◇5月16日 校門前(2)
「ハァルキッ」
テンション高く弾む声。
後ろから肩をポンと叩かれて、俺は一瞬で恍惚の淵から引き戻される。
校舎へと消える謎の美少女転校生の後ろ姿を呆然と見送っていた自分の姿を俯瞰して思い浮かべ、その迂闊を悔いた。
学校では近寄りがたい暗いオーラを出しておき、なるべく話し掛けられないようにする。
一学期の初日から徹底していた俺の、そんな完璧に計算し尽くされた方針があっさり瓦解したことを知る。
まあ、それほど隙だらけの後ろ姿をしていたのだろう。
声だけでも十分予想はついていたが、平静を装いつつ振り向くと、そこにいたのはやはり、同じクラスの奈津森未悠だった。
奈津森は僅かに身体を前に傾けて、上目遣いでこちらを見上げていた。
俺はまた一瞬「オヤ?」と思う。
彼女は元から、こんなだったろうかと。
見方によっては媚びているようにも映るあざとい仕草。そんなふうに見えるのは、これまでくすんで見えていた俺の世界が、先ほどの強烈な出来事によって根底から変わってしまったからだろうか。
「珍しいね。ハルキがそんなボーッとした顔してるなんて」
俺から繁々と観察されていることに気づき、奈津森はヘヘッと誤魔化すように息で笑いながら、女友達がいる方へとその身を翻す。
綺麗に色落ちした明るい茶髪のショートカットが、その動きに合わせてフワリと舞った。腰に巻かれた短いスカートと、そこから伸びる健康的な太腿を眩しく見て俺は思い出す。
そうだな。奈津森は元々こんなキャラだった。誰からも好かれる明るい性格。コミュニケーション強者。自分の容姿が他人にどのように映るかを熟知していて、それを磨くことにも余念がない。
朝一から同学年の男子をドキリとさせることくらい、彼女にとっては造作もないことなのである。
今のはその姿を見せた相手がたまたま俺だったというだけの話。変わった様子を見せていたとすれば、奈津森の言うとおり、俺の方だったに違いない。
「なぁにスカシぃ。まさか一目惚れ? よしなよ、キャラじゃないって」
「えっ、あたし? あたしキャラ変わった?」
「吉野じゃなくて、よしなって言ったの。めんどくせーなーもう」
「はー? サワが紛らわしいんだよー」
突然漫談もどきを始めた二人は奈津森の連れの女友達、澤井と吉野。三人とも一年のときから続く腐れ縁である。
「ハルキはさあ。《一年のときのお馬鹿お調子キャラ》が合ってるって。したらモテたのに、そんなスカシキャラじゃ逆効果だって」
じゃれ合おうとする吉野の顔をぐいぐい押し返しながら、澤井が俺の方を向いて言う。
「は? あれでモテた経験なんて一個もないが?」
「あ。てことはー。やっぱハルキのキャラ変はモテ狙いだったってわけね。なー、誰? 誰狙ってんの?」
これだ。俺が少し隙を見せた途端、こいつらは雪崩を打って押し寄せてくる。
えー、こういう場合はどう言ってあしらうのがいいんだっけか。……駄目だ。上手くいかなかったときの記憶しか思い出せない。だが、そうだな。もう今年一年の計画は狂ってしまったのだ。
俺は少し自棄になって白状する。
「あの子だ。今の転校生とお近付きになりたい」
既に歩き出していた四人の足が止まる。正確には前の三人に阻まれ、俺も足を止めざるを得なかったわけだが。
女子三人は揃って振り返り、俺の顔を見て真顔になっていた。
吉野だけが堪え性なく、ぐるりと首を返してよそ見をしそうになるのを澤井が頭を掴んでグイと向き直らせる。「痛っで、なんだよ」とボヤく吉野を無視して澤井が真顔のままで言う。
「いや、それじゃ順番がおかしいじゃん」
「一目惚れって、ほんとだったの?」
「最低だな。ハルキ」
何故、一目惚れをして最低呼ばわりされねばならんのか。特大の理不尽を前に、俺は反骨心を沸き立たせる。
「そうだよ。悪いかよ。あんな美少女見て、惚れない方がおかしいだろうが」
そうだ。俺のこの反応は何もおかしなことはない。ごく自然な、真っ当なものだと、自分を鼓舞する言葉に熱が籠る。
そんな俺を見て澤井はヤレヤレという顔で頭をボリボリと掻く。奈津森は何故か悲し気な困った表情。吉野は小さく「うわぁ」という声を漏らして露骨に引いていた。こいつの反応が一番ムカつき、かつ謎である。
「確かに。ちょっとないくらいの美少女面だったけどさあ。な、なあ?」
「うん……。可愛かったよ、ね」
「てゆーか、お嬢様じゃん。ジイヤ連れてたし」
確かに多少年配ではあったが、あれはただの運転手だろう。ジイヤと呼ばれるような執事の男ではないはず。ただまあ、奇異の目で見られることも厭わず、こんな学校にハイヤーで乗りつけるくらいの家柄。彼女が《浮世を離れたお嬢様》なのは間違いなさそうなところではあるが。
「っそうだよ。なんでこんなとこに転校してきたか知らねーけど、ハルキみたいな庶民じゃ絶対無理だって。釣り合わねーよ。やめとけやめとけ」
どこか間の抜けた吉野の発言に、我が意を得たというように捲くし立て始めた澤井を見て、俺はようやく合点がいく。
そういうことか。始めから無理と分かる相手にのぼせた俺を見て、こいつらはこれでも一応心配して(約一名は露骨に呆れて)くれていたというわけか。
だが俺はそれに気付いて逆に熱が籠る。これまで絶えて久しかった心の炉に火が点されるように、腹の底が熱く火照りだすのを感じていた。
「いや、それはやってみないと分かんねえだろ。家柄だって、調べてみねーと。お前らも手伝ってくれよ。入念に……、まずは慎重に探りを入れるから。そのへんの事情、地雷かもしんねーし。あー、あと、間違っても俺が一目惚れしたなんてこと言い触らすなよ?」
この出会いは一期一会だ。当然ながら。絶対にしくじれない。彼女との出会いに運命じみた特別な何かを感じている俺は、思いの熱さと相反して頭を冷徹に冴え渡らせる。
だが、それを聞く澤井たちには俺の内に秘した決意は伝わらない。当然ながら。
互いに顔を見合わせつつ、澤井が「い、言いぃ……ふらしはしないけどぉ……」と口ごもったのが、この件に関し彼女らがみせた唯一の反応らしい反応であった。