3
ガレージから家に上がった途端、トマトベースのポトフの香りが、空腹をより掻き立ててきた。妻だけのはずが、ダイニングとキッチンは随分と騒がしい。相変わらずだと、ステファンは半ば呆れながら、返事を貰えないことを承知で、帰ったと口にする。
「そう、そういうこと。だから、週末から月曜日だけは連絡してこないで。頼んだわよ。電波も通じないだろうから。通じたところで出ないけど。でもその講義の件は引き受けるから、後で大学の詳細と、そっちにある猟犬の資料を送ってちょうだい」
その早口は電話口の相手に迷惑ではないのかと、ステファンは気にかけながらキッチンの入り口に立った。
その姿を目にするや否や、妻は口をあんぐりさせる。しかし、ポトフを混ぜる手は止まらない。ステファンには決して真似できない器用さだった。
「もう駄目! 休みが始まってる! 見て、もう1分も過ぎてる。じゃ、来週よろしくね」
妻は電話を切ると、ダイニングの端の1人がけソファにそれを放り投げ、ステファンに飛びついてはキスをした。
「何でもないのよ。よく喋るスープなだけ。仕事なんてしてない」
「よかったよ。で、スープはどんな講義を受けるんだ」
妻は火を止め、適当に視線を泳がせては、パッと顔を明るくさせる。
「鍋に一緒に入ってる肉を気にしてるみたい。どこでどんな風に育って、どんな経路でここに辿り着いたのかって。コクに関わるからじゃないかしら。ストレスがかかったものだと、同じ鍋で煮込まれる仲間として、きっと困るのよ」
「それは気にする側の問題だ。神経質にもほどがある。ブレンドを恐れるなら、最初からその鍋に入るべきじゃない。言ってやったらどうだ」
ステファンは妻の隣に立つと、鍋を覗く。
「他の客人だっているんだぞ。何も、あんたにだけに影響が出るもんか」
「……ああ! もしかしたら、肉に既定よりも多目のスパイスを擦りこんだから、ピリついてるのかもね!」
妻は、肉を仕込むのにスパイスを落とし、半分以上の量がかかったのだと言う。ところがステファンは、それを耳にするなり、見慣れた情景が浮かんだ。妻はきっとまた、半量を振りかける手付きでいたに違いないと。
「やってくれたな……君の手捌きの勢いを計算すれば、余裕でハーフを越えるんだ。だから間を取って1/4じゃないとって、前に証明したのに。見ろよ、猟犬にまでこだわるイかれた野郎になってるじゃないか」
もう沢山だろうと、ステファンは溜め息をつきながら妻と向き合う。
「ホリー、一緒に決めた定時はとっくに過ぎてる。休みが始まって1分だって? もう1時間だ」
ステファンに言われて時計を見た妻は、とぼけた表情で誤魔化した。それにステファンはいつもながら胸を擽られると、妻の頬にキスをして笑い返した
ホリーは、在宅ワークの割合が増えていた。彼女は一度集中すれば、時間を忘れるほど没頭してしまう。そのことを夫婦で話し合い、近頃ワークスタイルを決めたところだった。無理にでも守ろうと意識せねば、2人の時間が当たり前のように仕事で埋もれてしまう。
そんな強引な提案をしたのは、ステファンだった。彼もまた、そうでもしなければ時間を確保できない事が多々あり、無理にルールを設ける癖をつけた。でないと、今頃この生活はなかった。
働くことを否定するのではない。ステファンは、妻が仕事に打ち込みながらキッチンにも立ち、近所付き合いも怠らない姿を、誇りに思っている。妻の高い社交性には、不思議と、動物までもが惹かれているように感じていた。
ステファンは帰宅後の片づけを終えると、食卓で開かれたままのハイキングの雑誌に触れた。そこの野生動物を見て、微笑んでしまう。
「本当にいいのか? 日頃から山に行くのに、ハネムーンも山って」
ホリーは料理を並べ終えると、少々気遣いながら、夫の肩に触れる。
「やっぱり別のところがいいかしら」
しかし、ステファンは静かに首を横に振ると、妻に椅子を引いた。
「君の行きたいところが、俺の行きたいところ。そしてそれは、君も同じだった。楽しいに決まってるんだから、どこでもいい」
夫の優しい言葉に、ホリーは頬を撫でられたような気持ちになると、柔らかな笑みを浮かべた。
Instagram・Threds・Xにて公開済み作品宣伝中
インスタではプライベート投稿もしています
インスタサブアカウントでは
短編限定の「インスタ小説」も実施中
その他作品も含め 気が向きましたら是非