▲4月6日 鷹宮女学院中庭(1)
意匠の凝らされた複雑な紋様の石畳。
その上に綺麗に剪定された植栽が並ぶ。
麗らかな陽射しが降り注ぐ、のどかな昼下がりの空気とは裏腹に、俺は緊張と後悔の重さで圧し潰されそうになっていた。
俺がいま身を潜めている場所は、腰ほどの高さで四角く刈り揃えられた生垣の陰だった。
勢いで中庭まで侵入したところまではよかったものの、ここまで見つからずにやり過ごせたことで、すでに総ての幸運を使い果たしたような気分である。
周囲のどこに人目があるかも分からない。
今はこの緑色の壁の天辺から自分の頭をはみ出さないようにするため、地面に両手を突き、腰を低く沈めた体勢を余儀なくされた状況だった。
呆れた責任転嫁だと詰られそうな話だが、今この瞬間の俺は、どうして自分がこんな窮地に陥っているのかという被害者めいた心持ちでこの身の不遇を嘆いていた。
もしも糾弾されるべき者がいるとすれば、それは少し前の俺だ。
今日、この日に思い立ち、……いや、居ても立っても居られずに、一学期開始早々学校をサボり、わざわざ片道2時間掛けて鷹宮女学院に様子を見に来ようと決心した過去の俺こそ糾弾されるべきであった。
過去の愚かな俺についてはいくら責めてもらっても構わないが、今ここにいる俺のことはどうか憐れに思って救い出してやって欲しい。
俺は神ならぬ、この仮想現実を織り成す演算機に思いを馳せ、そんな益体もない祈りを捧げる。
分かっている。この仮想現実に神などプログラムされていない。
ハクジラ類の余剰のニューロンを借りて演算し、構築されたこの世界は、ただ無慈悲に結果を吐き出し続けるだけなのだ。
最初から来るべきではなかったのだろう。
厳重に警備された鷹宮邸に比べれば、一般生徒が通う鷹宮女学院に潜入するくらいわけはないと甘くみていた。
実際その見通しのとおりに、中に入ること自体は可能だったわけだが、授業中の校舎に満ちる厳かな空気を吸うほどに、後ろめたい思いが込み上げてきて、今の自分が如何に社会的にヤバい行動を取っているのかを客観視できるようになってきた。
乙女の花園に、野獣の如き男子高校生が潜り込んでいるのだ。見つかればきっと大事になる。いくらやり直しが利くからといって、この一年間を変質者のレッテルを貼られながら過ごすことになるのは勘弁願いたかった。
そうして不安が高まり切ったちょうどそのとき、中庭の向こうからやってくる複数の女生徒の話し声を聞いた。
それでとっさに屈んで身を隠したのだ。
今はここからどうにか脱出して、自分のしでかしたことの後始末を付けねばならないという、そんな差し迫った状況なのである。
最早、忍び込んだ当初の目的など顧みている場合ではない。
俺は慎重に足音を忍ばせ、女生徒たちの声から遠ざかるように位置を変える。
「どうしたの?」
「何か聞こえませんでした?」
「私も聞きました。砂利を擦るような音が、向こうの方から」
まずい。聞かれたか。
静まり返った中庭では僅かな音ですら致命的だったようだ。俺の緊張はさらに高まり、その場から動けなくなる。
自分の心臓の音がうるさい。興奮を静めるため深く息をしようとするが、呼吸音を聞かれてはまずいと考えるとそれも上手くいかなかった。
これは良くないぞ。俺はいま明らかに動揺している。
落ち着けー、落ち着け、俺っ。
「三人で回り込んでみましょう」
「ええっ⁉ 怖いわ。もし不審者だったら」
おいおいマジかよ。お嬢様たちアグレッシブ過ぎないか⁉
俺が本当に良からぬことを企む不審者だったらどうするつもりだ?
どうする? 姿を見られるのを覚悟で今すぐ全力疾走して逃げるべきか?
