◆3月30日 鷹宮邸へ(1)
時刻は朝の9時過ぎ。
鷹宮とは昼に学校前で落ち合う予定にしていたから、それよりも大分早い時刻である。
随分非科学的な話だが、スマホからその着信音が鳴ったとき、俺はその音色に言い知れぬ胸騒ぎを覚えた。
妙に音量がデカく感じたというか、神経を逆撫でする刺々しさがあったというか。
無理矢理科学的な屁理屈を捏ねるなら、意識のもつれがそうさせたという言い方もできる。
健全に発達したイルカやクジラの脳を、いかにして繋ぎ、演算装置の一部として拝借するかという話題から派生して、以前鷹宮とそんな談義に興じたこともあった。
もっとも、わざわざそんな難解な話を持ち出さなくとも、この胸騒ぎはずっと前から俺が抱いていた、とある危惧のせいだという理屈でも説明できるだろう。
要するに、着信がある前から嫌な予感はしていたのだ。
「…………」
「どうした? 聞こえないぞ? 何かあったか?」
スピーカーの向こうからは最初ボソボソとくぐもった声が聞こえていた。
着信番号は俺が鷹宮に渡したプリペイド式の携帯電話のものだったが、それが才川(こちらの世界では彼女の養父の鷹宮道実ということになる)に見つかって取り上げられたという可能性もあるので俺は慎重に問い掛ける。
しばらく辛抱強く待ち、耳を澄ましていたが、聞こえてくるのはガサゴソという衣擦れらしき音を拾ったものばかりだった。
「俺の声が聞こえてるなら携帯を二度叩け」
スマホのマイクに向かって小声で告げたが反応がない。
同じ言葉を段々と大きくしていき、四度目──ほとんど叫ぶような音量で話し掛けたあと、ようやくボンボンという雑なタップ音が返ってきた。
「監禁されてるのか?」
その問いにはすぐに二度のタップ音が返ってきた。
状況の詳細を訊ねたかったが、万が一、電話口の相手が鷹宮ではない可能性も考え思いとどまる。
「助けがいるんだな?」
改めて確認せずともその答えは明白だった。鷹宮が自力で対処できるのならわざわざ連絡してきたりはしない。
俺はスマホを耳に当てながらダウンジャケットを羽織り、すでに家を飛び出す準備に入っていた。だが次の返事はなかなか来ない。長い沈黙に耐えかねて、もう一度問い掛けようと息を吸い込んだとき、ようやく反応があった。
ボン……ボン、という間延びしたタップ音。
俺にはそれが悩みに悩んだ末の救難信号であるように思えた。
おそらく鷹宮は今、手足を縛られ、満足に声も出せない状況に追い詰められているのだ。
絵面は俺の勝手な想像に過ぎないが、自由を奪われているという推測は外していないだろう。俺の救援なしに脱出は困難だが、長い沈黙があったのは、それが危険を伴うことによる迷いを表していたのではないか。
俺は机の上に置いてあった原付の鍵を引っ掴んで家を飛び出した。
こんなこともあろうかと、念のために用意しておいた移動手段だが、困ったことにこの周回の俺はまだ免許を取得していない。鷹宮家の屋敷まではおよそ2時間の道のり。どうかパトカーと出会いませんようにと祈りながら俺は原付を走らせる。
通話はずっと繋げたままにしていたが、走っている途中でいつの間にか途切れていた。
迷いに迷った挙句こちらから掛け直してみたが、向こうが電話を取ることはなかった。
連絡が途絶えたことで俺はさらに焦りを強くする。
本来であれば今日は、昼から鷹宮と二人でダウンロード版の〈マハ・アムリタ〉を起動し、人為的に仕込まれた〈グリッチ〉を出現させられないか試す予定だった。
俺がルーチンにしている方法よりも一日早いが、キーになるのが日時ではなく、単純にキャラクタークリエイトの設定手順に限られるのなら〈グリッチ〉が出現する可能性は十分にあると考えて。
それができるならこの世界からのログアウトは早ければ早い方が良い、ということで今日。そして、今日の挑戦で駄目なら明日を本番としてもう一度試す予定でいた。
仮に出現条件に日時や場所が関係していた場合には、鷹宮は深夜まで俺の部屋に身を隠していなければならないため、鷹宮家の妨害が入るとすればむしろ明日こそ正念場と考えていたのだが(才川がどうのこうの以前に、名家のお嬢様が夜遅くまで男の部屋に入り浸るという状況が普通にヤバい)、まさか前日に妨害が入るなんて。
これまでも休日に鷹宮が屋敷から出て遊びに行くこと自体は何度となくあった。きちんと行く先と帰り時間の連絡さえしておけば、比較的自由にできていたのに何故今日に限って……?
