◆6月30日 窓際の二人(4)
中指と親指。対で計四本の指を使い、おっかなびっくり鷹宮の髪を掻き分ける。
俺はそうやって、どうにか白い地肌を見付けてはそこに目を凝らすという、地道で、やや偏執的にも映る行為を続けていた。
「……すまなかったな。こちらの配慮が足りなかった。君がうなじにフェティシズムを感じるタイプだったとは」
鷹宮がしばらくぶりに口を利く。だが、残念ながらその平板な口調では二人の間の気まずい空気は払拭しきれていない。
フェチがどうとかいう問題じゃなくて、好きな女子にこんな無防備な姿を見せられて理性を保てる男子高校生がどれだけいるかって話だよ。
内心ではそう思っていたが、それを口に出して言えば君にメロメロですと打ち明けているに等しく、悔しかったのでグッと我慢した。
俺が鷹宮に惚れているのは自白済みだが、今は鷹宮が打ち明けた身の上話を聞く対等なパートナーとして認めてもらいたいという気持ちが勝っていたからだ。それとて、彼女にいい格好をしたいという低俗な動機に根付いたものかもしれないが……。
もうこんなもんでいいか、という自分の中での納得を得て、最後に両手でワシャッと揉むように鷹宮の頭を叩いた。自分の後ろめたさを気取られないよう殊更乱雑にしてやる。
「ないっ。少なくとも肉眼で見えるような縫合痕はないぞ」
「そうか」
乱された頭髪を撫で付けて整える鷹宮。
俺が再び彼女の正面に回って椅子に座ると、鷹宮はそれに合わせるようにして呟いた。
「一般的な医療技術を超えた施術がされているとすると、脳移植を証明するのは益々難しいな……」
真剣な、深刻な、思い詰めたような表情と口調。それが、俺にそう見せるための演技のように思えたのは、俺が穿った見方をし始めたからに違いない。
「なあ、鷹宮。自分のことを特別な存在だと思ったり、そう見せたくなるのは思春期にありがちなことだけど、鷹宮の場合はわざわざそんなことしなくても十分特別だからな?」
俺にとってはもちろんそうだし、彼女の周囲をとりまく他の人々にとっても彼女はとりわけ魅力的で、特別視される存在であるはずだった。
「ああっ? 人を中二病か何かみたいに言うなよ」
まずは現実を諭して聞かせ、その後で褒めそやす言葉を続けるつもりだったが、鷹宮はその前段を聞くなり露骨に不機嫌な声を返してきた。
「中二病かあ。そういう知識はちゃんとあるんだよな」
「ん……、んん、まあな」
「どんな知識を知っていて、どんな知識を知らないのかをマッピングしていけば分かるんじゃないか? 鷹宮の……、そのぅ、前の人格がどんな奴だったのか」
「まあ、そうだな……。それについては考えがない、でもない」
「どんな奴?」
「いや、そんな明確な……。っていうか、そのアプローチは正直、自分自身信用が置けないというか……」
鷹宮の言葉は妙に歯切れが悪い。
俺は無理に詰めずに、鷹宮自身の中で整理が付くのを待った。
「実に主観的な話で、信じてもらえないかもしれないんだが……」
「いいよ。信じるかどうかは全部聞いた後で考えるし」
それに主観的なのは今さら断るまでもなく始めからずっとだ。
それこそ開頭した手術痕でも見つかっていれば話は変わったのだろうが。
「そ、そうか。そうだな……」
俺の顔色を窺うことを隠そうともしない。心細さを感じさせる表情。話すのを躊躇うのは、それだけ現実味のない話だという自覚があるからだろうか。
「どうもな……、自分の中にある知識が複数の層に分割されてる感じがするんだ」
「層に、分割ねぇ。それは、外部ストレージにアクセスしてるようなイメージで考えればいいのか? コンピューターで検索するみたいに」
「外部、ストレージ……。検索か。うーん。いや、違うな。層と言ったのは取り消す。もっとごちゃっとした曖昧なものだ。説明が難しい。
例えば……。そうだな。例えば、痕も残さずに脳移植をするなんて今の医療技術じゃできないとは分かってるんだけど、そうじゃない、もっと進んだ医療技術があることも知っているような気がするんだ。なあ、どう思う? これって?」
「どうって……言われてもな──」
「正直言うとそれほどはっきりした記憶じゃないんだ。映画か何かで観たエピソードだとか、夢や空想なんかと区別が付かない。出所に自信がないんだ。ただ、もしそれが本当の記憶だと仮定すると、俺が今置かれた状況にも説明が付く気がするだろ?
