◆3月30日 鷹宮邸へ(2)
この男こそ、現実世界の鷹宮の同僚である才川がアバターとする鷹宮道実ではないか。
俺が、自分が抱いたその直感を疑い始めた頃、男がようやく口を開いた。
「うちの娘に何か御用かな?」
「……そうです。今日、遊ぶ約束をしていて」
俺は慎重に言葉を選ぶ。
道実は真正面で対峙する俺のことを、ゴミか何かを見るような蔑んだ目で見下ろしていた。
この世界の真実を知るが故の連想だが、俺はその目に、気怠げにするシステムエンジニアのイメージを重ねる。モニターの中に映る文字列を生気なく見つめてキーボードを叩いているような……、おそらく過剰に戯画化されたシステム屋のイメージだ。
鷹宮の父を名乗るその男は、緩慢な動作で内ポケットに手をやり、掌サイズの何かを摘まみ出した。左手でそれを持ち、顔をしかめながらその機械のボタンを操作する。
心の中でアッと叫んだのと同時にポケットに入れた俺のスマホが鳴った。
取り出してチラリと画面を確認する。
着信は鷹宮に渡したプリペイド式の携帯電話の番号からだった。
「君が鷲尾覇流輝くんか」
質問ではない。確かめるまでもなく、そうだと確信した上での独り言である。
俺はジャケットの下にかいた汗が急速に冷たくなっていく不快さに耐えながら懸命に頭を働かせている。
「遥香さんと、お付き合いさせていただいてます」
この時点ではまだ何も確定していないのだ。
鷹宮の身柄が拘束され、携帯も取り上げられたとはいえ、そのことをもって、すべての情報が知られたと考えるのは早計だ。
鷹宮が才川による洗脳処置から逃れるためには、すでに彼女が《元の記憶を取り戻しているという情報の秘匿は絶対条件》だと言っていい。
鷹宮が才川相手に生命線とも言えるその秘密を明かすとは思えなかったし、であるならば、俺がここでボロを出し、足を引っ張るわけにはいかない。
もちろん、俺がここより上位の世界の存在を知っているという事実もだ。悟られてはいけない。俺はただの高校のクラスメイトでなければならない。その役割を自分に言い聞かせる。
ここで見つかってしまった以上、この社会の枠組みで食い下がるしかない。
「ハッ、お付き合いときたか。由里亜から聞いたとおり、身の程を知らん男のようだな」
喋れば喋るほどに道実の印象は最初に感じたものから遠ざかっていく。財閥家の当主、女学校の学院長という肩書きがまるで不釣り合いに感じられる。薄っぺらいチンピラのような言動だった。
「鷹宮に……、遥香さんに会わせてください」
「救援コールを聞いて飛んできたってわけだ。こんなモノまで用意して。白馬の王子様にでもなったつもりか?」
「……家族でも監禁は立派な犯罪ですよ? 会わせてもらえないなら遥香さんが虐待されてるって通報させてもらいます」
「私有地への無断侵入も犯罪だと思ったが?」
自分で切り出したことだが、この成り行きはどう考えても俺たちに分がなかった。たとえ警察に事情を話して訴え出たとしても、虐待の事実を証明するのは簡単ではないだろう。相手が地元で顔と名前の知れた名士としての肩書きを持っていることもよくない。
そうこうしているうちに、3月31日が……、この世界の1サイクルが終わってしまう。
「以前から約束をしていました。休みの日の外出だって普通にしてたのに。何故、今日に限って駄目なんですか? それに、ただ外に出さないだけじゃなくて、縛り付けて自由を奪うような真似を」
用心深く、足下に網を張り巡らせるような心持ちで答え合わせを願う。
とにかく俺は、何故今になって才川が強硬な手段に出たのか、その理由を知りたかった。これが鷹宮の記憶の覚醒を知ったからこその行動なのかどうか。俺がその情報を欲している本当の理由を悟らせないように、作為の臭いを消して探り出さなければ。
それに対し才川は──鷹宮道実のアバターを被った才川は──ハァと芝居がかった深い溜息をついて応えた。
「敢えて泳がせておいたんだが、少々自由にさせ過ぎたな」
その言葉に俺の身体がギクリと強張る。
俺たち二人の行動はすべてお見通しで、ギリギリの今日という日まで敢えて放置していたのだと言われた気がしたのだ。
だが、そうではなかった。
