お断りいたしますので
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木製の扉をノックする音が響き、よく知った顔のメイドが私を起こしにきた。
懐かしい、実家にいる頃はよくこうやって朝のギリギリの時間までまどろんだものだ。
走馬灯の続きかもしれない、一番幸せな時間を思い出させてくれるのは優しいなあ。
「起きてください、お嬢様。本日は婚約者様候補様とのお顔合わせの日ですよ」
一向に起きようとしない私の掛け布団をメイドが剥がし、カーテンを開けられる。
「もう結婚なんてこりごりよ…」
「何を人生悟ったみたいなことを言っているんですか、うら若き乙女でしょう?」
「20代後半は乙女で良いのかしら…」
私が夢見がちにそう言うと、メイドは怪訝な顔をして私の顔を覗き込む。
「お嬢様、体調がよろしくありませんか?」
そしてそっと私のおでこに手を当て、「熱はないようですが…」と呟く。
…あれ?、と次に怪訝な顔をするのは私の方だ。
メイドの…ミリー。ミリーの手はひんやりとしていて、いつも心地が良かった。
その感覚が今まさに、私のおでこから伝わってきている。
おかしい、何かがおかしい、と頭の中が警鐘を鳴らす。
ガバッと起き上がり、手を見つめる。
手にはあかぎれもペンだこもなく、紙の触りすぎで乾燥もしていない。
「嘘…そんなまさか…」
ほっぺたを強く引っ張って見ると、ただただ痛さが伝わってくるだけで、その何の変哲もなさが、私にこれが現実であることを告げていた。
「お嬢様!お顔はおやめください、先ほども申し上げた通り本日は大切な日なのですよ。何でも王都から伯爵家の方が来られるそうじゃないですか。力関係は拮抗していますが、あの大きな顔をするばかりの伯爵家に、辺境伯の麗しさを見せつけてやりましょう!」
ふん!と意気込むミリーは、テキパキと私の身なりを整えていく。
未だ混乱してはいるものの、その様子を眺めながら私は、どうやら時間が遡っているらしいと結論づけた。
あるいは…そう錯覚しているだけなのかもしれないが。
今日は、あの元夫…アイク・アージリーがやってくる日だ。まだ伯爵にはなっておらず、あくまでも伯爵家の嫡男、という立ち場。
正直顔も見たくないが、さすがに当日に予定を覆すことは難しいだろう。前世?前回?は貿易の利益もあるし、そんなに悪い印象の人物でなければうまくやっていけるだろう、と思っていたけれど…。
さすがに今回も同じ末路をたどるのは嫌だし…何よりも顔も見たくない最低な男に、人生を費やすつもりは毛頭なかった。
私は次こそは自分を大切にしたい、そう思いながら死んだのだ。
どうしてこんなことになっているのかは分からないけれど、これが現実だと言うのであれば、自分のやりたいようにやろうと思う。
朝食に顔を出すと、両親がいた。
朗らかで少し頼りない父と、繊細で心配性な母。どちらも中央貴族には向いていない性格をしているのは明らかで、私からの手紙がないことにも、きっと心配していたことだろう。まさか連絡を握りつぶされているとは思わなかったに違いない。こんな暖かな両親をだまそうとするアージリー伯爵も、見て見ぬ振りをしていたその周りの人物達も大嫌いだ。
朝食の席に着くと、自然と婚約の話になった。
「アージリー伯爵家と婚約ができたら、そりゃあ領地の発展にとっては素晴らしいことだけれど、ジャスミンが少しでも嫌だと思ったら断っていいからね」
あの頃と変わらず、貴族としての利益よりも私の幸せを考えてくれる父の言葉に心がじんわりと温まる。
「ええ、お父様。そうさせていただくわ」
「何だか…強くなったなあジャスミン…これが子離れって事なのかなあ…」と父はしんみりしている。
「ジャスミン、断るにしても失礼のないようにしてね。伯爵家ともめると後が大変で……。でも、あちらの方々と親族になるともっと大変になるかしら…ああ、こんな時、アロンが帰ってきてくれたら良いのだけれど…」
アロンとは弟のことで、この両親を見て育ったせいか、まだ15歳だと言うのにかなりしっかりしている。今は私もかつて通った学園に入学しており、寮生活をしているために顔を合わせることがほとんどない。弟に頼りたくなる気持ちは分かるが、姉としての威厳もある。何より人生2週目なのだから、私は私の力でここを収めてみせる…!
