□3月31日 自宅
またこの日、この時がやってきた。
静かな室内に包装フィルムを剥がすペリペリという安っぽい音が響く。
いつもどおり、発売日から一日遅れで届いたゲームソフトのパッケージ。
開封したケースからおそるおそるディスクを摘まみ上げ、ゲーム機に挿し入れる。
ここでうっかり手元が狂い、傷を付けたり曲げたりしてディスクを駄目にしてしまわないかと、いつもこの瞬間が不安だった。
そうであるのなら、何もパッケージ版にこだわらずともダウンロード版で良いのではないか。それなら配送事故などの不測の事態も防げるのだし。という至極真っ当な考えも浮かんでいるのだが、なかなかそれを試みる踏ん切りが付かないでいる。
とにかく、少しでもこの手順を違えれば上手くいかないような気がしていた。一種の強迫観念のようなものだ。
最初にそれが起こったときの状況。
その後、二度目に試みて同じことが再現できたときの状況。
それを《可能な限り同じ条件で繰り返すことで今の俺がある》のだから、慎重にもなろうというものだ。
無機質な工業製品を扱いながらも、そのように行き過ぎたジンクスに縋るようにする様は、我ながら儀式めいていて気恥ずかしさを禁じ得ない。
ゲーム機のスリットに吸い込まれるディスクを見送ったあと、時計を見る。
時刻は22時50分……の、少し前。
早くも遅くもない。
俺が見定めた時刻は23時ちょうどだから、余裕を持ってもっと早くにゲームを立ち上げても良さそうなものだが、これも強迫観念で、いつもよりも行動を早めてみる気にはなれないのだった。
モニターには見慣れたオープニングムービーが映し出され、プレイヤーの気分を昂揚させる壮大な音楽が流れていた。
ゲームの名は〈マハ・アムリタ〉。
インド神話をモチーフにした少々マニアックなアクションRPGで、ライトゲーマーを自認する俺が興味を抱いて購入したのは、ほんの気紛れと偶然が重なった結果だ。
そうだったはずだと記憶している。
一通りムービーが終わり、スタート画面が表示されたのを見て、俺はコントローラーのボタンを押す。
僅かな間を置いてキャラクタークリエイト画面に切り替わると、俺はその画面で自分の分身となるキャラクターのカスタマイズに取り掛かる。
昨今のゲームでは今さら珍しいことではないが、このゲームではシステム的に有意な筋力や知力などのポイント割り振りのほかに、外見にも微細な設定を施すことができた。
性別、体格、肌色、輪郭、髪型、目、鼻、口……。それらも全て、最初と同じ設定を選んで作り上げていく。
どこまでがそれに関係しているのか分からない。確かなことは何も分からないので、もしかしたらこんな細かな操作など関係ないのかもしれないのだが……。
やがて時計が23時を差した頃、それは起こった。
最初に彩度が失われ、世界から色が抜けていく。
ゲーム画面の話ではなく、モニターの外側の世界。緑色のカーテン、漫画が沢山詰まった棚、机、時計、フローリングの床などのことだ。
真っ白になった空間に、まるでポリゴンで描かれたような点と直線だけでできた背景が浮かび上がり、その線も見る間に簡略化されていく。これまで巧妙に現実を装ってきた虚構の膜が剥ぎ取られ、世界が真実の姿を現す瞬間だった。
その変化の中で自分だけが取り残される。
正確にいえば、自分と、自分が身に着けた衣服やポケットの中身、それに、手にしていたコントローラーと、それに繋がったゲーム機などは別だった。
それらは事が起こる前と同じ解像度でそこにあり、俺を正気に繋ぎ留める拠り所となった。
一方、ゲーム画面の中はこれまで俺が作っていたゲームキャラのグラフィックに代わり、青い画面と白い文字で構成された短いメッセージだけが表示されるようになる。
『記憶を引き継いで冒険を再開しますか?』
その下には三角マークのカーソルと共に〈はい〉と〈いいえ〉の選択肢がある。
ここで〈いいえ〉を選べばどうなるのか、俺は知らない。
知っているのは、ここで俺がどちらかを選ばない限り、ゲーム機以外に何もないこの不気味で殺風景な空間から抜け出すことができないということだ。
俺の部屋は、いまや単純な立方体で区切られた空間──かろうじてそのことが認識できるだけの情報しか持たない異空間──と化していた。
ドアや窓があったはずの空間もその描画が省かれ、のっぺりとした白い壁面に変わっている。
この状況が恐ろしくないわけではないのだが、俺にとって驚きや恐怖で身を竦ませる段階はすでに過ぎている。
俺はすでに過去に起きた同じ現象の中で、この状態の部屋の中を手探りで調べたことがあった。
ベッドがあったはずの背後に手をかざしても何も手に触れる感触がないため、それは目に見えなくなっただけでなく、存在自体が消失してしまったのだと俺は結論付けていた。
ベッドに限らず、部屋の中にあった他の物品も全て綺麗に消失しているのだ。床面にしたところで、その手触りは俺が知っているフローリングの手触りとはまるで違う。ほんの少しの凹凸もない。さらにいえば温度すらも感じない正体不明で形容不能の手触り。それは四方の壁についても同じことがいえた。
最初にこの現象に遭遇したとき、俺は長い時間悩んだ末、ゲームのコントローラーを使い、〈はい〉を選択した。
説明もなくこんな状況に置かれた人間に、それ以外の選択があり得るだろうか。
ボタンを押すと瞬時にモニターの光が消失し、代わりに先ほどまで何もなかった背後の壁が光り、そこに見慣れた木目調のドアが現れる──。
幸いなことに、今回もそうなった。
これらの現象は俺にとって最早見慣れた光景ではあるのだが、万が一この場所にこのまま閉じ込められてしまったらと考えると未だに言い知れぬ恐怖に襲われる。
俺はコントローラーを置いて立ち上がり、現れたドアへと静かに歩み寄る。
ドアを開けると、その向こうにはこれまた見慣れた自宅の廊下が広がっていた。
色。臭い。音。室温。空気の肌触り。押し寄せる情報の洪水にさらされることで、血流が速まり、全身の毛穴が開く感覚。
振り返ると背後にあった俺の部屋も元通りの現実を取り戻している。
どこにでもある高校生男子の雑然とした部屋だ。
ただし、先ほどまでプレイしていたはずのゲーム機は電源が落とされ、部屋の脇へと押しやられているという違いはある。購入したばかりの、あのゲームのパッケージも消えている。
《俺はすでに自分の年齢に迫る回数の試行を重ねている》ので、今さらそのことに驚いたりはしない。
そのまま一階の居間まで下りて行く。この時間、両親は共に就寝中であることも俺は知っていた。部屋の明かりを点け、冷蔵庫から冷えたお茶を取り出しコップに注いで口に含む。
何かを口に入れることで自分が現実の世界に帰って来られたという実感が湧き、気持ちが落ち着くのでこうすることにしているのだ。だから、ここまでが俺の一連のルーチンだといっていい。
今回も無事一巡を終えた──いや、再び始めることができた──という安堵感が喉を通り過ぎ全身に染み渡る。
ソファーの上に置き忘れてあった自分のスマホを取り上げてロック画面を表示する。そこに表示される日付は4月1日に繰り上がり、年号はその逆に一つ繰り下がっていた。
今日から再び俺の高校二年生の一年間が始まる。
そして十七回目となるこの年に、《俺は初めて鷹宮遥香と出会うことになるのだった》。




