◆6月30日 窓際の二人(3)
「何から話すべき、か……」
ノートを机の上に置き、鷹宮が座ったまま伸びをする。
俺は真剣に話を聴く姿勢を保ちながら、彼女の真っ白な二の腕の裏に鋭く視線を走らせていた。
芸術品だ。超一級の。
「ンー。……そうだな。まず……、俺にはこの三カ月より前の記憶がない」
「お、おう……」
半分は彼女の柔らかそうな二の腕に気を取られていたせいでもあるが、ここで反応に窮した俺を誰が咎められるだろうか。
なるべく茶々を入れずに、傾聴に徹しようと思っていた矢先、強烈なフックをもらったものである。
「この鷹宮遥香の身体で俺が意識を宿したのが今年の4月1日だって話だ」
「…………」
俺を担ごうとしている訳ではないよな、と言い掛けギリギリで止めた。
しかし、4月1日か。キリが良過ぎるな……。
「それまでは別人だったとでも言うつもりか? その前は一体どこの誰だったんだよ?」
「記憶がないって言ったんだぞ? 聞いてたか?」
「ああそうか。そうだった……。でも、なんでそれで身体が別人のだなんて発想になるんだ? さっきは脳移植がどうのとか言ってたけど。それって、そういうことだろ?」
「脳を丸ごと取り替えられたかも、ってのは俺が予想している可能性の一つに過ぎない。記憶を失う前の自分が、この鷹宮遥香ではない別人だった気がするというのは……まあ、そうだ。客観的に示せる証拠はないが、そうに違いないという確信を持っている」
「確信ねぇ……」
「一番分かり易いのはやっぱり性別の違いだな。諸々の違和感が凄い」
主観の話をされても俺としては、そうなのか、としか言いようがない。気が付いたら美少女になっていたなんて、男だったら誰もが憧れるロマン溢れるシチュエーションのはずだが、それも元の記憶を失った状態でとあっては、せっかくの感動も台無しというものだろう。
「違和感以前に……、記憶がないんだろ? 家族とかにはどうやって誤魔化してるんだ?」
「いや? 誤魔化してなんてないぞ。記憶がないことはちゃんと伝えてある」
「お、おう。そうなのか。そうだよな……」
まあそもそも家族相手に隠す理由はないか。
それならこの時期に、わざわざ《こんな遠くの学校に転校してきた理由》も腑に落ちる。記憶を喪失する以前の知り合いに合わなくて済むようにと。家族の理解と協力があれば、それくらいのことはするだろう。
記憶がないせいで多少覚束ないことがあっても、普通に生活するくらいなら支障はないはずだ。
「誤魔化すと言うなら、俺の方が何かを誤魔化されてる節があるんだが──」
鷹宮は独り言と区別が付かない調子でその先を続けようとしていたが、俺の方は咀嚼が追い付かず、先ほどの話題を引きずっていた。果たして本当に記憶を失った人間というものは、自分の性別すらも思い出せないのかという。
「あいにく俺は記憶喪失になった経験がないから勝手な想像で言うしかないんだが、以前の記憶がないんなら、そういう錯覚をしてもおかしくないんじゃないか?」
「ん? ふむ……、錯覚か」
鷹宮は口元に手をやり考え込む仕草をした。
いちおう一考に値する意見であったらしいことに勢いを得て俺はさらに付け加える。
「真っ向から否定するようで悪いが、仮に、記憶を失う前から鷹宮が性同一性障害の悩みを抱えていたと仮定しても、《性別に関する違和感》は説明できるんじゃないか?」
そもそも記憶喪失という話からして、現実感の乏しい極めて稀なケースに思えるが、それでも、脳を丸ごと移植するなんて考えを持ち出すよりはよほどあり得そうじゃないか。
「なるほど……。いいな君は。面白いよ。《チャラい連中とつるんでる》からどうかと思ったが。なかなか話せるじゃないか。気に入った」
俺に向かって屈託のない笑みを浮かべてみせる鷹宮。
意外な反応だが、上々な評価をもらえたことに悪い気はしない。こうみえて科学系の新書好きな隠れインテリ気質の俺に死角はないのである。
しかし、思いつくに任せて否定から入ってしまったぞ。こんな予定ではなかったのに。
「怒らないのか?」
「怒る? どうして? 誰かを説き伏せたくて話してるわけじゃない。相談相手が欲しかったんだ。俺の想像が正しいとは限らないからな。違う視点で意見を言ってもらえるのは歓迎だよ」
「そうか……」
俺は最初に強迫観念持ちのサイコさんだとか思って悪かったよ、と心の中で詫びた。
鷹宮は自分の考えに固執していない。というより、どうやら鷹宮自身、自分の身に起きたことを判断しかねているらしい。
何らかの思い込みがあるにせよ、筋道立てた会話が成立すると分かったのは光明である。
「いま君が言った意見は、《あり得るかもしれない可能性の一つとして保留》だ。俺としては複雑だが、鷹宮遥香としては、一番マシで、ポジティブな仮説かもしれない」