真っ先に思い浮かぶ理由はやはり才川の介入だった。
鷹宮の話によると、《4月の始め以降、才川がログインしてくることはどうやら数えるほどしかなかったらしい》。プレイヤーがいない間、その間もシミュレーター内で動き続ける入れ物の行動はNPCが引き継ぐことになっている。才川という中身のいない道実はそれなりに物分かりのよい養父としての振る舞いを見せていたので、容易に区別がつくということだった。
それ故に、突然鷹宮の外出を禁じ、拘束するような彼の豹変振りについては中身がログインしたからという推論でよく説明することができた。
同じような思考が何度も行き来する中、頭蓋の中ではずっと原付の軽いエンジン音が鳴り続けていた。
慣らし運転もしていない下ろし立てのエンジンは、その割に快調だったが、どうせ免許がないのなら、もっと馬力の出る二輪を手に入れておけばよかったと後悔していた。
その後悔は鷹宮家に近付き『ここから先は私道です』と書かれた看板を越えてから余計に強くなる。山道の勾配が、原付ではとても登っていけないほど急になったのだ。
俺は適当なところで原付を降り、樹木の陰に隠して乗り捨てると、今度は徒歩で坂の続きを上り始めた。
上り始めて5分もすると身体が暖まり、ジャケットをその辺に脱ぎ捨てたいくらいの暑さになる。それからさらに5分。さらに10分と掛けて上っていくと、ようやく視界に鷹宮家の豪邸が姿を現した。
もっとも、始めからそうだと知っていたから、それが個人の邸宅だと分かったのであって、何も知らずにそれを見ていたら刑務所か何かではと勘繰ったかもしれない。
赤茶色のレンガが俺の身長の倍ほどもある高い塀となって積み重なり、その塀が遥か遠くまで続いていた。左右どちらを見渡しても末端が見えず、雑木林の緑に溶け込んでいる。
それでも進むとしたら向かって右手側だ。以前ネットで調べた衛星画像では、右にしばらく進んだところに、小振りなグラウンドのような砂地と鉄柵のようなものが見えていた。こっそり内部に侵入できるとしたらそこからだろうという目星は付けてあった。
正面から訪ねても相手にしてもらえるとは思えない。こういった万が一を想定し、屋敷内の大まかな間取りは鷹宮から聞いてある。中に入ってしまえばどうにかなるはずだと考えていたのだが、いざ目の前にしてみると、この門構えと塀の高さには怯まざるを得なかった。
屋敷の門の前を遠巻きに横切り、右手の林の中へ身を忍ばせようと歩き出したときのことだ。それまで閉じていた正面の門が、鉄の擦れる音を軋ませて開き始めた。
俺は思わず動きを止めて立ちすくむ。
鉄柵の向こうにはいつの間にか一人の守衛が姿を現し、こちらに険しい視線を投げ掛けていた。
呼び鈴を鳴らしたわけでもないのにこのタイミングである。きっと、俺が私道を上っているときから見られていたに違いない。忍び込むつもりなら、舗装された路を避け、もっと手前から、裏手側から回り込むべきだった。いや、だったとしても見つからずに侵入を果たすのは無理だったかもしれない。
こんなこともあろうかと息巻き、勇んで飛び出して来た俺であったが、今となっては、自分の準備不足を痛感するばかりだった。
いくらこの世界が仮想現実だという真実を知っていたとしても。その世界の一年を十数回繰り返していたのだとしても。この世界に身を置く以上、自分は何の力も持たないただの高校生に過ぎないのだと、俺はこの切羽詰まった状況になって初めて正しく理解したのである。
屋敷の大きさに見合った大仰な門扉は、半分ほど横にスライドして開くとそこで止まり、その間から黒塗りの車が現れる。一台ではなく次々と。
俺が呆気に取られている間に、全部で四台の車が俺一人を取り囲むようにして停車した。
車の中からは如何にもな黒づくめのスーツを着た男たちが降りてきて、その中の一人が俺の目の前に停まった一台のドアを開ける。
悠然と降り立った白いスーツ姿の男を見て俺は直感する。
この男が鷹宮道実だと。
だが、実際に見るその姿は俺が思い描いていたよりも一回りも二回りも若く見えた。黒々とした髪はきっちりとセットされていて、一見すると野心旺盛な青年実業家のような印象を持つ。あるいはインテリヤクザの若頭か、である。
背は高く、肉付きも、背広の上からでも十分に鍛えられた筋肉を窺わせる分厚さがあった。二十代……は言い過ぎだが、三十代だと言われても普通に頷けてしまう若々しい壮年の男だった。
俺が脳内で勝手に作り上げていた、幼い養女を舌なめずりして手籠めにする禿げ上ったヒヒジジイのイメージは欠片もない。




