◆6月30日 窓際の二人(5)
「俺はその、自分の父親を名乗る男によってこんな身体にされ、アイツの都合のいい女に仕立て上げられようとしている。そういう疑いを持ってるんだ」
こいつは……、とにかくひと通りは真面目に話を聞こうと努力している俺の真摯な決意をトコトン挫きにくるなあ……。
俺は鷹宮の衝撃発言を真顔で受け止めつつ、心の中でそうぼやいた。
こちらが話の真偽を測っていたつもりが、もしかして俺の方が何かを試されているのだろうか。
だが、これも惚れた弱みだ。彼女に嫌われたくない、幻滅されたくない、話せる相手だという評価を得たいという打算が、俺を彼女が期待するような聞き手にさせる。
「……仮にそうだとして、父親の目的は? 都合がいいって、どういう意味で?」
「分からない。家同士の政略結婚に使おうと思ってるのかも知れないし、単に厳しく躾けることが娘の人生にとって良いことだと信じているだけかも知れない。
ただ、俺が最もそうあって欲しくないと願っている可能性は、俺のことを自分の愉しみのための人形として傍に置くことだな。従順な、自分の欲望を満たすための奴隷のようにして」
グロテスクな想像を口にするわりに鷹宮の口調は落ち着いていた。
自分の脳が他人の脳の寄せ集めかもしれないと震えて語っていたときとは対照的だ。
「穏やかじゃないな。仮にも父親に向かって」
「実の父親じゃない。養父って言ったろ? 使用人以外の家族はそいつだけなんだ。遠くの親戚から養女として引き取ったのは鷹宮遥香が物心付く前だって。これは使用人から聞いた話だが。……どう思う? 記憶のない俺の身になって考えてみてくれ。なかなかのもんだろ?」
「…………」
これは間違いなく偏見で、鷹宮道実にとっては不名誉極まりない言い掛かりに違いないが、大きな屋敷に迎え入れられた養女という響きだけで、そこはかとないインモラルさが漂うのは何故だろう。
ヒヒジジイのような好色な男が舌舐めずりをしながら、鷹宮に後ろから覆いかぶさるシーンを想像して俺は気分を悪くする。想像の中の鷹宮は何故か和服姿で、従順に目を伏せ、自分より何回りも年上の男にその身を任せていた。
そんなこと、決してあってはならないと内心の憤りをなだめながら、俺は自然とその妄想を否定する材料を探す。
「自分の記憶喪失の原因が父親だって、そんなふうに考える理由を訊いてもいいか?」
「ああ。俺が目を覚ましたとき、記憶がなくて慌てて、随分みっともなく騒いだんだが、自分を親だと名乗るあの男に向かって、俺はお前の娘じゃない、別人だと主張しても全然驚きもしなかったんだ。養女とはいえ自分の娘だぞ? それが記憶をなくしたって騒いでるのに全然動じたふうもなく」
「大人だからだろ。動転してる娘をそれ以上不安にさせないように、自分は気丈に振舞ってたってことも考えられるんじゃないか? 内心で何を思ってるかなんて、分からないんだし」
今の俺みたいに。
「内心は大体想像が付くよ。『なるほど。こういう結果になったか』だ。《まるで実験動物の観察をしてるみたいな態度》だった。俺が記憶をなくしていることは予め想定の範囲内って感じの。俺からいろいろ聞き出して状況を確認したあとは、使用人たちに向かって手際よく今後の指示を出していたな」
「今後の指示ってどんな?」
「俺を家柄に相応しい淑女として再教育することだ。言葉遣いや姿勢、歩き方については屋敷にいる住み込みのメイドみたいな連中にレクチャーを受けた。いや、受けさせられてるって言った方がいいか。今は主にピアノや書道、テーブルマナーとかだな」
「髪の手入れとかセットの仕方とかも?」
あと護身術も。
「髪? ああ、これは毎朝メイド連中が勝手にやるんだ。お嬢様だからな」
そこまでいくとお嬢様というよりお姫様のようだがなあ。
だが、《女歴三カ月を自称するわりに手慣れたスタイリングの理由》は一応それで説明が付くわけか。
俺の中で真偽を量る天秤が再び揺れ動く。
話の断片から紡ぐ勝手な想像でしかないが、男だと主張して不貞腐れながらも、家人から女性として恭しく扱われる鷹宮の日常を覗き見てしまったような妙な気分にさせられる。
それはそれで、なんというか……いいな。
俺が目の前の鷹宮と想像の中の鷹宮を重ね合わせて悶々としていると、そんな俺の沈黙と視線の意味をどんなふうに解釈したのか、鷹宮が急に明るい口調になって言った。
