▲4月6日 鷹宮女学院中庭(2)
前の周回の最後。一緒に〈マハ・アムリタ〉の〈グリッチ〉に入り、記憶を引き継ごうという俺の誘いを断った昭島は、前回俺とやり取りした記憶をすべて失っている(無論、その際にもひと悶着あったのだが、その話は割愛しよう)。
だが、周回を問わず、基本的に俺たちの利害は一致しているのだ。
素の昭島は間違いなく道実のことが好きだし、俺は鷹宮と上手くやりたい。
二人を引き離すための話なら昭島は乗るだろう。
昭島相手なら、もう一度、一からの説得でも協力を取り付ける自信があった。
「あっ、いや、待てよ。昭島を頼るのはいいが、恋敵の鷹宮から話を持ちかけたんじゃ話がややこしくなるな。駄目だ。今のは忘れてくれ。俺がどうにか昭島に説明するから、それまで鷹宮から昭島にこの話題を振るのは無しだ」
できれば昭島自身で鷹宮道実の不審な点に気付いた頃合いをみて接触を図りたいが、そう考えると4月の段階で昭島を味方に引き入れるのは意外と骨かもしれないぞ?
「あの」
「……どうした?」
今回の鷹宮は随分と淑やかな雰囲気がある。
突然出会った見知らぬ不審な男に対し距離を取るのは当然かもしれないが。こちらの様子を窺いながら、おずおずと話し掛ける鷹宮に対し、どうしても会話のテンポを乱されてしまう。
「とりあえず、二人だけの秘密にしておくというご提案は了解しました。ですが一つ分からないことが」
「……なんだ?」
俺は辛抱強く鷹宮の言葉を待った。
今すぐにでも、ここからずらかりたいのは山々だが、せっかく協力的な態度を見せている鷹宮から不審や不興を買うのも望ましくない。
「お名前の挙がっている昭島さん、というかたはどなたでしょう? 私と貴方の共通のお知り合いだったように聞こえますが」
「え……?」
「あ、そういえば、貴方のお名前です。お名前をお聞かせください。私に記憶がないので仕方のないことですが、貴方だけが一方的に私のことをご存知なのは公平ではないでしょう?」
「あ、ああ、そうだな。俺は……」
促されるままに自分の名前を名乗ろうとして言葉が途切れる。
秘密だと念押ししても、この鷹宮は道実に喋ってしまうかもしれない。NPC道実を通して才川に伝わる危険がある以上、ここで〈鷲尾覇流輝〉の名前を出すのは考えものだ。
だが待て。
それ以前に、考えるべき重要な問題が目の前を通り過ぎた気がする。
今のはとても捨て置けない重大な告白だったのではないか……⁉
「いやあ、昭島だよ。昭島! 知ってるだろ? 家族ぐるみで鷹宮家の使用人をしてる昭島由里亜だ」
急に声を荒げた俺に対し、鷹宮が若干身を引くのが分かった。
困ったような表情をみせる鷹宮。
あぁ……そうだよな。記憶を失くしている鷹宮に怒鳴ってみても仕方がないよな。
俺は努めて気を静め、ゆっくりと訊き直す。
「すまん。元々は鷹宮より一学年下で、今は同じ二年に昭島由里亜という優等生タイプの女子がいると思うんだが……」
そう言いながら、鷹宮女学院に通う者は総じて女子だし、よほどのことがなければ皆、優等生のお嬢様タイプに見えるだろうと自嘲する。
その俺の要領を得ない情報提示に対し、鷹宮はそれでも懸命に記憶を照会しているようだった。
しばらく考え込んだあと、申し訳なさそうに、こう切り出した。
「先ほど申し上げたように、私が記憶を失くしていることは外向きには秘密にしてあるのです。ですから、以前の私が知っていたであろうこの学院の生徒のお名前などは、始業式の前までに全員憶え直しております。名簿の方に漏れがない限りは完璧に……。ですが、昭島由里亜というお名前のかたは、どの学年にもいらっしゃらないはずです」
「ぅ……、し、使用人の中には……?」
「申し訳ありません。屋敷内のかたのお名前はまだ全員憶えている余裕がなくて。でも、御屋敷の中に私と歳の近い女性はいらっしゃいませんよ?」
俺は再び膝に手を突き、先ほどよりもさらに深くうな垂れた。
強引な辻褄合わせ……。
この世界では、始めから昭島由里亜という女は存在しなかったことにされているのか。
とすると……。そうすると、今、目の前で話している鷹宮の、記憶の上書きに使われた人物が誰であるかについては、ひどくシンプルな推論が成り立つ。成り立ってしまう……!
