◆7月27日 水族館デート(3)
ミノ先輩と別れたあと、俺たちは二人だけで、幻想的に照明された薄暗い通路を黙々と歩いていた。
壁に埋め込まれる形でいくつかの小さな水槽が現れ始めたところで少し歩調を緩める。
そこそこムードのあるシチュエーションのはずなのに、さっきの昭島の衝撃発言のせいで雰囲気は台無しだった。
「なあ、さっきのあれは、どうするのが正解だった?」
沈黙を破って鷹宮が切り出す話題も当然先ほどの件になる。
「別に。何が正解とかはねーだろ。昭島が勝手に自爆したんだから気にするな」
それが偽りない俺の本心だったが、言い終わった後でさすがに情が無さ過ぎると感じ、コメントを付け加えることにした。
「まあ、無反応過ぎたのがまずかったのかもな。たぶん昭島の中では鷹宮に対する宣戦布告的な意図があったんだろうし」
「宣戦布告? なんでそうなる?」
「鷹宮道実と結婚するってことは、戸籍上、鷹宮の母親になるってことだろ? 使用人の立場から一変するわけだからまあ……、その辺で何か思うところがあったんじゃないか?」
これまで自分とそう変わらない歳の娘に従順を強いられることに忸怩たる思いがあったのか……。まあおそらくはそんなところだろうが、彼女の本当の胸の内は彼女にしか分からない。
ただいずれにしろ、自分の中では相当大きな問題と捉えていたことが、鷹宮にとってはそうではなかったということを知り、それで勝手に傷付けられた気持ちになった……そんな感情の起伏は俺にも想像ができた。
「鷹宮遥香は昭島由里亜に嫌われてたのか……。なんだか釈然としないが」
そう言いながら鷹宮は水槽の一つに顔を近づけ中の海生生物を覗き見る。
鷹宮の身体で隠れて見えないが、見ている角度的にウミウシか、ヒトデか、イソギンチャクか、その辺の漂っていない感じの何かだろう。
「昭島は、鷹宮が記憶を失くしていることを知ってるんだよなあ?」
「あいつと直接その話をしたことはないが、たぶんな。道実といい仲なんだとしたら、余計そうだ。……ああ、あいつ屋敷に住み込みで働いてるんだった。家族ぐるみで。だから知らないはずがない」
ふむ。だとすると、記憶を失う前の鷹宮と何らかの確執があったのだとしても、今の鷹宮をそこまで敵視するのはおかしいか。「あのときの恨み!」などと憤ってみても、当人はなんのことやら憶えていないわけだし。
確かに、鷹宮が釈然としないと言うのももっともだ。
「あ、そうか。嫉妬だ」
顔を水槽に向けたまま鷹宮が珍しく声を高くした。
「嫉妬? 誰が? 誰に?」
「昭島が。俺にだよ」
鷹宮はこれ以上なく端的に俺の質問に答えていたが、にも関わらず俺は鷹宮の言わんとすることを理解できずにいた。これはつまり、質問の仕方が悪ったのだろう。登場人物は限られているのだ。敢えて訊かずともそこは間違えようがない。
「ちょっと整理させてくれ。嫉妬ってことはつまり、羨ましいってことだよな? 昭島的に、鷹宮の立場が。すると、つまり……」
「鈍いな。ハルキが言ったんだぞ? あれは宣戦布告だって。嫉妬って言ったら普通に恋敵って意味だろーが」
「恋敵ぃ? いや、好きな男の娘。連れ子だろ?」
「実の娘じゃない。養女にしただけの赤の他人な」
俺の声には否定的なニュアンスがにじみ出ていたが、鷹宮に言い返されるまでもなく、頭の中では鷹宮道実に関する醜悪なイメージがしっかりと広がっていた。例のあの、養女として引き取った年の離れた娘を手籠めにするヒヒジジイのイメージだ。
「チクショーが。安心してる場合じゃなかったぜ。考えてみたら相当ヤバイ。昭島の話が本当なら、道実は自分の娘ぐらいの年齢の女を嫁にすることに、なんら躊躇のないロリコン野郎ってことだしなあ」
鷹宮が自分の身体を抱き締めるようにして両腕を摩り始める。
困ったことに、言われてみれば確かにその通りだった。
道実と昭島の、どちらから誘い、どういう成り行きでそうなったかは知る由もないが、これで年齢差を盾にした常識論は通じなくなったわけだ。
誇大妄想じみて聞こえていた鷹宮の話が、以前よりも現実味を帯びて感じられる。
同じ男を巡った競争相手となり得ると知っているからこそ、昭島は鷹宮に対し、嫉妬心を抱いているのだという説明は、齟齬がないどころか、ガッチリと噛み合っているように思えた。
それに、実のところその考えは、俺が密かに立てた《鷹宮の記憶喪失に関するある仮説》とも合致していた──。
切っ掛けは、夏休み前に学校で澤井が話していたただの軽口だった。
澤井は、鷹宮が水着になることに対しあれほど過敏に反応し拒絶するのはおかしいと主張していた。
一体何が気に食わなかったのか──ああいや、今となっては流石に俺もその辺の事情は察したが──澤井と吉野は夏休みに入る前ぐらいから、鷹宮についての大々的なネガティブキャンペーンを始めていたのだ。この話もその中の一例に過ぎない。
澤井が持ち出した仮説的推論は、実は鷹宮家は反社会的勢力の家柄で、肌を晒せない理由は、背中に彫り物があるからではないか、という突拍子もないものだった。
まあ、そんな戯言は捨て置くとして、彼女の身体に、他人に見せられない何かがあるのではという良からぬ疑いは、一度像を結ぶとなかなか俺の頭から離れなくなった。
俺の場合、頭に浮かんだのは何らかの傷跡。より限定すれば虐待の痕だった。その不穏な発想と、これまでに鷹宮から収集した情報は、俺の中で自然と縒り合わされ別の仮説を作り上げる。
記憶を失い、自分のことを男だと思い込みたくなるような凄惨な精神的外傷──それを鷹宮に与えたのは、彼女の養父である鷹宮道実ではないかという疑いがそれである。
想像しただけで怒りと吐き気が込み上げるが、それは彼女の記憶喪失を知ったうえで道実がそれを治療させようとしなかった話とも符合するのだ。もっと想像を逞しくすると、昨年の一年間、彼女が学校を休んでいたという話とも。
彼女は一年前から、あるいはそれよりずっと前から、養父から性的虐待を受けていたのではないか。周囲に頼る者もいない少女を襲った非道な仕打ちは、彼女の精神を蝕み、《そのストレスから身を護るために彼女は自身の記憶に蓋をしてしまったのではないか》。
《自分の本当の性別を男だと思い込むこと》も、それが彼女にとって必要な錯誤であったからだと考えると心臓が縮み上がるような切なさに襲われる。
彼女の身体のどこかにある痕跡を俺が見てしまうと、彼女を護るそれらの嘘が露呈してしまうから……、自分自身で作り上げたその認識の歪みをはっきりと自覚してしまうから……。だから、彼女は無意識に水着姿になることを拒んでいるのではないだろうか──。
断片的な情報しか持たない第三者の俺目線では、残念なことにその仮説が最も有力に思えた。
そして先ほどの昭島の思わぬ告白によって、期せずしてその仮説が真実を言い当てている可能性が高まってしまったわけである。