午後になり、いよいよ顔合わせの時間となった。私の少し後ろにはミリーが控えており、服もいつもより気合いが入っていることが見て取れた。一方、アージリー伯爵は私の顔を見るなり、少しぎょっとした顔をしている。当時はこの表情の理由は分からなかったけれど、今なら分かる。これは私の髪色が現王と同じプラチナブロンドであることに驚いた顔だ。そしてすぐにアージリー伯爵はにこやかな顔に変わり、「お初にお目にかかります、アイク・アージリーと申します」と紳士的な礼をする。
これは前回と全く同じ流れだ。私も前回に倣って模倣的な令嬢の礼をする。
お互いに席に座り、当たり障りもない会話の後、いよいよ婚約の話が始まった。
「……という訳で、既にマーグレイブご令嬢もご存じのことでしょうが、我が伯爵家と婚約を結んでいただきたいのです。その美しい所作や言葉使いからも、ご令嬢の人柄が伝わってくるようです。すっかり魅了されてしまいました」
穏やかに笑う様子からは、とてもあの幼さや周りの見えなさは感じられない。…でも、私は知っている。この言葉は口から出任せを吐いているに過ぎず、家同士の利益と、王家に近い人間だという自分の虚栄心を満たしたいだけだということを。自分の幸福を願って行動することは間違いではない。でも、周りにその責任を押しつけたり、騙したりしてその幸福を得るやり方は、少なくとも今の私には賛同できない。
「…まあ、そう言っていただけることは大変光栄ですわ。でも、私はまだまだ未熟な身。親元を離れることへの寂しさもありますの」
「私がその寂しさを埋めて差し上げますよ、何でも好きな物を差し上げます」
自信満々にそう宣言するアージリー伯爵に、私はただ微笑み返す。
そういえば、夫に買って貰ったものと言えば、お茶会の際に必要なドレス数着だけだったなあ、と思い返す。
欲しがればくれたのだろうか。私が欲しがらなかったから、贈り物がなかっただけなのだろうか。
経済的な支援は我が家から受けていたはずだから、お金が足りないということはなかっただろうに。
…ああ、そうか、結婚してほしいものを買ってくれるというのは、実家の支援金で私の欲しいものを買ってくれる、というだけの話なのね。そこには彼からの愛情は含まれていなかったんだ。そんなことに今更気がつく。
「…何か、承諾しかねる条件がありましたか?」
少しふくれっ面で、それでも出来るだけ笑顔で接してくるアージリー伯爵は、まさか断られるなんて思いもしなかったのだろうか。
「…私、好きな物を今探しているところですの。だから、何も要りませんわ」
「は?はあ…そうですか。しかし、貴族のご令嬢であれば結婚するのは役割のようなもので…それを放棄するのは、些か外聞が悪いと思われますが…」
この男は何を言っているのだろう。アージリー伯爵との結婚をしないだけで、誰も結婚しないとは言っていないし、放棄するとも言っていない。ここまで視野が狭かったのかと驚くと同時に、前回の自分の鈍感さが恥ずかしくなる。
「どうやら、価値観の相違があるようですわ…こんな私が嫁いでも迷惑になるだけでしょうし…残念ですがこの機会はなかったことに…」
私が半ば無理矢理締めようとすると、アージリー伯爵は不服そうな顔をする。
しかし、「ご安心ください、私などと結婚せずとも、アージリー様ならすぐに良縁に恵まれますわ。だってこんなにもお優しくて、しっかりしていらっしゃいますもの」と、ここぞとばかりに畳みかけると、アージリー伯爵はさすがに言い返すことはできなかったようで、さらに褒められたことに少し気を良くしたのか、ふん、と外面を作ることも忘れて満足そうにほくそ笑んでいる。
今がチャンスと思い、「では、そろそろ…」とメイドに合図をして顔合わせは終了となり、婚約者候補という話がなくなったことをお父様に伝えた。お父様は心底驚いた顔をしていたけれど、「まだ家にいてくれるのは嬉しいなあ」と喜んでくれて、怒られるかもしれないと思っていたので安心した。
お母様は、最初の方こそ「どうしましょう、どうしましょう!伯爵家に何か因縁をつけられるかも…!」と慌てふためいていたけれど、特に向こうから連絡が無いことを知ると、徐々に落ち着いていった。
「良かった…これで、私、あんな目に遭わないで済むんだ…」
自室で1人で横になっている時、私は少しだけ涙を流した。
正直、怖かった。でもアージリー伯爵はやっぱり元から私に興味がなかったんだ。
だから少しおだてただけでご機嫌が帰っていった。
明日から…何をして過ごそうか。
結婚することが貴族の令嬢の役割だけど、実は外で働いてみたさもある。
前回の自分は仕事そのものは苦じゃ無かったし、向いているのかもしれない。
でもさすがに領地の経営をさせてもらえる訳ではないだろうし、どうせならもっとやりたいことを探してみたい。
何が良いかな…私は心が戸惑いながらも浮き足立つのを感じた。
どうぞこれからもよろしくお願いします
楽しんでいただけると幸いです!