「あの……、本当に大丈夫ですか? 先ほど倒れたときに頭を打ったのかも。吐き気はありませんか? 大事をとって病院に──」
俺のことを気遣って顔を寄せてくる鷹宮。
大丈夫だと手を上げ、それを制止する俺。
そんな俺たちに向かって中庭の奥から足早に近付いてくる気配があった。
「どうした遥香。そいつは誰だ?」
思わず顔を上げ、その声の主と目を合わせてしまう。
そこにいたのは、俺がいま最も会いたくなかった相手、鷹宮道実だった。
三十代そこそこにしか見えない若々しい肌艶。黒々とした頭髪はきっちりとセットされ、白いシャツの襟にはピリッと糊が利いている。シャツの上に着ている茶色のニットベストは如何にも学院の教師に相応しい装いである。
同じ人物がスーツ姿でいるときに感じた、どこか胡散臭いイメージは綺麗に拭い去られていた。この見てくれで、しかもこの地域では有数の資産家とくれば、女学院でもさぞや生徒たちにおモテになるだろう。
校内に不審者が出たと呼ばれて飛んできただけあって、道実は始めから緊張した面持ちだったが、俺と顔を合わせた途端、その顔色ははっきりと分かる恐怖の色で塗り潰された。
「お前は……⁉」
呆然と呟く道実の様子を見て、俺はこいつが才川本人であると直感する。
ログアウト中の、NPCによって自動操縦された道実ではない。ちゃんと〈中身〉が入っている道実だ。
その直感は、道実が続けた次の言葉でも裏付けされる。
「どうしてお前がここに……?」
才川にとって俺は、鷹宮が転校するまで彼女と接点のないモブの一人のはずである。その俺が4月始めのこの時期に、自分のお膝元ともいえる鷹宮女学院に姿を見せたことが解せなかったに違いない。
この世界は少し変数が異なるだけでその後の展開が大きく様変わりする複雑系だ。もしかすると才川は頭の中で、ここに俺がいる説明として何らかの妥当な因果関係を組み上げようとしている最中なのかもしれない。
一方の俺は、同じ一瞬の中で思考を目まぐるしく働かせ、自分の取るべきポジションを定めていた。
「へー、憶えてたか変態ロリコン野郎。そうだ。鷲尾覇流輝だ。今回は〈当て馬〉自ら出向いてきてやったぜ」
「馬鹿な。あり得ん……!」
俺だけが持つ情報のアドバンテージを捨てて繰り出した攻撃は、才川の精神に大きなダメージを与えたはずだった。奴の狼狽えた顔からはその効果のほどが窺える。
「お義父様。このかたとお知り合いなのですか?」
「は……、遥香……、こっちに来なさい。その男は危険だ!」
鷹宮は一度俺の方を見てためらいをみせたものの、結局いまの彼女の良識に従い、彼女の養育者たる鷹宮道実のもとへ歩み寄る。
「ああ遥香。怪我はないか? あいつから何もされなかったか?」
「お義父様……。大丈夫ですから、そんなご心配をなさらずに」
道実のアバターを被った才川は、気持ちの悪い猫撫で声で鷹宮を招き寄せ、彼女の小さな身体を自分の腕の内側へと包み込んだ。
それに対し鷹宮は特に抵抗する素振りもなく、なされるがまま……、むしろ、自分を心配する父親を安心させようと自ら抱擁を求め、すり寄っているようにすら見えた。
その看過しがたい光景を目の当たりにして、今度は俺の顔が苦々しく歪む。
鷹宮が、あれほど嫌悪感を露わにしていた相手に、そのことを微塵も感じさせない無防備を晒していることに怖気が走る。
──駄目だ! 鷹宮っ……!
