◆6月30日 窓際の二人(1)
スゥと息を吸い、肺に空気を溜める。
自然とそれで背筋が伸びる気がした。
まったく。不意打ちは困る。今度こそ聞き間違えないようにしなければ。
俺は教室の机を挟んで正面に座る夏服姿の同級生──鷹宮遥香と、しっかり目を合わせて口を開いた。
「すまん。もう一度言ってくれ」
鷹宮は短く息を吐き、いったん机の上に視線を落とす。
こめかみの辺りから垂れた絹糸のように艶やかな黒髪を耳の後ろにかき上げる仕草。
六月の暑気に当てられ、しどけなくする女性らしい所作に俺は一瞬で夢中になる。
視線が、彼女の白く細い首筋に、吸い寄せられる……。
「俺は男なんだ。だからお前の好意には応えられない」
「え? なんだって? もう一回頼む」
「おい、何回言わせるんだ。いい加減分かれよ!」
ついに鷹宮は怒りだして立ち上がる。
膝裏で跳ね上げた椅子が乱雑な音を立てた。
俺たち以外には誰もいない空き教室。
窓際の席の二人。
椅子の背もたれに腕をのせ、逆向きに跨った俺は、彼女を斜め下から見上げる格好になる。
鷹宮が勢いよく立ち上がったのは、身体全体で憤りを表明する以外にも目的があったようだ。俺が呆気に取られている前で、鷹宮はスカートのプリーツをつまんで持ち上げようとしていた。
話の流れからして、もしや中のものを見せて証明しようとしているのでは、などという下衆な連想をしてしまい俺は慌てる。
が、持ち上げられた裾は、微妙に絶妙に中途半端な位置で止まり、その位置を上限としてパタパタと上下するだけ。どうやら汗で貼り付くスカートを脚から剥がし、中に風を送り込もうとしているらしい。
それは分かったが、だとしてもやはり健全な高校生男子の俺としては動揺せざるを得ない。
「ちょっ、ちょーっと待った。いくら暑いからってそれはないだろ? 男が見てる前で、女子がするこっちゃねーよ」
俺は顔を背け、両手を前に掲げて振り、必死で目の毒ですよアピールをする。そうしつつも眼球だけはしっかりとスカートの裾の動きを追っていた。
さすがにうっかり下着を覗かせるほど高く持ち上げたりはしないが、捲くれ上がる端から見え隠れするほっそりと白い太腿はそれだけで十分煽情的だ。
ついでに言わせてもらえば、別に生脚が見えなくとも、スカートの布地の上から脚の起伏を窺い見るだけで十二分にエロいわけだが。
「聞いてたか? 女子じゃない。俺は男だ。これで三度目だぞ」
鷹宮は納得いかない様子ながらも手の動きを止めて座り直し、軽く椅子を引いた。
よかった。不機嫌ではあるが、まだ俺との会話は続けるつもりがあるらしい。
彼女が腰を下ろすと、フワリと風が起こり、ほのかな香りが俺の周囲を過ぎていった。そのものズバリを言い当てるだけの高尚な知識は持ち合わせていないが、何らかのフローラルな、女性らしい香りにドキリとする。
そう。やはり《彼女は極めて女性らしい》のだ。
さっきのような大胆な行動や、原則で塩対応な言葉遣いはギャップがあるが、鷹宮は黙ってそこにいれば極めて女性らしい。
華奢で可憐で、いっそ神聖とさえ呼べるような、誰もが見惚れる美少女の姿かたち。……そうとしか見えない。
「おい。あまり変な目で見るな」
鷹宮は俺の視線を拒むようにして椅子の上で身をよじらせる。
実際はそんなことで隠し果せるはずもなく、むしろ、捻ったせいで夏服の薄い生地の上からボディラインがより浮き出て見えるくらいだったのだが。
鷹宮のさっきの言葉を真に受けるなら、あの、艶めかしい曲線で彩られたプリーツの下には、まさか……その……、生えている、のか?
およそ信じられる話ではないが、めくってみなければ確定できない──シュレディンガーも赤面を禁じ得ない量子の謎がそこにはあった。
その謎から俺は1ナノ秒たりとも目が離せなくなる。
「言っておくが身体は普通に女だからな」
「……な、なんだ。男って、そういう……」
あせったぜ。つまり、あれか。性同一性障害というやつか。肉体的な性別と、本人の性自認が一致していない事例……。そうなのか。
身近で、しかもこんなとびきりの美少女でその実例を知ることになるとは驚きだが、最近ではそういった悩みを抱える人々の存在は比較的知られるようになっている。
その悩みを取るに足らないと言うつもりは毛頭ないが、最初に膨らませた想像と、それによって受けた衝撃の大きさもあって、俺は些か拍子抜けする思いがした。
そんな俺の心の内を見透かしたのだろう。鷹宮が今度は別の意味でムッとしたように眉尻を上げた。
「違うぞ? たぶんお前が考えているような話じゃない。本当に俺は男なんだ。……あー、いや、正確には男だったというべきかもしれないが」
「…………」
センシティブな話題だ。慎重に言葉を選ばざるを得ない。それにしても、不機嫌に表情を歪めた顔も飛び切りチャーミングだぜ鷹宮……。
然るべき間を置いた後で俺はこう応える。
「分かった。工事済みだってこと──」
「違う!」
熟慮の末に切り出した俺の言葉が食い気味に遮られた。
意外な大声によって二の句が継げなくなる俺。
「あ、いや。悪い。考えてみれば、今のはそこまで外してないのかもしれない」
「?……じゃあ、やっぱり性転換手術を……」
俺の語尾がモゴモゴとフェイドアウトする。
性同一性障害で、元々男の身体だったのが女性の身体になったのだとしたら、心は女のはずだから話は逆だよなあ、などとボンヤリ考えていた。
あるいはそれが、《彼女が高校二年の中途半端な時期に転校してきた理由》だったのだろうかという当て推量も。
今現在、心も身体も女性であるのなら、俺たちの間には何も障害はないはずだ。性同一性障害でありつつ、パートナーに関しては同性愛嗜好という複雑な話なら別であるが。
ここは勇気を出して、俺の方は全然気にしない、今の鷹宮が好きなんだとハッキリ伝えるべきだろうか。
「考えられるとしたらもっと大掛かりなものだ。
生体間移植……。たとえば脳を丸ごと取り替えられた……という可能性は十分あり得る話だと俺は考えている」
至って真剣な眼差しで荒唐無稽な推論を語る極めつけの美少女。
このときになってようやく俺は、自分がとんでもない相手に惚れてしまったのではないかと感づき、ジッと汗ばむ暑さの教室で、ひとり背筋を震わせたのだった。
【読書ガイド】
出だしの軽いノリとは裏腹に、かなり読み手を選ぶ作風のようです。
序盤のラブコメ色強めなノリが苦手だというかたは、ひとまず流し読みでも良いので「水族館デート」回の終わりまで(24話あたりまで)、心を無にして一気に読み進んでみることをお勧めします。
頭を使って読むのが苦手だというかたも同様に。
一回、「あ、そういうことなの?」と分かると、序盤の所々にあった違和感にも、いろいろ腑に落ちると思います。
ただ、そこで1回目の真相にたどり着いた後も、そこからさらに二転三転を残していますので、読み応えを求めるかたもどうぞご安心を。
敷居は高いと思いますが、ぶっ刺さる人にはこれ以上なくぶっ刺さる……はず。
どうぞよしなに。