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松葉杖での生活が始まって2週間。入院の初めは、同僚達は心配をしてよく顔を出してくれた。ところが、退院までの殆どは、名医の卵の患者姿を揶揄うばかりだった。
それから解放され、自宅で妻と過ごせるようになったのはよいものの、自分はどうしても、何の役にも立たなかった。
「本調子じゃないんだから、ゆっくり座ってなさいよ」
「いい加減、ケツが痛いよ。それに歩かないと」
そうやってリハビリに勤しむ夫に、ホリーは焦るばかりだった。前向きなのはいいが、ほどほどにしろと、庭に出て行く夫の背に投げかける。
ステファンは、気にかける妻に笑いかけると、キッチン横の扉を閉めた。
妻が心配するのも当然だった。不安定な微熱が続いており、それは何だか、虫が穴を出たり入ったりを繰り返すような、気まぐれなものだ。入院中でも起きていたことだが、患部の炎症からきているものとされ、鎮痛剤と解熱剤で様子を見ていた。思いの外、傷は順調に回復している。しかし重症の域に含まれるため、完治にはまだ少し時間がかかった。
早くも老後の生活を送っている気持ちになり、急なあまり、過ごし方が分からなかった。今のところ、庭に出て歩行訓練をしながら、植物をじっくり眺めている。皮肉だが、こんな時間ができたお陰で、妻の大事なものを存分に楽しめるようになった。
窓が開いたままの2階からは、電話をする妻の忙しない声がする。家事や身の回りのことを任せきりだが、仕事はできているようで、肩の力が抜けた。
彼女は以前、動物学を教える大学で講義をしてもらえないかというオファーを受けていた。だが、今回の件でライフスタイルが変わり、それを見送ろうとしていた。
その機会は、またとないチャンスだった。ハネムーンでも耳にした妻の知識や想いは、少しでも多く、広く行き渡ってもらいたい。そう願っていることも合わせて、先日、食事の手を止めてでも妻を説得をした。
それから妻は、気持ちを入れ替え、準備に張り切っている。躊躇っていたのがまるで嘘のようで、当日の2時間弱のフライトを共に満喫しないかと誘いまでしてきた。実際は興味深かったが、小旅行ができる訳ではないので、食事の支度をして待っていると言って、断った。
ステファンは、少し庭を往復すると、陽射しを蓄えた温かいバラに触れた。ふと、時が止まったような感覚に陥ると、困難を乗り越えて働く妻の顔が、そこに重なった。
その一方で、碌に働けていない自分に、肩を落としてしまう。外来患者の診察なら出来るのではないかと考えたが、まだまだ移動が厄介で、そのもどかしさに、指先が花弁を放した。
「何考えてるの?」
ステファンは小さく声を上げた。音もなく現れた妻に、半ば怪訝な顔をしてしまう。
「おい何だ、電話してたんじゃないのか?」
「とっくに済んだわよ。だから来たの。で、何考えてたの?」
訊ねる割には、妻の眼差しは既にお見通しのようだ。ステファンは薄ら笑いを浮かべると、バラの隣で大きく咲き誇る、白いアナベルに目を逸らす。それらもまた、陽の光を蓄え、温かなヴィンテージホワイトに染まっていた。
「ひたむきな愛。辛抱強い愛情」
ホリーは、花言葉を口にすると、少年の顔そのものの表情で振り返る夫に、歯を見せた。
「貴方がそんな顔になってしまうのも、私が仕事を断ろうかと思ったのも、その下に、今言ったものがあるから。何を決めるにも、そこには必ず2人一緒にいる。そしていつかは、2人だけではなくなる時が来る」
柔らかくも力強い言葉が、妻の温かい視線と共に、アナベルに向けられた。
ステファンは、知らぬ間に触れ合っていた妻の手に、力がこもる。気温を上回る熱さが、脈にのって全身を巡りはじめた。それは勢いを増し、喉を刺激し、気づけば妻の名を呟いていた。
「楽しみだよ……少し遅れそうだけど」
ホリーは笑顔で首を横に振ると、夫の頬にキスをした。その先に見た空は、雲が多く、日頃から温かな陽射しを放つような夫に、ゆるやかに影を被せていく。
「いいじゃない。これが私達の幸せなんだから。それより、こっちにすぐの楽しみが待ってるの。来て」
ホリーは無邪気に夫の手を引くと、松葉杖が落ちてしまった。慌ててそれを拾うと、気さくに夫の身体を支えながら、共に歩幅を刻んでいく。
「何だよ。驚かされてばっかはもう勘弁だ」
「もう。分からないの? この匂い」
ステファンは顔を上げると、辺りを嗅いでみる。香ばしさと甘さが混ざり合う匂いは、ぼんやりしていた意識を一気に呼び覚ました。
「いつ準備したんだ!?」
「朝に仕込んで、すぐ焼けるようにしたの。コーヒー淹れましょ!」
ラムレーズンのオートミールクッキーが焼けるまで、あと数分だった。
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