声にならない叫びが俺の身体の内側で激しく反響する。行き場のない怒りと、悲哀、焦燥感が、全身の毛穴から漏れ出る感覚があった。視界が暗く沈み、その場に立っていることも覚束なくなる。
そんな俺の様子に気付き、道実が不気味な笑みを浮かび上がらせた。
自分が女学院の学院長という皮を被っていることも忘れてしまったかのようだ。内面の邪悪さを隠し切れなくなった、サディスティックで偏執的な笑み。
道実は俺の顔をジットリと舐めるように見ながら、自分の腕の中にいる鷹宮の身体にくるりと回れ右をさせて俺の方を向かせる。
その手が、彼女の肩から二の腕、肘、と滑らかに這いずる蛇のように伝っていき、ほっそりとくびれた腰回りに絡み付く。
そんな露骨な、まるで、男と女がむつみ合うような接触を受けても、なお鷹宮は抵抗らしい抵抗を見せることはなかった。一度だけ戸惑ったように自分の身体を包む養父の顔を見上げたが、やがてその視線の先を追い、道実と同じく俺の方に視線を置く。
彼女の手が、自分の腰を抱く道実の手に被さるようにそっと触れる。
彼女の表情は、自分の養父と、突然現れた謎の侵入者の間にどのような関係があるのかを推し量っているように見えた。
けれどそこに、自分を物のように扱う男に対する嫌悪感は見て取れない。むしろ、そうあることにある種の満足を覚えているような……。
いいや違う!
彼女は昭島ではない。
たとえ道実に恋をする〈昭島由里亜〉の人格が上書きされていたとしてもだ……!
これは、決して見たくなかった光景を目の当たりにした俺自身の心の過剰反応──ひがみか、被害妄想が見せる幻覚で……。そうだ。幻覚であってくれと俺は心の中で祈り、抗い、咆哮した。
「フンッ……。ンハハハハハ」
道実が鼻を鳴らし、堪えきれずといったていで笑い声を上げる。
皮肉なことに、その勝ち誇った笑い声を聞くことで、俺は冷静さを取り戻すことができた。
俺のことを意識しつつ、俺に向かって自分の優位を見せつけようとする才川の低俗な思考が透けて見え始める。
これは、考えようによっては、《これからの俺のプラン》に適った、ねらいどおりの構図である。
そう言い聞かせ、俺は懸命に自分を奮い立たせる。
「君たち。玄関の方から守衛を呼んで来てくれたまえ」
才川は教育者の仮面を被り直し、これまで離れた場所で成り行きを見守っていた女生徒たちに声を掛けた。
それを受けて二人が揃って駆け出す。
俺もそれに倣う。彼女たちとは逆向きに、才川と鷹宮をそこに置いて全速力でその場から逃げ出した。
鷹宮のことを諦めたわけではなかったが、今ここで真正面から奴に挑んでも意味がないのだ。
「待て! 逃げるのか? 無駄だぞ。お前の身元は調べが付いている。馬鹿なことをしでかした報いを受けさせてやる!」
中庭じゅうに響き渡る音量で才川の嘲笑が背中を追ってきた。
報いを受けるべきはお前の方だぜ、と俺は心の中で吠え返す。
指先にじんわりと血の巡りが蘇る感触があり、走りながら拳を開いて見ると、手には痛々しく食い込んだ爪の痕がくっきりと刻まれていた。




