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銀色と灰色が入り混じる視界の先に、ボートの底が見える。横揺れするそこから、ぼやけた子どもの泣き声がした。
乱れる視界が、色を取り戻していく。と言っても、赤色をした煙のような何かが、何色とも呼べない燻んだ水中に立ち込め、艶のない気泡が遠ざかっては消えるだけの、不愛想な景色だ。
延々と遠ざかるボートが、更に大きく揺れたかと思うと、それ以上の動きを見せなくなった。
もう誰も、この身体に手を伸ばそうとはしない。もう誰も、自分が息をしているかを気にしない。
覇気を失った思考が、やがて水に溶けだし、消えてしまいかけた時――柔らかい何かが、首に巻きついてきた。不意に立ち込める、強い、甘い香りが、鼻の奥から脳、胸、全身へと巡っていく。
ステファンは瞬きすると、口から気泡が零れた。何かが絡みつく傍ら、容赦なく遠ざかっていくものに胸が締めつけられていく。掴もうにも、掴めない。それでも手繰り寄せたく、夢中で水を掻いた。
そこに置いてきてしまったものがある。それを守らねばならない。それこそが、自分が唯一するべきことのはずだった。
広がる赤色の先で、気泡が弾けていく。それらはだんだん、甘い香りをより一層引き立てながら、あの陥没地に寝そべる華の微笑みを――愛しい人を、呼び寄せた。
「ホリー……君じゃないか……」
ふと、“妻”という存在が、脳いっぱいに満ちると、懐かしさがそのまま声になった。声は、自分自身であることを掻き立てるように、あらゆる記憶を引き出し、みるみる繋ぎ合わせてくる。
首周りに、厚い温もりを感じた時、水を搔き回す手が、柔らかくて細い何かに、そっと掴まれた。妻の波打つ黒髪が、頬や鼻、瞼に触れてくるせいで、目を閉じてしまう。
「貴方は、誰も殺さないでいてくれた……私の無茶な願いを、そんなになってでも守ってくれた……」
それはどうだろうかと、ステファンは、久しぶりの感触を全身に受け止めながら、首を横に振る。だが、妻は全身で包み込んできた。愛おしい香り欲しさに、彼女の首元に顔を埋めてしまう。
「だけど、世界は壊れた……俺はやっぱり――」
ホリーは顔を上げると、夫の唇を指で押さえた。
「貴方は守れる……この先も……今度は、私と一緒に……」
広がる赤色は、小さく千切れ、別れ、やがて溶けて失くなってしまう。
それと入れ替わるように、妻の髪が水中に揺れ、遥か彼方から射し込む陽光で、濁る空間を煌めかせた。
光を浴び、静かに包まれていく妻の姿こそ、懐かしかった。木漏れ日になっていくようで、その柔らかな頬に、何度も触れてしまう。
手も、爪も、もう誰も傷つけることをしなくなっていた。それを感じた途端、ステファンに、溢れんばかりの想いが込み上げてくる。
「綺麗だ……会いたかった……」
ホリーは満面の笑みで頷くと、再び夫を抱き締めた。ステファンは、しがみつく妻の腰から背中へ腕を回し、引き寄せる。ところが、彼女の軽さに首を傾げた。それに気づいたホリーは、夫の耳元で静かに笑う。
「あの子は、あそこ……」
微笑みに、寂しさが滲んでいく。どこまでも深い水中に、濃い日陰を落とすようだった。
間もなく消えてしまいそうなそこを、ステファンは、妻の髪の隙間から眺める。
酷い細胞を得たまま、あの子は産まれてしまった。それに顔を曇らせた時、まるでお見通しだとでも言わんばかりに、妻が目元を微かに光らせたまま、口を開く。
「大丈夫。私達の子だから」
貴方と私の、2つの血が流れているのだから――と、ホリーは夫の胸に手を当てがう。
ステファンはその手を握り返すと、互いの力が失われていくのを感じた。そして、ボートの底を弱々しく見上げた。その周りに、波が陽光を集めていく。眩しくて温かい、数々の光が包んでいく様子は、毛布の中で眠るようだった。
「俺は人だった……あの子と君を愛し続けた、れっきとした……」
薄れていく夫の声に、ホリーは頷く。そして、泡になりかける身体から、声を絞り出した。
「私達は“自然”になる。だから守れる。あの子が、どこにいようとも」
路が違ってしまった――だけどそれが、自分達家族の、長い長い幸せの形。そう信じて、夫婦はやっと心から抱き合うと、唇を重ねた。
Fin.
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