22
恩師の労いを耳に、ホリーは肩で大きく息を吐くと、ふと、洗面台の縁に手がいった。そこの手触りに気を引き留められ、次第に眉が寄っていく。
黙り込んでしまうところ、どうしたのかと訊ねる恩師だが、その声も余所に、ホリーはそこに薄く広がる割れ目をなぞった。
「洗面台の側面が割れて、凹んでる……埋めてあって気づかなかった……こんなの、先が尖ったもので叩かないと有り得ない……」
ホリーは、だんだん記憶の引き出しが開いていくと、恩師に呟くように、夫の行動を話した。力を放ちたくなるような何かが、彼自身の中で起きていたとすれば――
その時、外で人が騒ぐ声に、鏡に映る顔が青褪めていく。ホリーはすぐさま窓を閉め、カーテンを引いた。恩師の気遣いに応えようにも、声が震えてしまう。
「ダレン、外に出られないかも……」
動悸が激しくなると、ホリーはその場に小さくしゃがみ込む。
異変を察した恩師は、そのままゆっくり深呼吸をし、安静にするよう指示した。また、外には出ず、警察には自分が連絡するとし、通話を切った。
彼の声が聞こえなくなると、ホリーは更に萎縮してしまう。鳴りもしない電話の音が、耳の奥で響いている。身体を突き破ろうとしてくる鼓動は、玄関を叩いてくる拳の音だ。その音に、腹や胸を鋭く突かれるようで、痛みに身体が捩れてしまう。
床に横になると、両耳と頭を包んだ。何か、息子のために音楽を思い出そうとする。だが、その焦りを上回る、記者の問い質す声が、波の如く押し寄せてきた。それは全身を圧迫し、広いバスルームをガス室のように変え、ホリーは、込み上げるものを叫びに変える。
「止めて! 彼はそんな人じゃない! この子は何も悪くない!」
夫をあんな目に遭わせたのは自分だ。罪のない息子を、いつまでも外に出られないようにしたのも――家族を壊しているのは、自分だ。
「2人に酷いこと言わないでっ……」
薄暗いバスルームに、涙で掠れた声がこだまする。
「この身体を、あげるから……守ろうとしてくれる彼を、どうか……彼は、人のためになれるから……神様……」
警察の言葉が脳内を巡っていた。夫に襲撃の容疑がかけられかけている。それを救えるのは自分しかいないはずだというのに、足に力が入らない。
バスルームのドアをどうにか開け放った。涙と辛苦に溺れ、激しい咳に邪魔をされる。それでも力を振り絞り、玄関前まで床を這って進んだ。
汗と涙にぬれた肌に、塵が貼りつく。玄関からの声は、隣人のものではない。何かを囃し立てるそれは、情報を嗅ぎつけた記者達や、スキャンダル欲しさに興奮するメディア関係者達のもので、ホリーは怒りに歯を鳴らした。
「いい加減にしてっ……ここはっ……私達の家よっ!」
限界の糸が切れた途端――空のスリッパ立てをドアにぶつけた。その音が騒ぎを撃ち消すと、ホリーはようやっと立ち上がる。息を整えながら、震える足でリビングに向かった。
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