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1時間半ほど車移動をする内に、周りは山や森林の風景に変わりはじめた。そもそもこの辺りは田舎だが、ピークハイキングにも選ばれる山脈まで来ると、大自然が空間を成す異世界のようで、人が暮らす場所とは比較にならない。
何度か訪れたことがある場所でも、季節が移り替われば、全く別の表情をしている。夫婦は、大自然の中に足を踏み入れながら、早くも緑の空気に肺を洗われるような、清々しい気分を味わっていた。
「来る度に思うけど、山岳医療も知っておいた方がよさそうだっ」
ステファンは、道中にあった岩を大股で越えては、先導する妻に続いた。山に来ると、自分はすっかり妻のツアー客だ。登山をすることが増えたのは彼女と出会ってからだが、その前にも大学で少しばかり経験があった。足腰はそこまで弱い訳ではなく、息切れもしない。でもそれは、単に妻が緩やかなコースを選んでくれているからかもしれない。
「いいじゃない。考えてみれば? 食いっぱぐれないわよ」
「となると、とうとう山小屋生活になりそうだ」
それもまた悪くないと、ホリーは爽やかに笑うと、軽快に坂道を進んでいく。
朝陽が昇り、やっと今がいつもの朝食時だろう。清々しい山風は、日頃から頭で煮詰まっているあらゆる情報を吹き飛ばしてくれた。ステファンは一度足を止めると、緑の香りが鼻腔を擽る快適さに、暫し浸る。そうする内に、昨夜の妻の話が、ふと、風に乗せられるように頭に浮かんだ。辺りに散らばる自然の輝きが、先行く妻を――自分達夫婦を、導いている。そんな気がした。
水分補給のための休息では、木陰に救われた。麓で言うところのアーバンリゾートのようで、少しばかり、一般的なハネムーンに似た心地よさを感じる。ステファンがそれを話すと、この登山のコスパはいいものだと、妻は笑った。
そんな彼女の、辺りの自然と一体になって咲く花のような笑顔に、ステファンは微笑み返しながら、改めて感じた。妻の生き方そのものに、飛行機や船、豪華なホテルやスパなどは、あまり似合わないだろうと。
全身に沁み渡る水分が、生きた心地をくれる。地表水や地下水から辿って手元に届くなど、一体どれだけの人が意識するだろう。
まだ朝露を残した葉に、陽射しが反射している。それが、隣や上の滴と連なり、細かな光のパレードを眺めている気分だった。
「液晶とはまた違うわよね」
「全く。無影灯の下で過ごすのが殆どだ。せめて見晴らしのいいオペ室にしてもらいたいね」
この瞬間まで、水と光の美しさもまた、忘れていた。
ステファンは、地面に置いたリュックサックに水筒を仕舞うと、樹皮に目が留まった。そこには、漆黒の艶を放つ大角を持つヘラクレスが、枝を目指しているところだった。
そんな力強い存在をいつ振りに見ただろうかと、思わず目を輝かせては、その身体を掴んだ。木にしがみつく腕力に、つい圧倒させられる。
「もう出てきてるのね。夏の知らせってところかしら」
妻の声も余所に、少年に戻ったステファンは、ヘラクレスに喰いついていた。手から強引に逃げ出した相手は、あっという間に、目的の枝に飛びついてしまう。深緑の葉に陽射しが重なるせいか、ヘラクレスの眼が、薄緑に灯って見えた。
ホリーは夫の腕を揺らすと、先を急ごうと促した。
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