1
色付き始めた蕾にも、新しい発見や可能性などの前向きな意味があります。
ここでは、新しい始まりとします。
執刀医が胃切除後の縫合の完了を告げると、助手達は速やかに周辺の手術用具を撤収しにかかる。無影灯が消えたと同時に緊張が解け、彼等は肩を撫で下ろした。
手術中のランプが消え、終了が示された時、ベッドが緩やかに搬送されていく。後から、4時間の集中から解放されたチームメンバーが続いた。
誰よりも後の方に出てきた彼は、キャップとマスク、ガウンを取り払い、冷気を浴びながら颯爽と次の現場に向かう。この助手の役目を、何度こなしたか分からない。だがいつも、終わると暫く首や肩を回してしまう。
「手慣れたもんだな、ステファン。外科専門試験は余裕でパスしたんだって? こちらは鼻が高いよ」
後から現れた執刀医に呼ばれた彼は、涼やかな表情で礼を返した。
「お陰様で。5年の直火生活から、やっと抜けられますよ」
その言葉に、師匠である執刀医は満面の笑みを浮かべ、弟子の肩を力強く取って称える。
「煮詰まって消えなくてよかった。君は近頃じゃ珍しい逸材だ。是非とも、引き続きサポートしてもらいたい」
「その前に休暇を頂けます? そろそろ妻に狩られそうで」
ステファンは、面白半分に首を斬るジェスチャーをしながら訴えると、師匠はそれに釣られた。
「そりゃマズイ。つまり許可を出さなけりゃ、俺も狩られるってことだ」
その通りだと、ステファンは大きく頷く。
「ワイルドライフマネジメントの世界も楽じゃないだろう。どんなもんか興味深いし、その内、君達夫婦と食事ができりゃいいが……何せ、碌な結婚祝いをしてあげられていないからな」
「それは嬉しいです。とはいっても、妻の世界も命に関わるので、なかなか……」
違いないと、師匠は静かに笑った。2人はそのまま軽い挨拶を交わすと、互いの持ち場へと別れた。
6月になったばかりだが、既に夏の訪れを感じる。気温はマシになろうとはせず、年々悪化していた。酷く汗ばみ、雨が降ろうものなら、水に飛び込みたくなるほど息苦しい。これでは、本番の灼熱シーズンがいかなるものか、想像すると誰もが恐ろしくなるだろう。
そんなことを考えながらロビーを歩くステファンは、少し白衣を煽ぎ、冷気を取り込んだ。
この地区一番の大病院は、今日も人がごった返している。とはいえ、少し前まで世界中に厄介なウィルスが流行していた時よりも、ずっと落ち着いていた。当時の職務は、ウィルスの分析、その変異に合わせたワクチンの取得から、接種にも追われた。医療従事者はまるで、人ではなくなったような気分だった。
「ラッセル先生、ちゃんと家の掃除はできたの?」
ステファンは、自分の元患者である少女に白衣の裾を引かれ、足を止めた。
「やあ、ゾーイ。心配かけたな。君の指導のお陰で片付いたよ」
「そう。帰れるようになってよかった。これで奥さんに逃げられないわね」
ゾーイは薄く歯を見せ、いたずらに笑う。小児ガンと闘う彼女は、ステファンが研修期間中にある時、最も共に過ごした戦友のような存在だ。
ステファンは、ゾーイの何度も立ち上がって闘病に立ち向かう姿勢に、奮い立たされてきた。大事な時期を切り抜け、資格を得られたのは、そんな彼女を見てきたからでもある。
「それはそうだけど、まだ僕の部屋の方が綺麗だったさ。奥さんは、家に仕事を持ち込んで缶詰だから、掃除どころじゃなかったよ」
「動物の勉強は大変なのね」
ゾーイは目を丸くさせると、やっと少し、大きな声で笑った。親しくしていた医師と久しぶりに会えた嬉しさが、顔に滲み出ていた。
※無影灯
手術中に使用する照明です。影ができにくく作られていることから、その様な名前になっています。いくつかの反射板と光源を組み合わせることで、手術がしやすくなります。
------------------------------
Instagram・Threds・Xにて公開済み作品宣伝中
インスタではプライベート投稿もしています
インスタサブアカウントでは
短編限定の「インスタ小説」も実施中
その他作品も含め 気が向きましたら是非