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◆6月30日 窓際の二人(6)

「確認するが、鷹宮が最初に目を覚ました場所は自宅なのか? 病院のベッドの上とかではなく」

「ああ。自室のベッドに一人でいた。普通に寝巻に着替えて就寝して、翌朝に目覚めた。……そんなふうに見える状況だった」


「腕に注射や点滴の痕とかは? 縛られてた痕とか」

「いや。気付かなかった」


 なかった、と断定しないところに鷹宮の用心深さが窺える。目立たなかっただけで、本当はあったかもしれないという含みを残しているのだ。


 ここまで話をしている限りにおいて、鷹宮は極めて冷静──いや、幾らか取り乱した場面はあったが──まともな受け答えをできているように思える。

 まともじゃないのは主張している内容だけだ。

 今年の4月より前の記憶がなく、突然見知らぬ異性の身体になっていて、それはきっと自分の養父の仕業に違いないという主張。


 それが彼女の薄弱した精神が紡ぎ出す妄想ではなく、本当のことなのだとしたら……。

 まあそれは確かに相当な恐怖だろう。どんな方法であれ、できれば力にはなってやりたい。


「それで、俺が信じると言ったら、どうする? 何をどう手伝えばいいんだ?」


 二人で一緒に鷹宮道実に掛け合って真相を明かすよう説得するか。

 あるいは、警察に保護を願い出るのに付き添うかべきか。

 だが、俺の問いかけに鷹宮はキョトンとした表情で応える。


「手伝う? いや、今のところは別に何も。何をどうすればいいかも分からないしな」

「え?」


「あ。いやただ、自分以外に事情を知る人間がいるという状況がありがたいんだ。この女の身体でいると……。うん、特に道実の息が掛かった連中がいるあの屋敷にいると、《自分が男だったという認識が希薄になっていく気がする》んだ。

 これ伝わるかなあ。みんな俺のことを当たり前に女として扱うせいで、俺もそれが自然なんじゃないかという気がしてくる。

 君には俺が正気を保つための精神安定剤のような役割を荷ってもらえると助かる。ガス抜き、と言った方がいいか?」


 鷹宮の口から淡々と語られるその説明を聞いている途中、俺は自分の中にある、とあるジレンマの存在に気が付いた。


 俺が鷹宮の力になりたいと思う気持ちの背後には、俺が彼女に惚れているという極めてウェットな動機(体裁を繕わずにいえば下衆な下心)が隠されているわけだが……。彼女に味方し、仮にその妄執に加担すると決めた場合、女性としての彼女を否定することになるわけだ。


 俺はこんなにも鷹宮のことが好きなのに。告白する前よりずっと好きになっているのに。これはなんという生殺しか。

 果たして男女間での友情は成立するのか──荒唐無稽で破天荒なボーイミーツガールにみせながら、これは、そんなありきたりで普遍な(ティーン向け雑誌のモノクロコラムにでも載っていそうな)謎掛けだったのか……!


 そのとき俺がどんな表情をしていたのかは分からない。だが、押し黙った俺の様子を見て、鷹宮の方で何かしら感じるものがあったのは確かだろう。

 鷹宮は急に申し訳なさそうな表情に変わり、それから先を言いづらそうにした。


「いや、あの、俺は……あれだ。さっきみたいに気兼ねない感じの会話ができるだけでありがたいんだが。そうだよな。君にとっては、あー、メリットがないよな? そのぅ、しかもあれだ。君にとって俺は交際を申し出た結果フラれた相手、ってことになる、わけだし……」


 ぬぬぅ。なんという的確な洞察。

 俺はそんなに分かり易い顔をしてたのか?