「骨格が女の作りだからってのもあるが、身のこなしはまあまあ様になってただろ?」
実際は、まあまあなんてレベルではなく、男も女も全員が見惚れるような完璧な所作である。
これまでの深刻な表情から一転して少し得意げにする鷹宮を見て、不意に俺の中にからかいたくなる悪戯心が湧いた。そういう意図が伝わるように、フフンと含み笑いをしながら言ってやる。
「なんだよ。まんざらでもないのかよ?」
「は、はぁっ⁉ いや、違う。今のは、単純にその努力を誇りたかったっていうかだなあ──」
「それは置いとくとして、まあ、確かに少し妙だな。記憶がないと言いだした娘に、真っ先にやろうとしたのが女性らしく再教育することだなんて。……病院には?」
「いや……、行かされてない」
俺が強引に話を本来の筋に戻したので、鷹宮も不承不承そこに話を合わせることになる。
本当は俺にからかわれたことを否定したがっているのは丸分かりだった。そうやって、ちょっと拗ねたように唇を尖らせる表情も可愛らしい。
教室などで彼女がこれまでずっと醸していた超然とした雰囲気、絶対零度と評される塩対応を見てきた俺としては、なんというかもう、彼女が何をしていても可愛く思えて仕方がなかった。
「もっと妙なのは、女学院に復学するときの説明として、俺が《交通事故に遭って入院してたって扱いになってた》ことだ。もし本当にそんなことがあったなら、なおさら医者に掛からないのはおかしいだろ? 大体、《身体中どこを見てもそんな大怪我をした痕跡がない》」
そう言いながら鷹宮は、自分の両腕の内側を上向きにして揃え、俺の方に差し出してみせた。夏服の袖口から伸びる真っ白な肌が眩しい。生まれてこのかた日焼けなど一度もしたことがない肌に見える。
「まあ、確かにな……。それについて、父親はなんて説明してるんだ?」
「なんにも。使用人連中に訊いても全員存じ上げませんの一点張りだ。箝口令でも敷かれてるんだろう。そもそも交通事故って話も、俺が学校で他の生徒づてに聞いた話なんだ。《鷹宮遥香が一年間休学してたのは間違いないらしい》が、本当にそんな事故があったかどうかは疑わしいな。
俺はその一件が分かったことで、鷹宮道実と屋敷の連中に対して一気に不信感を募らせたよ。もちろん、奴が学院長をしている女学院の人間にもな」
俺は鷹宮の口から語られる話と、俺がこれまで人づてに仕入れた情報を突き合わせて、彼女自身の人物像と、彼女を取り巻く状況を頭の中で組み立てていく。
「もしかして、鷹宮が向こうで窓ガラスを割って回ったっていう噂って……」
「ん? ああ、そうだな。そのときにちょっとな……」
なるほど、それでか。
俺は鷹宮が鷹宮女学院から転校せざるを得なくなった『窓ガラス全壊事件』の真相を彼女なりの抗議活動の一種だと結び付けて考えた。
随分過激な手段に訴えたものだが、今の話だと、鷹宮道実の影響力の届かない学校へ転校することが、彼女の狙いだったように聞こえる。
しかし……。
断片的に聞いた限りでだが、《鷹宮の周囲の反応が要領を得ない》のは確かに気になるな。
本当は交通事故などなかったのに、本人の記憶喪失について学校側に説明するためにそんな虚偽の報告をする必要があったのだろうか。
理事長であり学院長でもあるという鷹宮道実なら、学院内での絶対的な権力を使って、休学や復学程度いくらでも体裁よく取り繕えそうなものだが。
逆に、本当に事故があったと仮定すると、鷹宮の身体にその痕跡がないのはおかしい。鷹宮が想像の中で超高度な医療技術の存在を作り上げたのは、その辺りに端を発するのかもしれない。
どちらにしろ、何らかの怪しげな作為が浮かび上がって見える。
《少なくとも、記憶喪失の鷹宮自身が疑心暗鬼になるだけの材料はあった》わけだ。
まあ俺からしてみたら、鷹宮から聞いた話がすべて、彼女自身が創作した虚言や思い込みでなければ、という注釈が付くのだが。
──ん? 自分の惚れた女が折角打ち明けてくれているのに随分胡乱な見方をするじゃないかって?
いや考えてもみろ。男女入れ替わりなんて話、創作の中では掃いて捨てるほど存在するが、実際自分の身体がそうなったわけでもなく、何の証拠もなしに他人の口から聞いただけの話をすんなり受け入れられる訳がないだろう。
相手を好きなことと、その相手の話を妄信することは全く別のことだ。