◆6月30日 窓際の二人(2)
俺が惚れた相手は、途轍もなく複雑な拗らせかたをした脅迫観念持ちのサイコさんだったのか……。
ゆっくりと一度瞬きする間に、俺はその衝撃の事実を頭の中でしっかり反芻する。
「生体間移植。たとえば脳を丸ごと取り替えられた、という可能性は十分あり得る話だと俺は考えている」
そう言ったのだ。彼女は。
先んじてうそぶいた「実は自分は男である」という話を俺に信じ込ませるために上塗りした出任せの嘘……だと取るには、その表情はあまりに真に迫っていた。
つまり彼女は心の底から、そう信じているということなのか……?
恋に障害は付きものという手垢のついたフレーズを頭に浮かべつつ、それでも俺は彼女を愛せるだろうかと考える。
こんな考えは値踏みをするようで気が引けたが、俺の行き着いた結論は「大丈夫。問題ない」だった。
惚れた弱みというやつか。アバタも笑窪というやつか。あるいは、障害が多いほど恋は燃え上がるという、これまた手垢にまみれた話だったのかも知れないが。ともかく、多少人格に難があると分かっても、俺の中の彼女への滾る想いは何ら変わっていなかった。
「大丈夫。愛せるよ、俺」
「何を言ってるんだ、お前は」
俺としてはここぞとばかり、墜とすつもりで精一杯の決め顔を作って言ったのだが、この少々厄介な性格の彼女には少しも響かなかったらしい。
「ここは『どういうことだ? 詳しく話せっ!』って食いつくところだろう?」
鷹宮は、如何にもヤレヤレという言葉と絡まり合って出てきそうな粘っこい溜息をつきながら、カバンから一冊のノートを取り出した。
中身を見せてくれるのかと思ったが、鷹宮はそのままそのノートを湾曲させて持ち、自分の身体を扇ぎ始める。
夏服の襟元をつまんで風が通るようにする仕草に俺はまたドギマギさせられる。
まさか、見せてくれるのはそっちの中身だと?
俺を男だと思っていないかのような大胆な所業。
いや、自分を女だと思っていない所業というのが正しいのだったか。
「どんな障害でも俺なら受け止められるって、度量を見せたつもりだったんだけど……」
俺は後ろ髪を引かれる思いで鷹宮から目を逸らし、無人の教室に目を転じた。
ここは放課後の教室──。
読書部が部室として使っている補助教室だが、今日は他の部員は帰ってしまっていない(斯くいう俺がそう仕向けた)。
《確実に二人しかいない状況》で鷹宮が満を持して切り出した話が、先ほどの「実は俺、男なんだ」なのだった。
俺が鷹宮のことを好きだというアピールはこれまでもずっと続けていたから、最初はちょっと趣向を凝らした──効かせるエスプリの塩梅をやや間違えた──断り文句なのかとも考えたが、そんな安い嘘でないことはとうに分かっていた。それは彼女の真剣な表情を見れば分かる。
そして、真剣だからこそ、その荒唐無稽な告白にはたじろがざるを得ない。
「お前なら良い相談相手になるんじゃないかと考えて打ち明けたんだ。いい加減、一人で抱えておくのも辛くなっていたし……」
鷹宮はそこで一旦言い淀み、小さく咳払いをしてから先を続ける。
「君には純粋に、この鷹宮遥香に好意を寄せる以外、他意はなさそうだったしな」
俺はもう一度チラリと横目で彼女の表情を盗み見る。
「それは……、どうも」
とりあえず俺の真っ直ぐな好意は汲んでもらえたのだろうと前向きに解釈して礼を言った。
他の男連中はどうだか知らないが、俺のは決して軽いノリや冷やかしなどではない。本当に、理屈抜きで、鷹宮にマジ惚れしているのだ。そのことを認めてもらえたのは素直に嬉しかった。
なおもノートで身体を扇ぎながら、鷹宮がこちらの反応を窺うように少し首を傾げる。
襟元をつまむのは止めてくれたようだ。これで多少は話し易くなるな。
「本気で好意を寄せてくれているのならなおのこと、こちらの事情を打ち明けて、早々に諦めてもらうべきだとも思った。これは俺なりの誠意だ」
お……、漢らしい。
フラれたばかりなのに、そのそばから惚れ直してしまいそうだ。
彼女の真剣さに打たれた俺は、自分のことを男だという鷹宮の話を少しだけ信じる努力をしてみる気になった。少なくとも、どういう理由で自分を男だなどと思い込むに至ったのか分かるまで《判断は保留すべきだ》。
そう。純粋な恋心とは別のベクトルで、今の鷹宮の話に興味が湧き始めていた。
「分かったよ。俺も誠意を見せる。鷹宮が困ってるなら、恋愛云々はさておき相談には乗るよ。だから、どういうことか俺にも分かるように説明してくれ」
俺がそう言うと、鷹宮は不興げだった表情を引っ込め、満足そうに微笑んだ。
かと思えば、今度は少し恥ずかしそうにしてその先を言い渋る。
「言っておくが、その……、とても信じられない突飛な話をしているという自覚はあるからな? 俺の正気を糾弾するのは、ひとまず自重してくれるとありがたい」
「御託はいいから話せよ。俺も誠意を見せるって言ったろ?」
鷹宮の笑った顔も照れた顔も、俺が初めて見る表情だった。本来ならもっと感動して然るべき場面であったが、不思議なもので俺は、その話を信じるより前から、目の前の可愛らしい見た目の女子のことを、男友達のようなポジションに置き始めていたらしい。
後から思い返してもそう。少なくともこのときの俺の心持ちは、宣言のとおり真摯なものであったと断言できる。