吸血鬼くんは夢魔さんに拾われたようです
夜のドリームランドは、現実よりも静かで、現実よりも騒がしい。
星々は近く、雲は低く、風は草の匂いを運びながら、どこか別の記憶――誰かの「見たかった夜」を混ぜてくる。
アドリアはその夜を走っていた。
石畳はいつの間にか湿った土へ変わり、土は薄い霧へ溶け、霧は逆流するように足首へ絡みつく。背後から、爪が地面を裂く音が追ってくる。獣の足音ではない。骨の節が多すぎる、影が重すぎる。夢が生んだ悪夢――それでも、現実の刃物みたいに正確な殺意。
「……っ」
息を吸うたび、喉が冷たい。吸血鬼の身体は疲れにくいはずなのに、ここでは違う。夢の世界は、常識を簡単に捻じ曲げる。彼の“力”も、彼の“理”も、ここでは適応を迫られる。
振り返りたい衝動を抑え、アドリアはただ前を見る。
遠くに、低い丘。その向こうに、灯りが一つ二つ、夜の布を刺すように揺れている。街……いや、街外れの小さな拠点かもしれない。人の気配がある。だったら――。
背中に熱が走った。
何かが、空気を裂いて来た。見えない“棘”のようなもの。痛みは遅れて、鋭い液体になって広がる。肩甲骨のあたりから、赤黒いものが噴き出した。
「……あ、は」
足がもつれる。倒れそうになり、手をついた土がぬるりと沈む。土ではない。墨のように黒い、粘つく何かが地面の表層に滲んでいる。悪夢が“染み”として残したものだ。
その黒が、追ってくる存在の輪郭を濃くする。
霧の向こうで、目だけが光った。獣の目ではない。祈りを笑うような光だ。
――飛べ。
背に、翼を引きずり出す感覚。骨がきしみ、皮膚が裂けそうになる。未完成の推力。浮遊。補助。アドリアは知っている。ここで飛べば、逃げられる可能性は上がる。でも同時に、相手に“自分が何者か”を見せることにもなる。
(必要な時に、必要なだけ)
母が教えた言葉ではない。けれど、母が彼に残した“生き方”の延長だ。
アドリアは痛みに目を細め、背中の気配を解放しかけ――
黒い地面が、指を掴んだ。
墨のようなものが、手首から腕へ絡む。熱くないのに焼ける。血ではないのに、血を奪われる感じがする。夢の世界が「吸う」感覚。理屈を無視して、存在を削る感覚。
「……やめろ」
言葉は弱い。相手は言葉を理解しない。理解する必要がない。
アドリアは無理矢理に立ち上がる。剥がすように腕を引く。黒が糸を引いて伸び、切れる瞬間に、痛みが跳ねた。肩の傷から、血がぽたりと落ちる。血は地面へ落ちた途端、赤いままではいられず、灰色の花弁みたいに散った。
(……ここは、僕の世界じゃない)
喉の奥が渇く。飢えが、傷口から侵入してくる。
追い立てられると、飢えは慈悲を奪いに来る。自分の中の“怪物”を呼び覚まし、選択肢を狭める。
灯りが、近い。
だが足が、重い。さっきの棘が深い。体の中心が冷え、視界が一瞬だけ滲む。夢の夜が、彼の意識をゆっくり沈めようとしている。
背後の音が急に大きくなった。距離が詰まった証拠だ。
アドリアは、最後の手段を選ぶしかなかった。
瞳の色が、黒から緋へ。
振り向きざまに、視線を突き刺す。催眠――命令ではない。僅かな“縫い止め”。意識の足首を掴み、動きを一拍遅らせる技術。相手が人間なら、たぶんそのまま眠らせられた。だが、悪夢は人間じゃない。
それでも、効果はあった。
霧の中の影が、ほんの一瞬、躊躇した。
その一瞬で、アドリアは走った。
灯りへ。人の気配へ。生の匂いへ――そう、吸血鬼の嗅覚が“生”を捉えた瞬間、喉が鳴った。
(違う)
牙を噛み締める。
今は、守るために。逃げるために。