「どうせ最初から一回で上手くいくとは思ってなかったからな。記憶を上書きしたって、どうやっても長年染み付いた男の性格の方が強い。この周回は捨てて根気よくやらねばなと諦めてたところに、あいつが女らしい一面を見せるようになったという報告が上がるようになった。
これもある種の情操教育というやつだな。異性としての男を意識させることで、あいつが女としての自意識を身に付けるなら、そのまま泳がせてみようと思ったのさ」
才川が突然語りだした妄言じみた独白。
俺にはその意味が隅々までハッキリと理解できていた。
それは、鷹宮が俺に打ち明け、恐れていた、才川の悪趣味な企みそのもの──その断片だったからだ。
そして、そのことを語って聞かせるその表情や口振りで、才川が完全に油断していることも伝わってきた。俺のことも含めて、今この場にいる人間のことなど、まるで意に介していないという慢心が透けて見えた。
彼にとって、俺や、周囲に侍らす使用人たちは所詮この仮想世界の一要素。ただのNPCに過ぎないのだ。ただいっときの邂逅。このとき限りの関係だと思っているから饒舌になる。要は《馬鹿デカイ独り言》なのだった。
「やり直す前に一応今回の仕上がり具合を確認しておこうと思い立った。どうせ上書きするんだし、今の状態にさほど意味はないんだが。まあ、職業病みたいなものさ。
だが、久しぶりにダイブしてみて驚いたよ。まさかここまで深い仲になっているとは。あいつが、その辺のモブ相手に、なあ……。ハハ、笑える。笑えないか? なあ?」
才川はそこで独白をやめ、興奮した感情をなだめるように深く息をする。
そうして自分の手の中に携帯があることを思い出すと、顔を不快に歪め、手を雑に振ってそれを放り投げた。
アスファルトの上にゴツリと沈み落ちる嫌な音が響く。
「あんた……、おかしいぜ。何言ってるか、全然わかんねーよ」
俺は慎重に言葉を選びながら演技を続ける。俺が演じるのは何も知らない高校生。身分違いの恋に現を抜かした世間知らずのガキの振る舞いだ。
足元に落ちた携帯を拾い上げたのもその延長で、特に意味のあることではなかった。
だが、俺が膝を曲げ、頭を下げたそのとき、その動作が才川によって誘われた動きであったことを知ることになる。
視界に一瞬だけ映ったのは道実が履いた革靴の爪先──よく磨き上げられた高級そうな茶色の光沢だった。
避けられればなお良かったのだろうが、まったく予想していなかったところに飛んできた蹴りである。一瞬視界に捉えて顎を引いただけでも自分を褒めてやるべきだろう。
次の瞬間には、俺は屈んだ向きとは反対にのけ反り、アスファルトの地面に仰向けになって倒れていた。膝がぐにゃりと曲がり、リンボーダンスをしくじった後のように無様に寝転んでいる自分に気付く。
次いで、顔面全体に焼けるような擦過した痛みが広がってきた。
「なあ、どうだろう? 教えてくれないか。正直に答えれば今の一発だけで許してやる」
脳を揺らされたせいか身体が思うように動かない。
自分でもそうと分かる遅々とした動きで俺が顔を上げると、道実姿の才川はすぐ目の前で足首の辺りを気にする仕草をみせていた。蹴った拍子に足首を痛めたのか。だとしたら、ざまあ見ろだ。
俺は身体を起こし、胡坐を掻いて才川を見上げる。
「……何をだよ。俺が鷹宮とどこまでヤッたかってことかぁ? このロリコン野郎──ォァッ!」
ミゾオチに強烈な蹴りが入った。
相手を挑発するのなら、その前に自分の体勢と相手の位置関係には思いを巡らせておくべきだった。その教訓を、俺は激しく悶え、意識を遠くさせながら噛み締めていた。地面に這いつくばりながら、俺は長い時間無様な嗚咽を繰り返す。
内臓が裏返るような痛みと苦い胃液が上ってくるのがようやく収まってきた頃、今度は頭頂部の髪を掴んで持ち上げられた。
俺の耳元に顏を近付け、やけに冷めた声で才川が言う。
「そうだよ。知りたいことはそれだけだ。可愛いうちの子の記憶の片隅に、お前のようなクズの面影が欠片でも残っては困るのでねえ」
俺から何かを探ろうとしても無駄だと白を切るために叩いたつもりの軽口だったのに、まさか図星だったとは。さすが鷹宮が気味悪がって恐れるだけのことはある。偏執的なサイコ野郎だ。
