◆7月27日 水族館デート(7)
「──ちょっと待て。だとするとヤバくないか?」
「ヤバいよ。もう詰んでるも同然だって、さっきから言ってるだろ」
「いや、そっちじゃなくて。ギリ逆転の目はあるって話だったじゃないか。それなのに、今ここで、こんな大っぴらに話してたらその逆転の目も無くなるだろ?
その……なんだっけ。才川大だっけ? そのムカつく名前の野郎に、お前が、記憶を取り戻したって話がバレちまうんじゃないか?」
俺は吹き抜けになっている水族館の巨大な空間を振り仰いだ。そんなことをしても、世界の外側から俺たちのことを俯瞰している何者かを覗き返せるわけもないのに……。
才川大というのは、鷹宮と同じく、この世界の外からログインしている男の名だった。外の世界において《鷹宮とその才川という男は同じ職場の同僚》で、ライバルのような関係だという。
そして、この世界で才川が操るアバターの名は〈鷹宮道実〉といった。
驚くべきことに、記憶をなくした状態の鷹宮が恐れていた、あの誇大妄想じみた仮説的推論は、ほぼ正確に事の真相を言い当てていたのだ。
記憶を取り戻した今の鷹宮にとってもまだ幾らかの推量が含まれるものの、どうやら才川という男は本当に、鷹宮を自分の理想の女性に仕立て、自分に従わせることを目的としているらしいのである。
そして、それは単に仮想現実の中で鷹宮を支配するという話にとどまらない(それだけでも十分悪趣味だが)。
外の世界の医療技術とバイオテクノロジーは、俺などの想像を遥かに超えて発達しているらしく、《男性の肉体を完全な女性のものへと造り変えることなど造作もない》ことなのだった。
技術のレベル感でいえば、こちらの世界でいう美容整形手術と同レベル。それこそファッション感覚で肉体を自由に──性別の変更すらも自由に──作り変えることが可能なのだそうだ。
記憶を失くした鷹宮が、脳移植ぐらい十分あり得ることだろうと深層心理で感じ、その可能性について真剣に悩んでいた理由もおそらくそこにある。
この《巨大な洗脳装置》(俺たちが皆、現実だと思い込んで生きているこの仮想の世界)を出る頃には、鷹宮は才川好みの人格と肉体を持った従順な女性に生まれ変わっているという寸法、であるらしい──。
「この会話だって、その才川って奴に聞かれてる可能性があるんじゃないのか? 直接じゃないにしても、どうにかして傍受する方法がさ」
「いや、ここは鷹宮家と関係ない施設だろ? 今は昭島もいないし、話をするなら好都合だ」
「え、……関係あるのか? そんな話が」
話題が急に身近なスケールに戻ったので俺は眩暈を起こしそうになる。
「大ありだ。この世界を観測するには、あくまでこの世界と同じ階層まで下りてくる必要があるからな。だから才川は鷹宮道実というアバターを選んだんだ。鷹宮遥香の養父であり女学院の学長でもあるという、今の俺に対し絶対的な権力を振るえる立場だから、《監視するには都合が良かった》んだろう」
「よく分からんが、鷹宮がログインしている様子を外からモニターするわけにはいかないってことか?」
「そうだ。リアルタイムは元より、たとえ事後でも、ログの全文解析みたいな総当たり的手法は取れないと思ってもらっていい。システム内部が抽象化され過ぎてて、外部にいる人間ではとても解釈できるようにはできてないんだ。《仮想世界内で起きる出来事は、その仮想現実内の法則に基づいて観察するしかない》」
「そうか。なるほど……な」
オンラインゲームの運営スタッフのような権限があるものと考えていたが、そんな単純なものではないらしい。
上位の存在からしたら、俺たち仮想世界人の行動ぐらい、何もかもが覗き放題好き放題であるかのような想像をしていただけに、その話には少しだけ気が休まる。
「もちろん、そうしようと思えば、世界の生成段階でいくらでも設定を追加できるから油断はできないが、それでも盗聴や盗撮にしたって、この仮想世界の科学水準を超えるものではあり得ないから……、まあそうだな、《地方財閥の鷹宮家ができそうなレベルのこと》を想定しておけば間違いないだろう」
「国家や警察組織を操れたりとかもしないのか?」
「コネクションぐらいはあるかもしれないが、そこまで無茶はできんだろう。全能感を楽しむために、プレイヤーに特権的な権能を持たせた世界モデルもあるが、それだとどうしてもリアリティが犠牲になるからな。見たところ、この世界にはそんなちゃちなモデルは使われていない」
「それを確信できるぐらいの情報があると?」
「それはハルキを見てれば分かる」
「俺?」
さっきはコンソールがどうとか言っていたが、操作はできないまでも、今の鷹宮にはステータス画面みたいなものが見えているのだろうか。
「まあ、ハルキに限らず、世界の解像度だな。NPCの人格冗長性が、おそらく最高レベルにできてるから俺から見ても不自然を感じない」
「そりゃ、どうも……」
納得したつもりだったが、やはり面と向かってNPCだと言われると、どうにも卑屈な気持ちにさせられるものだ。
「……なら、チューリングテストには合格できたってわけだ」
「アラン・チューリングか。懐かしいな。古典の授業で散々やったよ」
「古典……。まあ、そりゃ古典か。あ、そうだ。じゃあ俺たちがいるこの世界と、生身の鷹宮がいる上位世界って、歴史的には地続きだって考えていいのか?」
「いや当然別物だが、仮想世界が下敷きにしてるのは大抵、俺たちが知ってる本物の事物からの引用だからな。歴史的な出来事や地理なんかの常識は全部共有されてると思ってもらって構わない。まあ、中世ヨーロッパ風ファンタジー世界を模したモデルなんかの場合、細部はAIで自動生成された完全な創作の歴史になる場合が多いけどな」
疑似中世ファンタジーか……、なるほど。少なくとも、例として挙がるくらいには、それも一般的で人気の仮想世界モデルというわけか。
信じられないくらい発達した技術を使っても、それによって提供されているエンタメは8ビット機の時代から大差ないというのは興味深い。そんな俗っぽい話を聞いて、掴みどころなく恐ろしげなイメージを抱いていた上位世界というものに対し、ちょっとだけ親近感が湧くように感じた。