だが足が限界を超えた。
丘の手前、草地へ転がるように倒れる。胸の中で、心臓が鳴っていないはずなのに、鼓動みたいな痛みが響く。
視界の端で、黒いものが迫る。霧が裂け、爪が伸びる――
そして、その爪が止まった。
誰かの気配が、音もなく割って入ったからだ。
「……うるせぇな」
低い声。そっけない。苛立ちすら含む。
けれど、冷たさの奥に、研がれた判断がある。
アドリアのぼやけた視界に、白い髪が映る。月明かりを弾くような白。そこに一筋、茶色のメッシュ。目は茶色。表情は乏しい。小柄な体躯が、夜に溶けているのに、存在だけが妙に重い。
男は、霧の向こうの“黒”を一瞥した。
「……悪趣味な染みだ」
その言葉の瞬間、空気が変わった。
男の周囲だけ、夢が“正される”ような感覚。草の形が定まり、地面の輪郭が固まる。現実が一歩だけこちらへ寄って来る。ドリームランド特有の“修正”が、彼を中心に起きているのか、それとも――彼が起こしているのか。
黒い影が、嫌な気配を漏らし、霧へ退いた。
催眠の残滓もあるだろう。だがそれ以上に、“ここは危ない”と悟ったように。
アドリアは息を吐こうとして、咳き込んだ。血の味がする。
そして、ようやく痛みが遅れて全身を支配し、意識が滑り落ちていく。
最後に見えたのは、真珠色の髪の男がしゃがみ込む動きだった。
「……ガキか。……面倒だな」
面倒と言いながら、その手は乱暴じゃない。
首元に触れ、脈――いや、吸血鬼にはないはずの“兆し”を確かめるように指先が停まる。
「生きてる……いや、生きてるって言い方も違ぇか」
アドリアは笑いたかった。
けれど笑う前に、闇が優しく蓋をした。
―――
気がつくと、匂いが違った。
木の匂い。乾いた布の匂い。薄い薬草。
そして、微かに桜に似た甘さ――夢の中でしかあり得ない、季節を飛び越える匂い。
瞼は重い。開けると光が刺さる気がして、アドリアはただ呼吸だけを確かめる。息は冷たくない。喉は渇いている。だが、あの飢えの暴走は抑え込まれている。
体の感覚が戻ってくるにつれ、肩の痛みが鈍くうずいた。
包帯が巻かれている。丁寧だ。血の匂いを消すために、薬草が挟まれている。どこかで、彼を“獣”として扱わない配慮があった。
(……拾われたんだ)
ぼんやりと思う。
誰に? 答えは分かっている。白い髪、茶のメッシュ、冷たい声。
部屋の隅から、紙をめくる音がした。
椅子に座る気配。視線の重さ。まるで獲物を観察する肉食獣ではなく、壊れ物を見極める職人の目。
「起きてんのか」
アドリアは瞼を少しだけ持ち上げた。
天井は木組みで、梁が古い。ランプの灯りが揺れている。窓の外は夜。だが遠くに街灯りがある。ここは街外れ、拠点――彼の直感は当たっていた。
真珠色の髪の男が、こちらを見ていた。表情は相変わらず乏しい。けれど、目の焦点は鋭い。逃げ場を塞ぐような視線ではない。状況を測る視線だ。
「……君が、助けてくれたの?」
声は掠れていた。
それでも、敬語を使わない柔らかさは残った。丁寧さだけが、彼の心の支えみたいに残っている。
男は短く息を吐いた。
「助けたつもりはねぇ。邪魔だったから拾っただけだ」
嘘ではない。たぶん。
でも、全てでもない。
アドリアは微かに笑った。笑うと傷が痛むから、ほんの少しだけ口角を上げる。
「……ありがとう。邪魔でも、拾ってくれてよかった」
男の眉が、ほんの僅かに動いた。
呆れか、警戒か。どちらにも見える。
「名前」
「アドリア。……君は?」
「イツキ。桜井イツキだ」
名乗り方が、線を引くようだった。
