海の記憶
もうここにあの子はいないから
海は知っていた
人間の愚かさを。
海は知っていた
自然の儚さを。
海は知っていた
生命の尊さを。
拝啓 母上へ
母上、大変驚かれたことでしょう。私は今日大空へと飛び立ちます。
長い年月、手しおにかけてお育てくださいましたが何の恩も返さず先に行く親不孝者な私をお許しください。
この身を天皇陛下のために捧げること、誇らしく思います。
たとえ異国の海に果てようとも、泣かずに褒めてください。
最後に母上に会えなかったことが悲しく、残念に思います。
もし、私を思い出したのなら海を御覧ください。私が最後に見た景色です。
この身が果てようとも海より母上を見守っております。
どうかお元気で。
この手紙が届いたとき、この子はもうこの世にはいなかった。
父親はこの子が幼子のころに他界し、これまで女手ひとつで育ててきた大切な息子だった。
宝物だった。この命に変えても守り抜きたいと本気で思っていた。
しかし現実はどうだ。
守り抜けなかった後悔が心の底から這い上がる。
苦しかったであろう、寂しかったであろう、どんな気持ちでこの子が海に散ったのか、もう知る由もない。
残されたのはこの紙一枚のみ。
あぁ何を希望に生きていけばいいのか。
誰を想って祈ればいいのか。
気がつけば日は暮れていて外から聞こえる波の音がひどく大きく、耳に入る。
誰かに呼ばれるように、なにかに導かれるように、外へ出た。
さぶんさぶん
浜辺に近づくと波の音はよりいっそう大きくなる。
夜空に輝く月を写して、暗い色をした海が唸っている。
子を守れなかったことを責めているかのように、
泣き声をかき消すように、
波の音が止むことはない。
まだ18の子どもだった。
未来があった。
生きるべきだった。
あまりにも重い戦争の二文字があの子を連れて行った。
それでもあの子は母を恨まなかった。
泣かずに褒めてくれと言った。
「あなたを、誇りに思います。よく頑張りました。」
声にもならぬ声で褒めた。
ひたすら褒めた。
あの子を想いながら。
変わらぬ海の音が先程より優しく聞こえた。
あの子はここにいるのだろうか。
母のもとには帰らず、海へと帰っていった。
でも、母はまだ帰れません。
やるべきことがあるから。
まだ行けない。
悔し涙に溺れる暇なんてない。
「どうか愚かな母を、守れなかった母を見守っていてね。」
いつかあなたに『おかえり』と言いたいから。