俺は女生徒たちがいる方向とは反対側に開けている退路に目を向けた。
しかし……。
俺の足は動こうとしない。
俺をためらわせたのは、植栽の向こうでこちらの気配をうかがっている女子の中の一人の声だった。
先ほど決心したはずの優先順位を覆すほど俺の心を波立たせるその声。
逃げるべきなのは間違いないが、その前にいま聞いたあの声の主の顔をしっかり確認してみる必要がある。
そんな都合のいい偶然があるわけがないと自分を諫めながらも、もし、そこにいるのが俺の予想したとおりの人物であれば、今日ここに来た目的はそれで達せられるはずだと、リスクとリターンの重さを量る天秤が大きく揺れ動く。逸る気持ちが抑え切れない。
「不審者であればなおのことです。何かあってからではこの学院の一大事ですから。ここで捕まえないと」
「私……。私、人を呼んできます。さっきあちらに学院長がいらしたはずですから──」
学院長という単語を聞いた瞬間、俺は今度こそ目が覚める。
この鷹宮女学院の学院長、兼理事長という絶対的な肩書きも持つ鷹宮道実は、才川がこの世界にログインするために使用しているアバターである。
今いるのが〈中身〉の入ってないNPCの道実だとしても、ここで俺と出会ったという情報は、次に才川がログインしたときに知識として伝わってしまうおそれがある。
道実にだけは知られてはならない。
もう無理だ。そのリスクだけは到底許容できない。
俺は植栽の陰からすっくと立ち上がる。
立ち上がり、生垣を挟んで五、六メートルほど先にいる女生徒たちの姿を視界に入れた。
──違う。鷹宮じゃなかった。
驚きと怯え。二つの表情を混ぜ合わせて立ち尽くす二人の女生徒。
だがおかしい。声は確か三人だったはずだ。
もう一人はどこに? と疑問を抱くものの、のんびりその場に留まるわけにもいかず、俺は一続きの挙動の中で身体を捻って走り出していた。
三人目の姿を探して、後ろ髪を引かれながらも頭を進行方向に向ける。
そのとき、目の前に小さな影が割り込んだ。
目の前? いや、目線よりもかなり下だ。
その影は俺の足下から音もなく現れ、煙のように立ちのぼった。
「えっ⁉」
驚きのあまり思考が停止する。
次の瞬間、俺の身体は見事に宙を舞っていた。
顎の下から突き上げる掌底によって上半身のベクトルが上を向く。前に行こうとする脚だけが先走り、宙を高く蹴り上げる。腰の後ろにも手が添えられ、鉄棒の逆上がりをするように俺の身体は縦にブンと回転していた。
俺の視界に晴天の青空が広がったあと、世界は重力という概念を思い出し、俺の身体を背中から容赦なく叩きつけた。
「ぅおっ、おぅっ、おぅっ、おぅっ……」
呼吸が詰まり、無様に喘ぎながら、のたうち回ることしかできない俺。
その俺の身体に圧し掛かる者があった。
俺を投げ飛ばした、というか、すっ転ばした相手であるのは間違いない。それにこの、鼻腔をくすぐる香しい花の匂い。記憶に鮮明に残るこの匂いと、以前にも浴びせられた覚えのあるこの体術の主は──。
「ぁ……、た、鷹宮……⁉」
痛みから回復し、目を開けた先には瞼の裏に思い描いたとおりの鷹宮の顔があった。こんな美少女の顔、どんな角度から見ようとも他に間違いようがない。この世に二人といるはずもない。
鷹宮は片腕で俺の喉元を押さえ、全体重を俺の上半身に乗せるようにしていた。
体勢的な問題で目視はできないが、片腕をひしぐように挟んで俺の動きを封じているのも分かる。俺が少しでも暴れる素振りを見せれば容易に絞め落とせるぞという獰猛な意思が感じ取れた。
「貴方……、どなた?」
不審を募らせる刺々しい問い。
顔は確かに俺の知る鷹宮だが、中身は明らかにこれまで俺が接してきたどの鷹宮とも違っていた。
まさにそれこそが、俺が危険を冒してまで求めていた情報だったのだが、唐突に、これ以上なくはっきりとその事実が明らかになってしまったことに対し、俺は自分が覚悟していた以上にショックを受けたようだった。
言葉を失い、顔が絶望に歪む。おそらく自分がそんな顔をしているであろうことを、俺は、鷹宮が見せる気遣わしげな表情から窺い知るのだった。
「おと……、学院長を呼んできてくださるかしら?」
俺の知らない鷹宮が、棒立ちになっていた級友と思しき女生徒に向かって声を掛ける。
彼女らは慌てて返事をすると逃げるように中庭の向こうへと駆けていった。
「一人は残って欲しかったのに」
そう呟いて溜息をつく鷹宮。だが、すぐに気を取り直して俺に向き直る。
「貴方、もしかして私と面識がある? ……お屋敷の関係者かしら?」
「っ、鷹宮家とは関係ないが、面識はある。憶えてないか? いや、思い出さないか?」