「いや、メリットとか。そんな打算で付き合うもんじゃないだろ? 困ってるクラスメイトの力になりたいってのは普通だし。じっ、実は俺も、さぁ……、ずっと誰かに相談したいと思ってたことがあって──」


 その場の変な空気を打ち消すためにしどろもどろになる俺。

 そんな俺の話などお構いなしに鷹宮がスッと立ち上がった。

 ややうつむき気味に、感情を押し殺すようにするその顔は、これはこれで人形めいた美しさがある。

 俺は思わず息を飲んで問い掛ける。


「な、何?」


 鷹宮は机を避け、俺が座る椅子の前に──俺の膝に触れそうなほど近くに進み出ていた。

 鷹宮が何を考えているのか探ろうと、そんな彼女を見上げる俺。


 鷹宮が俺に向かっておもむろに両手を伸ばす。

 前へ(なら)えの号令でも掛かったように。

 でも、その動きは緩慢で、躊躇(ためら)いがちで、さらに付け加えると中途半端でもあった。

 俺の身体を真ん中に挟みこむように狭められつつあった彼女の腕は途中で止まり、肘をピンと突っ張ったまま90度ほどの角度でピタリと静止した。

 まるで、何かを受け止めようとする姿勢で、鷹宮はその身を固くする。


「んっ」

「え⁉ なんだよ?」


「……んん、むぅっ……、分かれよっ。恥ずかしいんだから」

「恥ずかしい⁉」


「は、ハグだよ」

「ハグゥッ⁉⁉」


「シーッ! 声が大きい」

「だって、お前──」


「前に俺のこと抱き締めたいって言ってただろ⁉ 男相手にそのぅ……、そういう付き合うとか、キスとかは流石に無理だけど、一回、ハグするくらいなら、まあいっか……っていうか、我慢? ……できるかなって」


 つまり、鷹宮はそれを俺への対価として提供すると言っているのか?

 相談相手になってもらう礼として?

 鷹宮と恋人関係になるという俺の希望には応えられないから、せめてもと……?

 ま、待てよ待て。そんなのって……。


「い、いいや駄目だ。抱き締めたいって言ったのは本気だけど、そういう意味じゃない。っていうか、こういうのじゃ駄目だ。渋々やらせてもらうとかじゃなくてだなー。こういうことは、お互い、好き合ってやるもんだっていうかあ……」


 鷹宮の瞳が何かに戸惑うように揺れた。

 さっき俺が無茶苦茶に触ったせいでセットが乱れてしまったのだろうか。ひとすじの黒髪が額から鼻筋に垂れ掛かる。

 小さくすぼめられた唇が、そっと息を吸い──


「……おい」


 ──と言った。


「え?」


「その手は何だ?」

「手?」


 気が付くと、俺の手はいつの間にか鷹宮の背中の後ろに回っていた。

 まだ触れてこそいないが、もう触れようとする寸前である。


「お前、言っていることと行動がまるで合ってないぞ」


 手だけではなかった。いつの間にか俺は椅子から立ち上がり、鷹宮に正対し、その小さな身体に覆いかぶさろうとしているのだ。彼女の華奢な肩を上から見下ろし、乗り越え、今にも自分の胸元に引き寄せて抱き付こうと。そんなふうに手をこまねいている途中で俺は身体を静止させていた。


「あっれ? っかしいなぁ。なんでだ?」

「こっちが訊いてるんだが? まあ、俺から誘った手前、文句を言う筋合いではないと言えばそうなんだが……」


 その口調は呆れたようでもあり、どうにか平常心に見せようとして、気負っているような不自然さも感じられた。

 俺の方は、こうして立って向き合ってみると意外と身長差があったのだなあ、などということに気を取られる。そんな暢気(のんき)に構えていられる場合ではないというのに。


「いや、ホントに。頭では違うって分かってるんだけど、か、身体がなー」

「男とはそういうものだろう? いいからやれ。俺だってお前に変に気を持たせたくない。身体だけと割り切って、ここはひとつドライな取引といこう」


 身体だけの関係と言われると余計に淫靡(いんび)な印象が増す。

 いざハグをしてしまえば果たして俺の若く健全な肉体がそれだけで我慢できるかどうか……。我ながら極めて信頼が置けないところだが、もうすぐ目の前に、僅かに腕を内に(しぼ)るだけで鷹宮の感触を全身で確かめられるのだという誘惑は、とても抗い得るものではなかった。