それがただの仮想世界の出来事であっても、想い人の処女性ってのはそんなに大事なものなのかと嘲ってやりたかったが、今なお続く身体の痛みがそれを自重させた。
ここまでの奴の口振りからすると、おそらく才川は鷹宮が本来の記憶を取り戻していることには気付いていない。今ここで俺がほんの少し溜飲を下げるために、俺たちの秘密を明かすような真似をするのでは割が合わなかった。
この状況から屋敷の中に匿われた鷹宮と接触し、取り返し、俺の部屋の〈グリッチ〉に逃げ込むというアクション映画張りの大逆転劇は到底起こりそうもない。
そう割り切った俺は、これ以上才川を刺激しない方針を固める。気持ちの悪い父性を拗らせた変態が望む答えをくれてやったのだ。俺が鷹宮にしたことといえば、せいぜい手を握り合ったくらいだと。
だが、それでも才川は俺の言葉を簡単に信じようとせず、正直に話せと言って何度も俺を殴った。「お前みたいな奴が何もせずにいられるわけがない」と、思い込みの激しい理不尽な怒りを汚い唾と一緒にまき散らしながら。
俺への暴行は痛めつける役を部下の男たちと交替してまでも続けられた。
こんなことにならないように正直に話した俺としては堪らない。痛みから逃れたくても、それ以上話せることがないのだから。先に少し思わせぶりにして粘ってから苦々しく本当のことを白状してみせるのが正解だったか……。
俺はそうして殴られ、蹴られを繰り返しながら、キスはおろか、一度は向こうから誘われたハグだって……そういえば結局何もしていなかったなと思い返していた。
今更ながらハグぐらいさせてもらえば良かっただろうかと考える。
鷹宮の中身が本当に男なのだと自分の中で完全に納得してからは、何故だか逆に恥ずかしく、変に意識してしまい、そういうふざけたことが言いづらくなったのだ。
そのことを思い出す。いや、心の奥底から掘り返し、俺は初めて明確に自分の本当の気持ちを自覚したのだった。
「──マジだって……。ヤッてねぇ……。大切過ぎて、壊れるのが怖くて……、手が、出せなかったんだ……!」
情けないことに、いつの間にか俺は溢れ出る涙を腕で拭いながら、そんな言葉を垂れ流していた。
自分のことを情けなく感じるのは、大人相手に手も足も出ず、のたうち回るしかなかった無力感もあったろう。当然肉体的な痛みもある。
しかし、どんな理由があるにしろ大の男が他人前でこんなみっともなく泣かされるなど、屈辱以外の何物でもなかった。
「もういい。下がれ」
才川の声で部下の男たちが離れていく気配があった。
「すまなかったね。どうやら私は君のことを誤解していたようだ」
仰向けで寝転がる俺の傍に才川の声が近付いてくる。
ようやく解放されるのか。どうやら俺の迫真の演技が功を奏したらしいぜ。
自分でも信じていないそんな強がりを心の中で吠える。
瞼が腫れて垂れ下がり、すぐそこにいるはずの才川の顔もろくに見ることができなかった。
しかし直接目で見るまでもないだろう。きっと優越感に浸ってこちらを見下ろし、下衆で醜悪な顔付きをしているに違いない。謝罪の言葉とは裏腹に、奴の声には明らかに俺に対する嘲弄の響きがあった。
「君の方は違うだろうが、私は君にとても好感を持ったよ。君は見かけによらず実に誠実で紳士的な男のようだ。《当て馬》として申し分ない。……フハッ、言葉どおりの……フッ、意味でだよ? クッフフフフ」
気色の悪い笑い声とともに、アスファルトを引き摺って歩く革靴の音が遠ざかる。これでようやくこの暴力から解放されると思った、次の瞬間──。
空を切る音とともに側頭部への強烈な衝撃が襲った。
脳が揺れ、僅かに開いていた細い視界も完全にふさがる。
普通に考えれば、俺はその瞬間に意識を途切れさせ、その後のことは何も分からなくなっていてもおかしくはなかったはずなのだが……。
「あ、そうだ。いいことを思い付いたぞ? これはいい。実に……ハッ、実にいい考えだ。アッハハハハ……」
才川の最後の言葉と高らかな笑い声は確かに俺の耳に残り、俺は失意と焦燥のうちに意識を失ったのだった。