俺は無駄と分かりつつも、強く訴えかけるように鷹宮を仰ぎ、理知に富む彼女の瞳の奥を覗き込んだ。
──《あのゲリラ豪雨の〈グリッチ〉で鷹宮と別れたあと、鷹宮の〈中身〉が再びログインしてくることはなかった》。
どんなに遅くとも三日もあれば(こちらの世界の尺度に直せば二週間もあれば)成功の連絡を寄こせるはずだと言っていたにも関わらずだ。
そのまま一年が過ぎ、新しい周回が始まってからも連絡はなく、奈津森も不在のまま。それが分かった時点で、俺には鷹宮が元の──鷹宮家の令嬢であるところの──鷹宮遥香に戻ったわけではないだろうという推測ができていた。
嫌な予感を抱きつつも、何が起きているのかは今の鷹宮の状態を見ればはっきりするはずだと考え、俺は居ても立っても居られず確かめに来たのだった。
そして今。こうして彼女と面と向かい合った俺が開陳できる推論は一つしかない。
失敗したのだ。
これはあの、奈津森の性格が色濃く出た人格の鷹宮ではない。
もちろん国府祐介の記憶を取り戻した鷹宮でもない。
つまりはもう一度、才川によって別の誰かのパーソナルデータを上書きされた、俺の知らない鷹宮であることを意味していた──。
「思い……、ごめんなさい。お名前を頂けますか? お名前が分かれば思い出せるかも……」
俺を押さえ付ける力は少しも緩めていない。完全に気を許したわけではなさそうだが、それでも鷹宮は俺の問いに対し真摯に答えを返そうとしてくれていた。
「記憶が、ないんだろ? 俺のことだけじゃなく、今年の4月1日より前の記憶が」
「……どうしてそれを?」
鷹宮の目が俺の表情から何かを探り出そうとするものへと変わる。
「私が記憶を失くしていることは外では内緒なの。あの二人が戻って来ても、そのことはどうか話題にしないでくださいますか?」
どういう勘違いをしたのか知らないが、鷹宮は俺の上から身体をどけ、俺を助け起こしながら口止めを願った。
「たぶんですけど……、貴方のことを、以前も同じように投げ飛ばした記憶があります」
意外な証言だった。
前周回の鷹宮はどれだけ口で説明しても、上書きされてしまった記憶を思い出すことなどなかったのに。
「もしかして、私じゃなくて別の人がやったのかもしれない。けど、貴方が苦しみながら転がっていたイメージが浮かぶの。……ねえ、合ってるかしら?」
いや、間違いなくやったのはお前だよ、と俺は心の中で苦笑する。
そんな格好の付かない記憶でも俺のことを憶えていてくれたのだ。俺にはそのことが嬉しかった。危険を冒して会いに来た甲斐があった。これは意外と先行きは明るいのかもしれない。
「大体合ってるが、もっと思い出してもらう必要がある。これを……あっ」
尻のポケットをまさぐり、鷹宮に渡そうと用意してきた携帯を取り出したとき、俺は思わず情けない声を出してしまう。手の上で広げたそれは、液晶画面はおろか、外装も含めた大部分が砕けていたからだ。
「ごめんなさい。帰ってからお義父様に相談してみるわ」
「お、おとぅさま?」
問い返す俺の声が上擦り、震える。
「ええ。お義父様は無理に思い出す必要はないっておっしゃるけど、そんなはずはないでしょう? 幼い頃から大切に育てていただいたお義父様との思い出を忘れてしまってよいはずがないもの」
俺は両膝に手を突き、崩れ落ちそうになる身体をどうにか支えていた。
あの鷹宮が、記憶を失くしているとはいえ、あの道実に──才川の野郎に対し、完全に心を許しているらしいことがショックだった。
怒声や嗚咽を漏らさずに堪えただけでも自分のことを褒めてやらねばなるまい。
「大丈夫? 私……身体が勝手に、手加減とか分からなくて……」
「……大丈夫だ。お前が……、鷹宮が自分のことを思い出しさえすればまだ勝機はある」
勝機と言われても何のことか分からない鷹宮は怪訝そうに眉をひそめるだけ。
できればちゃんと説明して言い含めたいところだが……今は時間がない。道実を呼びに行った二人が戻ってきてしまう。
「この話は内緒だ。特にお前の養父の鷹宮道実には話すな」
「お義父様に? ……一体どうしてです?」
あいつがお前から何もかも奪おうとしている敵だからだとぶちまけてやりたいが、今の鷹宮に向かってド直球にそんなことを言っては俺の方が敵扱いされかねない。
それに、ここが仮想現実の世界だとか、お前は上位世界の人間だとかいう話がどれだけ受け容れがたい世迷言に聞こえるのかは、前の周回の鷹宮で散々試して分かっていた。
「このことは……、そうだな。昭島だ。父親じゃなく昭島に相談しろ。あいつを通じて連絡を取り合うことにしよう」