例えば、俺は元々一般には知られていないような高度な医療技術を持つ医師だった、とかな」
「う、うん」
鷹宮が俺を信頼して話してくれているのだと考えると安易に否定するのも悪い気がする。
それに、別の記憶がある──それも、今のこの社会よりも高次な医療や科学技術があるという話は、剣呑だ。
この時点で俺にはとある突拍子もない仮説があったのだが、今はまだ、そのことを鷹宮に話すときではないと感じていた。それは一つの仮説として話せるほどはっきりした輪郭のあるものではなかったし、どこか精神に安定を欠くように見える鷹宮を、無用に不安にさせてしまうおそれもあると懸念したからでもあった。
この話はやはり、鷹宮の話を一通り聞き終えてからにしよう。話すべきか否かという判断も含めて。
「俺は最初、脳を丸ごと入れ替えられたと言ったが、実はそれって、その方がまだマシだと思えるからそう言っただけなんだ」
「マシってなぁ……」
「単純化した方が伝わり易いと思ってそう表現したはずなんだが、本当は、無意識で詳細に考えることを避けていたのかもしれない。本当の本気で俺が疑ってるのは、もっとえげつない犯罪行為だ。脳を細切れにバラして、俺と、鷹宮遥香という少女の脳を繋ぎ合わせ、一個の人間にしたんじゃないかっていう……」
鷹宮は何かに浮かされたように、勢い込んで喋り始めたかと思うと、次第に表情を強張らせ、ついには頭を抱え塞ぎこんでしまう。
ほんの少し前までとはガラリと変わった取り乱しかたに俺の方も狼狽える。
「まー待て。落ち着けよ。脳移植は可能性の一つだって、自分でも言ってただろ? なんだか随分脳移植の可能性に固執しているように聞こえるぞ? 落ち着けって。えぇ……と」
俺は鷹宮に顔を上げさせ、目を見て話したかったのだが、頭を持って無理矢理そうしようにも、彼女の頭は彼女自身の両手で抱え込まれてしまっている。
おろおろと数秒逡巡してから、俺は右手でキツネの頭を形作った。そのキツネに上向きの角度を付けて、うつむいた鷹宮の顔に向ける。
「テイッ」
「痛って!」
弾かれた二本の指が、狙い違わず鷹宮の額にヒットする。
鷹宮は額を両手で押さえながら、両目をまん丸と見開いて顔を上げた。
その結果も狙いどおりではあるが、真正面にこちらを見つめる鷹宮のビックリ顔があまりにも可愛く見えたのは想定外だった。
言葉に詰まった俺はとっさの照れ隠しで、今やったのと同じように、中指と薬指を使ったデコピンの素振りをしてみせる。
二度三度続けると、そのうち鷹宮がプッと噴き出した。
「なんだそれ。キツネか? デコピンするなら普通一本だろ?」
「俺流は二本なんだよっ」
ふー、やれやれ。
つーか、なんだこのやり取り。
付き合いたての恋人同士かよ。
困った状況は脱したが、今度は気を抜くとニヤけ出しそうになる顔を引き締めるのに困難を強いられる。
鷹宮は再びノートを手に取り、赤くなった顔を扇ぎはじめていた。
「すまん。取り乱した」
「そんな思い詰めるほど固執する理由は? 何かあるんだろ?」
「う、うん……」
「さっき俺が言った記憶喪失からくる錯覚って話以外でも《いろいろ可能性はある》ぞ? 本当に鷹宮が言うとおり、別の人格がその身体を動かしてるんだって話を信じるとしても。二重人格とかぁ、憑依とかぁ、転移転生とか」
「憑依って……、えらく古典的だな。いや、古式ゆかしい? 妙にオカルト臭いというか」
「はあっ? そもそもTS的なネタにリアリティを持ち出すことが御法度だろ? 言っとくが、脳の生体間移植だって、オカルトぶりじゃあ全然負けてないからな?」
それは鷹宮の「俺は男だ」発言自体にリアリティがないと糾弾したも同然だったが、鷹宮は特に気にした様子もなく話を元の軌道に戻す。
「まあ、脳移植がありそうな話だと俺が考えるのは、なんとなく、それならできそうっていう感覚があるからなんだが……。ちゃんと説明が付くなら別に脳移植じゃなくたっていいんだ。生体ドロイド化技術でも、催眠術でも。
ただ、俺が確からしいと思っているのは具体的な方法じゃなくて、これが仕組まれたことなんじゃないかって疑いがあること。動機の方だな」
「動機? 仕組まれたって、誰に?」
「《鷹宮道実》。地方財閥鷹宮家の当主で鷹宮遥香の養父。名門鷹宮女学院の学長って言えば、君にも分かるか?」
「まあ、その存在ぐらいなら」
顔も知らず、フルネームさえ今聞いたばかりの人物について、俺は、鷹宮が発した次の一言のせいで、最悪に猟奇的な第一印象を抱く羽目になる。
「俺はその、父親を名乗る男によって、こんな身体にされ、アイツにとって都合のいい女に仕立て上げられようとしている。そういう疑いを持ってるんだ」