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◆7月27日 水族館デート(5)

 絶句……。

 まさに絶句。

 今度は俺が絶句する番だった。


 なんだって⁉ そうだったのか──‼

 俺は立ちどころに鷹宮が吐き出した言葉の意味を理解し、驚嘆し、世界の真理に思いを馳せる……なんて、ことにはならない。当然。


 もうこれ以上この不思議少女に驚かされることはないと思っていたが、鷹宮は俺のそんな甘い見通しを易々と打ち砕いてきた。

 そういう意味での絶句だった。


「よく聞け、ハルキ。俺たちはクジラの見てる夢の中にいるんだ」


 鷹宮はそう言ったのち、真っ直ぐ俺の瞳を覗き込み、辛抱強く黙ったままでいた。時間を設けることで俺の中に真実が染み込んでいくのを期待しているかのようである。熱心に。辛抱強く。

 自分の右手を俺に握られたままにされていても、それを嫌がりもしない。


 俺の方は、そのたっぷり設けられた間のせいで掌に感じる彼女の小振りな手指の感触が気恥ずかしくなってしまう。なんとはなしに、そのことを気取られたくなくて、俺も両手で包んだ彼女の手を離せなくなる。


「よく、聞け、鷹宮……。確かにあれはデカイが、クジラじゃない。ジンベイザメだ。名前にあるとおりサメ。要は魚類だ。クジラとは……、まあ、大分違う。別物だ」


 俺は殊更(ことさら)真剣な顔でネタバレ……というか、一般常識を説明してやった。

 それに対し鷹宮は、パチクリと瞳を(しばた)かせ、不思議そうに俺の顔を見る。


「そうだったのか。デカイから俺はてっきり……」

「尾ヒレの形状で見分けるんだ。クジラやイルカは、ヒレの突起が横向きに張り出てて、それを上下に動かして泳ぐだろ? あれは一旦陸に上がって足になったものが海に戻って再適合した形なんだ。だからあれは海生の哺乳類。進化の樹形図的にはカバに近い。

 でも、アレな。あそこにいるあのデカイのは尾ヒレが上下に伸びてて、それを左右に振って泳いでるよな? マグロとかイワシとかと一緒だから魚類。

 まあ、サメって言ってもジンベイザメの餌はプランクトンだから、そういう分類なら所謂(いわゆる)クジラのイメージに近いと言えなくもない」


 俺はいつになく饒舌(じょうぜつ)だった。

 訊かれてもいないウンチクを語って聞かせるのは、マウンティングやマンスプレイニングというよりも、そうすることで自分を落ち着ける意味合いが強かったように思う。

 まったく、鷹宮が思わせぶりなことを言うからあせったぜ。


「変なことに詳しいんだな」

「まあな」


 こう見えて、図書館で生き物図鑑や面白博物誌を読み漁ってきた俺に死角はないのだ。


「じゃあ、ヒゲクジラとハクジラの違いは知ってるか?」

「は?」


「知らないか。さっきハルキも言ってた餌の違いなんだが」

「いや、それは分かるけど。あれだろ? ハクジラってのはイルカとかシャチとかのことだろ?」


「ああ、大体はその認識でいい。さっき俺が言ったクジラっていうのは、そのハクジラの方だ。あいつらの脳はちょっと特殊でな。エコロケーションといって、水の中の獲物や地形を正確に計測するための音波を発する器官と、返ってくる音を聴き分けて瞬時に処理することに特化した脳を持ってるんだ」

「あ、ああ……」


 俺は混乱していた。

 一体、鷹宮は何の話を始めたのだろうかと。

 こんな場所で海洋生物談義か? ああ、いや……、水族館でする会話としてはこれ以上ないほど適切な話題か。そうだった。俺は鷹宮と水族館デートをしにきたのだった。

 ……なぁんだ。そっかそっか。話の切り出しかたこそ意表を衝かれたが、鷹宮は単にこの場に相応しいデート会話を楽しもうとしているのか。不器用な奴め。


「ああ、知ってる。水中で音の伝わる速さが違うからって話だろ? 凄いよなー。生物の環境適応能力って」


 ちゃんと話題に付いていけてますよとアピールするため、俺は本で読みかじっただけの、なけなしの博識を披露する。


「そうか。そこまで知ってるなら話は早いな。

 水中を伝わる音の速さは空気中のおよそ4倍から5倍。水中で素早く動く獲物を、頼りにならない視覚ではなく、聴覚を使って捕まえる必要に迫られ、ハクジラ類の脳は特殊な進化を遂げたんだ。高速で入力される音という電気信号を瞬時に処理して複雑な空間認識を行うための最適化だ。

 だから脳神経の仕組みが陸生動物とは根本的に違うんだ。ざっくりいうと神経伝達の、〈速度〉に特化した脳だと言える」


 ふんふんと頷く俺。

 だが、このときには既に、俺は自分の心の中に「オヤ?」という違和感が混ざり込んでいることにも気付いていた。

 クジラとサメの違いも分からなかったはずなのに、なんでそんな妙なことに詳しいんだよという違和感……もあるが肝要なのはそこではない。


 表向き、なんということのない雑学を話しているだけなのだが、それにしては二人の間の空気は(いささ)か張り詰め過ぎている。

 まるでジェットコースターがゆっくりとレールの頂上に向かって登っていく途中。その先にある急降下の衝撃を予感しているときの緊張感に似ていた。


 向かい合い、鷹宮の右手を両手で握る俺。その俺の手の上から、さらに鷹宮がもう片方の手を重ねてくる。凄く冷たい。緊張している者の手だ。


「つまり、より高速な演算処理性能を求める情報工学において、ハクジラの脳は非常に都合が良かったということだ。

 バイオコンピューティングという言葉は分かるか? 半導体素子じゃない生体部品……、主にニューロン系の生きた有機分子構造を論理演算処理に転用するための研究分野なんだが」

「えっ……? まあ……、そういうSF的なアイデアぐらいは」


 突然話が飛んだな。

 だが、ハクジラの脳の反射速度には及ばなくとも、俺の脳もこの先の話の展開はある程度予測することができていた。発話というアウトプットはしていなくとも、脳のバックグラウンドでは、絶えずその可能性へと収束する帰納的演算を重ねていたといっていい。


 実のところ、《俺には鷹宮がこれから語る話を受け止めるだけの下地があった》ということだ。

 そうでなければ、次に続く鷹宮の言葉を聞いた瞬間、俺という演算機械は深刻なフリーズを起こしていたことだろう。あるいは、フンと鼻で笑って終わりにしたかのどちらかである。


「よ、よし……。いいか? ……そういった技術が完成している世界なんだ。俺のいた世界は」

「は?」


「そして()()は、言ってみればその世界の下層にあたる世界だ。ハクジラの神経伝達速度を利用して構築された巨大な遠隔ゲシュタルトコンピューティング──その湿った(ウエットな)ハードの中でレンダリングされている、現実と見分けが付かないほどの超高解像度、超規模で創られた仮想現実なんだよ。いま俺たちが立っている()()()()は」

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