吸血鬼くんは夢魔さんと話してみるようです
薄い意識の膜を、誰かが指で叩いたような感覚だった。
アドリアは、ゆっくりと目を開ける。
天井の梁。揺れないランプの灯り。木の匂い。――昨日と同じ。悪夢の続きではないと分かって、胸の奥が僅かに緩む。
身体を動かそうとして、痛みに気づく。
肩。脇腹。深くはないが、確かに傷は残っている。包帯は新しい。取り替えられたばかりだ。
視線を横へ向けると、そこに人影があった。
机に向かい、黙々と紙へ文字を書き連ねている男。
白い髪に、茶色のメッシュ。背筋は伸び、無駄な動きが一切ない。呼吸のリズムすら、意識的に整えられているように見える。
イツキだった。
机の上には、ノートが何冊も開かれている。
文字は几帳面で、ところどころに簡潔な図。魔術式のようでもあり、解剖図の走り書きのようでもある。観察対象を「理解する」ための記録だと、アドリアには直感で分かった。
(……僕、研究されてるね)
嫌な感じはしなかった。
無遠慮に覗き込まれているのではない。距離を測り、線を越えないまま、必要な情報だけを拾おうとしている。そういう慎重さが、紙の上に現れている。
「……起きたか」
視線を上げず、イツキが言った。
声は低く、淡々としている。だが、アドリアが目を覚ましたことを、ちゃんと把握していた声だ。
「うん。おはよう、イツキ」
「朝じゃねぇ」
「じゃあ……目覚めの挨拶、かな」
少しだけ笑って言うと、ペン先が一瞬止まった。
イツキは小さく息を吐き、ようやくこちらを見る。
「調子は」
「悪くない。……君の処置が丁寧だから」
「当然だ。中途半端に治すと、後で面倒が増える」
昨日と同じ返し。
だが、机の端に置かれた薬草の束は、きちんと選別されている。血の匂いを抑える種類と、夢酔いを防ぐ種類。専門的だ。
アドリアは上体を少し起こした。
イツキは止めない。無理をしない範囲だと判断したのだろう。
「……さっきから、僕のことを書いてる?」
「記録だ。お前の性質は、この世界じゃ少し珍しい」
「やっぱり」
アドリアは視線を天井へ向け、言葉を選ぶ。
どう話すべきかは、もう決めていた。曖昧なままにすると、この男は警戒を強める。利害と危険性を、はっきりさせる必要がある。
「僕は吸血鬼だよ」
イツキの反応は、驚きでも拒絶でもなかった。
ただ、ペンを置き、腕を組む。
「だろうな。血の匂いと、生命反応が合わねぇ」
「人間みたいに見えるでしょ」
「見えるだけだ」
即答だった。
見た目に惑わされない。観察と結果だけを見る人間だ。
アドリアは小さく頷いた。
「僕は血を糧に生きる存在だけど、無差別に奪う気はない。……というより、できない。心が拒むんだ」
「拒む?」
「うん。血を吸う時、相手を“物”として見ると、僕の中で何かが壊れる気がする」
静かな声だった。
過去を誇るでも、悲劇を演じるでもない。ただの事実として語っている。
「だから、必要な時だけ。必要な相手から、合意の上で。……そうじゃないと、僕はたぶん、怪物になる」
イツキはじっと聞いている。
相槌は打たないが、途中で遮りもしない。評価する前に、全てを出させるタイプだ。
「不死に近い身体を持ってる。傷も、時間があれば塞がる。……でも完全じゃない。魔術や、特定の条件下では、普通に死ぬ」
「杭とかか」
「詳しいね」
「夢の世界にも、似た連中はいる」
アドリアは少し息を吐いた。
「飢えは、常にある。でも、それに従うかどうかは選べる。……選び続けないと、簡単に崩れる」
イツキの視線が、ほんの僅かに鋭くなった。
“選び続ける”。その言葉に、彼自身が引っかかったのだろう。
「……面倒な生き方だな」
「そうだね。でも、僕はそれを選んでる」
アドリアは、イツキを見る。
真正面から。媚びず、怯えず、隠さず。
「君の拠点で血を奪うことはしない。君や、君の大切なものに危害を加える気もない。……必要なら、監視されてもいい」
「条件提示が早ぇな」
「長く生きると、無駄な誤解が命取りになるって分かるから」
イツキはしばらく黙っていた。
ノートに視線を落とし、何行か書き足す。
――吸血性存在。
――強い自制。
――倫理観あり。
――利害関係:現状、衝突なし。
書き終えると、ノートを閉じた。
「分かった。少なくとも今は、危険度は低い」
「“今は”なんだね」
「状況は変わる」
正直な答えだった。
アドリアはそれが嬉しくて、少しだけ目を細める。
「うん。それでいい」
沈黙が落ちる。
だが、昨日ほど重くはない。空気が、少しだけ柔らいでいる。
「……イツキ」
「何だ」
「君が僕を拾った理由、合理性だけじゃない気がする」
一瞬、部屋の温度が下がった。
イツキの目が、ほんの僅かに鋭利になる。
「詮索すんなって言ったはずだ」
「ごめん。……でも一つだけ」
アドリアは、声を低くする。
「君は、守る側の人だ。だから、僕はここで眠れた」
イツキは何も言わなかった。
ただ、視線を逸らし、ランプの灯りを見つめる。
「……寝てろ。回復が優先だ」
それが、会話の終わりだった。
アドリアは素直に横になり、目を閉じる。
微睡みが、またゆっくりと降りてくる。
横で、ペンの音が再び動き出した。
黙々と。だが、もうそこには、昨日よりも僅かに――
“人”として扱う筆致が混じっていた。