「い、いいのか?」

「お、おう。……来い」


 少し緊張した響きのある合意の言葉。

 それだけで俺の心は天上に昇り詰めんばかりとなっていた。

 合意の意味を拡大解釈し、まるでこれで鷹宮と相思相愛の恋人同士になれたかのように錯覚する。

 俺の先走った意識の中では、俺はもうすでに鷹宮と固く抱き合っていた。向こうからも俺を求め、おずおずと俺の背中に触れ……。俺は確かにその柔らかな肉体を自らの腕の内に感じていた。


 だが、それは実に()()()()()()()だった。


 背後でガラリと扉が開く音を聞いた気がする。

 天上ではなく、教室の天井が見えた。

 ()りとてそれが、起きた物事の正しい順序であったかどうかは定かでない。

 (あご)に下から突き上げるような掌底(しょうてい)が入った気もするし、(もも)の裏に弾力を感じた気もする。

 (まばた)きする間もない時間に挿し込まれた諸々のイメージは、まるで幻想の中の出来事のようにも感じられた。


 ただひとつ、確かな現実の内に固定されたのは、突然背中を襲った強烈な痛みだ。

 俺の身体は、いっときフワリと宙を舞い、そこから勢いを付け、教室の硬い床に容赦なく叩き付けられていた。


 俺はもんどりを打ち床の上で暴れまわる。

 周囲の椅子や机を蹴って倒し、それが盛大に音を立てた。

 嗚咽(おえつ)のような(あえ)ぎが収まり、どうにかまともに呼吸ができるようになった頃合いで、自分がどうやら合気道か柔道か、はたまた何らかの超常的なお嬢様護身術で鷹宮から投げ飛ばされたらしいと理解が追い付いてきた。


「どうされましたか、遥香様。お怪我はありませんか?」


 まるで危機感を感じさせない間延びした台詞。

 その声は至って冷静に、無機質に、ただ事実確認をしているだけですという意思をありありと(にじ)ませ俺の耳に届く。


 床から見上げる机の(へり)と教室の天井。

 その絵面に、眼鏡を掛けた女生徒の逆様(さかさま)になった姿が見切れる。

 整った顔だちなのに、意固地に思えるほど引っ詰めた髪型がその容姿にきつい印象を与えている。


 昭島由里亜か──。


「なんでもない。大丈夫だ」


 ぶっきらぼうに返す鷹宮の声。

 今の俺の視界には映っていないので、彼女が今どんな表情で喋っているのかは分からない。


「遥香様」


 (とが)めるような昭島の口調。

 続いて鷹宮の短く吐き捨てるような溜息。


「なんでもありません。ご心配には及びません」


 言葉遣いのみならず、鷹宮のその声音からは不機嫌な含みが完全に消えていた。本当になんでもなさそうだ。


 俺の方はなんでもなくはない。「お怪我はありませんか」と心配される必要があるとすれば俺の方だ。というか、突然の暴力に対し説明と謝罪を求む。


「よろしいです。お車の準備が整っております。参りましょう」

「すぐ参りますから、先に向かっていてくださるかしら?」


「なりません。鷹宮家の令嬢たる者、密室で男性と二人きりになるなど。許されないことです」


 もう一度鷹宮の溜息。

 そして机の上からカバンを開け閉めする音が聞こえてきた。


「《本日のことはご当主様に報告させていただきます》。どこで、どのような噂が立つとも限りませんので。今後はくれぐれもご自重くださいませ」


 鷹宮はそれには答えず、そのまま無言で教室を出ていってしまった。


 二人が去った後、俺はようやく身体を起こし、そのまま床の上に座り込む。

 掌を見つめ、さっきまで、すぐ届く距離にあったはずの鷹宮の背中の感触に思いを馳せる。


 ただの強がりかもしれないが、落ち着きを取り戻した今は不思議と、あのままなし崩しで彼女に触れてしまわなくて良かったと思えていた。

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