「ポジティブかぁ? 記憶喪失が?」
「ああ。記憶喪失になったのは彼女の不幸だが、死んでしまったわけじゃないからな。ただ、もし本当にそうなら、俺は諦めて鷹宮遥香としての人生を歩むしかないわけだが……」
「鷹宮の考えでは、そのぅ……元の鷹宮遥香は死んでることになってたのか?」
「二人の人間の脳を互いの身体に入れ換えたのなら、俺の元の身体の方で生きている可能性はあるが。脳死した娘を救うための手術だったとしたら、残念ながらそうなるな」
「いや、さっきから簡単に言ってるけどなあ、そもそも本当に脳移植なんてことができると思ってるのか?」
たしか、サルを使った実験で首から上を丸ごと取り替えたという話を読んだことがあるが、その実験にしたって、被検体のサルは長くは生きられなかったはず。いや、思い出したら気分が悪くなってきた。人間に置き換えて考えるまでもなく倫理観がヤバい。すぐ目の前にいる可憐な少女が、そんな悲惨な目に遭ったなどとは想像したくなかった。
「まあ今の一般的な科学力……、いや、この場合は医療技術か。それじゃあ難しいだろうな。なあ、ちょっとこっちにきて、頭のところ見てくれよ」
鷹宮が人差し指で自分の頭頂部の辺りをくるくると回しながら俺を呼ぶ。
「え? 何を見るって?」
「頭だよ。縫合痕みたいな痕跡がないか確かめて欲しいんだ。自分じゃ限界があるし、鷹宮の屋敷にいる人間は信用できないから頼めない」
「うーん」
俺は気乗りしないながらも立ち上がって鷹宮の後ろに回る。縫合痕なんて……、そんなもの見つかるとは思えないが、それで鷹宮の気が済むなら付き合ってやろうかと。回り込んで後ろから鷹宮の頭頂部を覗くまではそんなふうに気軽に考えていた。
が、実際にその、上からの眺めを目にすると気持ちが改まった。
これは良くないぞ。
無防備でいる女子の背後に立ち、彼女自身も見ることのない角度からマジマジと観察するなんて……。
鷹宮の髪からは、先ほど彼女が椅子に座り直した時にそよいだ風と同じ香りがした。
許しを得ての行動とはいえ、それにかこつけて彼女の匂いを嗅ぐことには罪悪感がある。何より、彼女の方は俺がそんな心持ちでいることを知る由もないというのがいけない。
「そんなんで見えるか? ガーッとさ、手で掻き分けていいから」
はぁっ⁉ そんなことが許されるのか?
折角綺麗にセットされた髪が乱れるだろ。
そもそも、女子が自分の髪を男に触らせるってどうだ?
あ、あれ……? でも待てよ。
そういえばこの髪──緩やかにウェーブが掛かった彼女のこの黒髪は、いつも見惚れるほど綺麗に整えられているが、毎朝これをやってるのって鷹宮だよなぁ?
《女として目覚めて僅か三カ月の男》に、こんな見事に行き届いたブローやセットができるものだろうか。
……これは意外なところで味噌が付いたな。
自分を男だと主張する──あるいは記憶がないと主張する──鷹宮の発言の信憑性が俺の中で揺らぐ。
完璧すぎるんだよお前は。女として。
「そもそも……」
「ん?」
「頭を開いて手術するなら、剃るだろ普通」
「…………」
「こんな長い髪を残したまま手術なんてできるわけがない」
「手術後に伸びたんじゃないか?」
「いやっ、無理だろ。こんだけ伸びるのにどんだけ掛かんだよ」
「手術が終わってすぐに目覚めたとも限らないじゃないか」
鷹宮の髪は余裕で肩より下、背中の真ん中あたりまで伸びている。これだけ伸ばすには一年やそこらではとても足りないだろう。
「そこまでして脳移植説にこだわる必要ってあるか?」
「別にこだわってるつもりはないんだが……」
力のない声で否定しながら鷹宮は背中に掛かった髪の毛を両手ですくい上げる。
「んっ」
「え?」
鷹宮が何かを催促するように振り返るので、俺は思わず馬鹿みたいに聞き返す。
「これで見えないか?」
「うなじからか?」
普段隠れていて見ることのできない襟足すら美しく整えられて見えた。
黒髪との対比で眩しいほどに白く輝く首筋。反射的に生唾を飲み込んでいる自分に気付き、俺はまたも後ろめたい自己嫌悪に陥る。
「分ぁかったよ。ちゃんと見るから。髪下ろせ。誘ってんのか」
「はあっ!?」
「精神が男にしろ女にしろだ。自分の姿が、思春期真っ盛りの男子からどう見えるのかはよく自覚しとけって話だ。……あんま無防備にしてっと襲われるぞ」
「は、はぁ。そういう、もんか……」
語気を強めた俺の声音に驚いたのか、鷹宮が素直に髪を下ろす。再び髪で隠れる直前に見えた彼女の首筋は少し赤く染まって見えた。
もしかして今のは照れてた……のか?
うーむ。益々もって、である。
本当に鷹宮が男なのだとしたら、こんな反応をするだろうか……。




