
と樹は何かを差し出す。その手にあるものを見てユキナの表情はみるみる明るくなる。
「私のスマホ! これどうしたの?」
「俺の班、今日昼休み理科室の掃除当番で。同じ班のやつが見つけたんだよ。見覚えのあるセンス悪ぃスマホカバーだったから俺が預かってた」
「わーん! たつさまぁー!!」
ユキナは思わず樹にしがみついた。身長183cmの樹の胸に、155㎝のユキナの顔がすっぽり埋まる。
――……。
一瞬の間。ユキナは嗅ぎ慣れない男物の香水の香りと知らぬ間にたくましくなった胸板にハッと我に帰り、すぐに彼から離れた。
「……てか、スマホカバーはあんたも同じでしょ」
受け取ったスマホをポケットにしまいながらユキナは言った。
遠くで、運動部の掛け声が途切れ途切れに聞こえる。
放課後が、ゆっくりと動き出したようだった。
本当に、自分でも驚くほどショックを受けている。同時に、彼も絶対に自分のことが好きだと根拠もなく確信していた自惚れに気づき、この上なく恥ずかしく、そして虚しくなった。これまでの10数年間、自分はどんな顔で彼と話していたか、どんな風に触れていたか、このたった数日間でそれが思い出せなくなってしまったのだ。ユキナにとって樹は既にただの幼馴染ではなく、一人の男性になってしまったのだ。
ちらりと樹の表情を伺うと、じっとユキナを見ている。困惑しパッと目をそらすユキナに、樹は眉をひそめて言った。
「お前さ……」
いつもより真面目な低い声に、ユキナはドキッとし、恐る恐る樹を見る。
「帰ってさっさと勉強しねえとこのままじゃ中間テスト相当やべぇだろ。物理の村井、この前の小テスト出来ない奴は中間終わりだと思えって言ってたぞ。それをお前、6点って……」
「だ、大丈夫だから」
「6点のどこが大丈夫なんだよ」
呆れて言った樹に、ユキナはぐっと口ごもる。
「50点満点のテストだしっ……」
虚勢を張るユキナに、樹はため息をついた。
「満点が100点でも50点でも、6点は絶望的だ」
そう言うと、ドアの前まで歩いて行った。
「何してんだよ、行くぞ」
動こうとしないユキナを振り返りながら言う樹に、ユキナは歯切れ悪く答えた。
「今日は……ちょっと寄るところが」
一緒に帰れない理由なんてどうでも良かった。ユキナは初めて抱くどろっとした感情に戸惑い、自分が自分でいられなくなるような感覚に嫌悪感を覚えていた。とにかく、今は樹のそばにはいたくなかった。
「ここ数日ずっとまっすぐ帰ってねえな、朝も先に出てくし。コソコソしやがって」
樹はそう言って訝しげにユキナを見たが、彼女は思わず目を逸らした。
「ち……違うよ! 朝は美化委員の仕事があるからで……」
ユキナはボソボソと答えた。彼女の所属する美化委員は有志を募って登校時間前に校内のゴミ拾いや清掃をする活動を行っていた。ユキナは一度もその活動に参加した事はなかったが、登校時間を早める既成事実として苦手な早起きをしてまでそれに参加していた。
「放課後は、紗……友達が再来週誕生日だけどプレゼントなかなか決まんなくて……だから今日もまた違う店に行こうかなって」
「有森?」
ユキナが言いかけてやめた名を、樹は敏感に拾う。
「ん、まぁ……」
――ああ、最悪。どうして上手に嘘をついたりごまかしたり出来ないのかな……
ユキナは頭の回転の悪い自分にうんざりした。
「へー有森再来週誕生日なんだ。何日?」
「6日。中間テストの最終日」
――わかりやすくテンション上がっちゃって、馬鹿みたい
ユキナは心の中で悪態をついた。
「早いとこ連絡先聞かなきゃな」
そう言った樹にユキナは我慢ならなくなった。
「無理無理! 今日だって紗江は大和君とデートって言ってたよ。誕生日のペアリング選びに行くんだって幸せそうだった。大和くん超イケメンだしサッカー上手いし。そんなスパダリ持ちの紗江に相手にされるわけないじゃん。たつなんて中途半端にサッカー辞めて――……」
言いかけてユキナはハッとした。しまった、言いすぎた……と罪悪感からフォローする言葉を探すも、何も浮かばずに俯いた。しばしの沈黙が重い空気を運んできた。恐る恐る樹を見ると、彼の目の奥は陰っていた。
――知ってる。たつが悲しみを感じた時はいつも、彼の目は新月の海のように光を失う事、そしてその後は決まって、悲しい顔で笑う事。
「わかってるよ、全国大会常連校の西高サッカー部エースストライカーの嶋田大和と高2の中途半端な時期にサッカーやめた俺とは雲泥の差だって言いてえんだろ」
そう言ってふっと力なく笑う樹を見て、ユキナは胸が締め付けられた。樹のこの目を見た一番古い記憶は、6歳の頃。たつの母親が突然家を出て行った時だ――。
樹は紗江の彼氏への劣等感で落ち込んでいるのではない。彼はまだサッカーがやりたいのだと、ユキナは確信した。
そんな彼の、きっと今は誰にも触れてほしくない芯の部分を、腹立ち紛れに突いてしまった自分に嫌気がさした。こんな顔をさせたいわけじゃなかった。
「じゃあ先帰るけど、少しは勉強しろよ」
いつも通りの口調、いつも通りの表情にホッとし、ユキナは曖昧な返事をした。樹はそのやる気のなさそうなユキナを見て、呆れた表情を浮かべつつ帰って行った。
「はぁ……」
ユキナはため息をつき椅子に座る。
ふと、机に何か文字が書かれている事に気づく。黒い天板にシャープペンシルで書かれたその文字は、ユキナのいる角度からはなかなか見えなかった。ユキナは体勢を変え、文字が光に照らされる位置を探した。
「やってらんねえ」
ユキナは声に出して読んだ。
リュックからペンケースを取り出し、ユキナは机に書かれた文字のすぐ下に何かを書き始める。
ユキナは書かれていた机の落書きと自分の書いた文字を、しばらくぼんやりと見つめていたが、
「何してんだ私……」
と呟き、理科室を後にした。
誰もいなくなった理科室に差し込んだ光が、新たに書き足された
同感
の文字を照らしていた。




