感情優位の社会とその問題点
現代の社会は、情報の即時性と可視性が極度に高まったことにより、感情を優先させる傾向が強くなっている。SNSやメディアの普及は、ニュースや出来事に対して「どう感じたか」を即座に表現し、共有することを促している。その結果、「何をどう考えるか」よりも「何をどう感じるか」が、個人や集団の行動を決定づける軸となっている。
このような感情優位の社会では、論理的な議論や思考が敬遠されがちである。なぜなら、感情に基づく主張は即時的な共感を得やすく、複雑な論理構造よりも分かりやすく、広まりやすいからだ。特にオンライン上では「いいね」「シェア」などのリアクションが可視化されるため、感情的な発言が評価され、強化されやすい仕組みになっている。
この傾向は社会全体に以下のような問題をもたらす。
第一に、「感情が正義になりやすい」ことである。ある出来事に対して「怒り」や「悲しみ」が大きく表明されると、それが社会的に“正しい”とされる風潮が生まれる。しかし感情は個人的なものであり、必ずしも事実や全体像を反映するものではない。感情が強ければ強いほど、他の意見や事実が排除されやすくなり、冷静な分析や多角的な視点が失われていく。
第二に、「論理が疑われる」という風潮が生じる。冷静に因果関係を分析し、反証を提示しようとすると、「冷たい」「分かっていない」といった反発が返ってくることがある。これにより、論理的な議論が“感情に共感しない非人間的な態度”と誤解され、建設的な対話が成立しにくくなる。
第三に、「短絡的な判断」が蔓延する。感情に基づいた即断即決は、長期的な視野を欠いた選択を生みやすい。一時的な怒りによって炎上が起きたり、感情的なキャンセル文化が発生したりすることで、個人や組織が不当な非難を受け、社会的な分断が進むリスクが高まる。
感情を持つこと自体は悪ではない。むしろ人間らしさの根幹であり、他者への共感や倫理的な判断には不可欠である。しかし、感情に「支配される」ことは別である。感情が思考の唯一の軸になったとき、人は情報の選別や評価ができなくなり、集団としての判断も不安定になる。
ChatGPTのようなAIとの対話では、感情的な反応ではなく、構造化された問いかけと応答が求められる。その環境に慣れることは、感情を否定せずに「理性によって感情を制御する」という健全な思考習慣を養うトレーニングとなる。
論理的思考とは、感情を冷却するための道具ではない。それはむしろ、感情を誠実に扱うための「フレーム」である。感情があふれる現代だからこそ、私たちは論理の力によって、それらを整理し、伝え、正しく意味づける必要があるのである。