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食事を終え、ステファンはベッドに腰掛けていた。スタンドライトに照らされる中、自然と医学書に食い入ってしまう。毛布に仄かな陽射しの香りが残っているおかげで、心地よく勉学が進む。妻の完璧に行き届いた家事にも救われる。けれども、捗る上での最も大きな理由は、この部屋にすっかり染み込んだ香り――特別な癒しだ。
ほぼ毎日、手術に立ち会ってきた。今日行った手術内容も、初めてではない。だが、そこには常に違いがあり、知らない所に放り込まれたような感覚にさせられる。積んだ経験に自信をもってはいても、それに縋り過ぎないようにしていた。
患者を――その人を構築している細胞を視る。それを侵している病魔がもたらす異変を分析する。
ただ術歴を遡るだけでは足りない。これまで、医師達がどのように病と向き合ってきたかを知っていく。多くの歴史から糸口を見つけ、そこで得た知識を、現代に引き出していかねばならない。
「あなたも私のこと言えないじゃない」
ステファンは肩から大きく跳び上がり、突然現れた妻を振り返る。
ホリーは小さく笑いながら、夫の肩に寄り添うと、そのブラウンの短髪に優しく触れた。
「今日も過酷だった?」
「いや、全然……だからだよ」
ホリーは首を傾げ、真っ直ぐに夫を見つめたまま、その先を待つ。厚い医学書が閉じられる音が、そっと部屋に響いた。
「上手くいき過ぎてるからさ。どこか無意識だったんじゃないかと思って……それくらい定着したんだろうけど、素直に安心できなくてな」
言いながら本を弄るのは、まだ発言が続く際に指が絡む動作と同じだと、ホリーはすぐに分かる。夫だけが見つめる何かを一緒に見たく、彼の横顔からその手元に視線を往復させた。
「君が、動物の言葉を聞きたいって言うのと同じだ。君は、自分なりにその方法を持ってる。でも、それが上手く使いこなせず、聞き取れない時だってあるだろう。今日の俺が、まさにそんな感じ」
「……そんなこと、今まで言ってたっけ?」
ステファンは微笑み、首を横に振った。医学書をスタンドライトの側に置くと、身体ごと妻に向き直り、その髪を柔らかく摘む。
乾かされてしばらく経ってからの彼女の髪は、まだ温かい。長く、黒い艶やかな波を立て、毛先まで温度が行き渡っているのを、じっと感じ取る。
「前は、君は不思議なことを言うなって思うだけだった。でもよく考えたら、俺も何かの声を聞いて動いてるんじゃないかと思って……」
動物の話し声が分かることで有名になった人物のドキュメンタリー番組を見たことがある。また、動物と会話ができる獣医の映画もある。
動物好きの妻は、それらをただ笑って楽しむよりも、彼等の素晴らしい能力に目を輝かせていた。そして真剣に、そんな風になれればと願って口にしていた時もあった。
それを何度笑ってきたのか、ステファンは分からなかった。今ではそんな自分を、すぐにでも殴ってやりたいと思う。
「患者さんの声じゃないの?」
間を置いてから、ホリーが訊ねた。夫が聞ける声など、手に取るように分かる。こちらの声が届かないくらい、彼は患者とその病状に向き合ってきた。あまりに時間をかけ過ぎるため、指摘されていたことも知っている。だが、その改善は彼にとって少々難しく、苦労している姿も見てきた。それを見る度に、あるがままの彼を受け入れたいと思ってきた。彼のそんなところに救われている命もまた、あるのだと。
ところがステファンは、それとはまた別だと、どこか躊躇いながら口を開いた。
「細胞……」
部屋は、しんとした音だけになる。互いを確かめ合おうとする指先の動きや、そこからの温度。視線を取り合う音無き音が、籠っていた。
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