これ以上踏み込むな、と言う線。けれど同時に、最低限の礼は返す線。
アドリアは、その線を尊重した。
「イツキ。……あの黒いもの、まだ近くにいる?」
「しばらくは来ねぇ。俺の縄張りに悪夢を持ち込む奴は嫌いだ」
淡々と言う。
“俺の縄張り”という言葉に、拠点の空気が少しだけ重くなる。ここは彼の場所だ。彼が守っている。誰かのために守ることを知っている男の場所。
「君は……夢魔、みたいな匂いがする」
アドリアがそう言うと、イツキの視線が一段冷えた。
空気が張る。触れれば切れそうな緊張。
アドリアは慌てて言葉を継ぐ。
「怖がってるわけじゃない。……ただ、君は夢の側に立ってるのに、すごく現実的だ。矛盾してて、面白い」
イツキはしばらく黙った。
ランプの灯りが、彼の白髪を金色に縁取る。茶色い瞳が、じっとアドリアを見極める。
「……余計な詮索すんな。面白がるな」
「うん。しない」
即答した。
それは、彼の礼儀でもあり、彼の生存戦略でもある。深く踏み込めば、相手の刃が出ることを知っている。
イツキは椅子から立ち、棚へ向かった。
水の入った器を持って戻り、無言でアドリアの近くに置く。
「飲め。喉が乾いてるだろ」
アドリアはゆっくりと手を伸ばし、器を持ち上げた。
水は冷たすぎず、甘くもない。けれど、飲み込むと身体の奥が少しだけ落ち着く。
「……君は優しいね」
「違ぇ。合理的だ。死なれたら面倒が増える」
その言い方が、逆に優しい。
優しさを認めると、何かが壊れる人がいる。守るために冷たくなる人がいる。アドリアはそれを見抜いて、微睡みの中で頷いた。
「合理的な優しさでも、僕は救われる」
イツキは返事をしない。
だが、少しだけ視線を外した。窓の外――遠い街灯りへ。
そこに、誰かがいるような目だった。
今ここにいない誰かを、心の中心に置いている目。
アドリアはその視線の先を追わない。
代わりに、包帯の上から肩をそっと押さえた。痛みが確かにある。生きている証拠。いや、生きている“みたい”な証拠。
「イツキ。僕は……しばらく、ここにいてもいい?」
「……条件がある」
やはり、利害を明確にする男だ。
アドリアは静かに頷く。
「僕が裏切る動機がないって、示せばいい?」
イツキの目が僅かに細まった。
図星だ、と言わない代わりに、短く言う。
「余計なことを持ち込むな。騒ぎを起こすな。……それと、俺の“怖いもん”に触れるな」
最後の言葉だけ、ほんの少しだけ温度が下がった。
怖いもの。彼の中にある、黒い“染み”の記憶。アドリアは直感した。あの悪夢の墨に、イツキが過剰に反応したことを。
「分かった。触れない」
「ならいい」
それだけ言って、イツキはまた椅子に戻る。紙をめくる音。記録を取っているのか、魔術の研究か。ここが彼の拠点である証拠が、静かに積み上がっている。
アドリアは器を置き、深く息を吐いた。
痛みはある。飢えもある。追われた恐怖はまだ肌の内側に残っている。けれど――
この部屋の静けさは、悪夢の静けさじゃない。
誰かが守って作った静けさだ。
瞼が、勝手に落ちていく。
微睡みは、吸血鬼にとっては眠りではないはずなのに、ここでは眠りに似た優しさがある。
(……僕は、また拾われたんだな)
遠い昔、母に。
そして今夜、イツキに。
眠りへ落ちる直前、アドリアは小さく囁いた。
「……ありがとう、イツキ」
返事はなかった。
けれど紙をめくる音が、一拍だけ止まった気がした。
次の瞬間、微睡みがアドリアを包む。
ドリームランドの夜はまだ続いているのに、彼の世界だけが、少しだけ穏やかになった。




